感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

集合知と作家性

システム論とかアーキテクチャとか環境設計とかが批評の話題になって久しい。このブログでも何度か好意的に紹介してきたところである。そういった発想は、いうまでもなく主体性に根拠を置くのをこころよしとせず、実存とか主体性を前提にした超越論的な契機を切り離すことで成り立っている。
前者の理想モデルは、記号や感覚データの断片を組み合わせる集団知の営みが結果的に(社会にとって適切な)構造操作に寄与することになる、というような自生的な設計主義だろう。後者は、構造操作をしながら新たな世界認識にブレークスルーすることが目指される。それはたとえば、自然科学的な仮説と証明のたゆまぬ脱構築が好例だ。
90年代までの批評が後者の現代思想的なロジックに占有されていたとすれば、ゼロ年代後半の批評は前者のシステム論的発想が台頭してきた時代に当たるといっていい。
最近こういう動向に対して、個別の作家なり作品分析ができないではないかという疑問が出ている(たとえば「サイゾー」3月号の「サブ・カルチャー最終審判」宇野常寛更科修一郎)。もっともな疑問である。システムとか環境に還元する議論は、作品の単独性を保証するクリティカルな側面や作り手個人のいわゆる作家性が論じられないからだ(括弧に入れているだけだというのは口実にすぎない)。
実際、それは社会や時代を反映させるような形での批評にしかならない可能性は高い。そのような可能性を回避する自覚的な批評であっても、たとえば「そういう社会や時代を自覚的に表現にとりこみえた作家の批評性」のようなものに回収し、表現とは別の次元である作家の倫理を評価する批評になりかねない(たとえば大塚英志サブカルチャーと倫理批評、あるいは東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』)。それはむろん実存なり主体性を温存させる方途でしかあるまい。
他方、感覚データの断片(萌え要素等)を組み合わせる集合的な営みをひたすら洗練させる批評の可能性もあるだろう。しかしそれもまた実存的な契機を隠し持った差異化のゲームに終始しかねないことは、いまやよく知られたところである。
けっきょくのところ、(個々の主体を動かす)システムや環境設計の議論と作品の単独性なり作家性とは相性が悪いものと結論付けるべきなのか。前者の発想では後者を議論できないのか。というとそうではない。
そもそも、システムとか環境を可視化するアーキテクチャが整う以前から、などという必要もなく、小説や美術といった美的判断を核にしたジャンルは、実存的契機に回収されない形で表現を組織し、その環境なりシステムを育むものではなかったか。
もちろん主体や実存を表現の問題にセットアップしたのも文学だったが、それは一つの成果にすぎない。「私」の身辺雑記的な記号・感覚データの配列を組み換えることで私小説的な差異化のゲームに興じたり(私小説)、「私とは何か」を問い詰めながら新たな認識構造の再編を企んだり(私小説批判、モダニズム、四人称)することは、その成果の上に成り立った営為である。それらは別様の営みだが、究極的には実存とか主体性に依存し、回収されるものだった。
しかし、美的判断を核にしたジャンルは、実存的・超越論的な契機に回収されない形で表現することこそが重要な条件である。それは複数のジャンル(の方法・要素)を総合的に組み合わせることで表現を生み出すジャンルだからだ。わかりやすい例を挙げれば、私小説の一変種(太宰的な)とデータベース消費を組み合わせた佐藤友哉を想起してもいい。刑事探偵ものと超常現象系のジャンルを組み合わせた「キイナ」でもいい。ファンデーションなのに美容液の「クリアエステヴェール」でもまあいい(2001年の化粧品種類別認証制度の撤廃によって可能になった)。
彼らは一つのジャンルの構造(操作の可能性)を限界まで突きつめるメタ作家ではないし、与えられた構造(アーキテクチャ)の中で感覚データ・記号の組み換えに興じる匿名的な集団でもない。
レヴィ・ストロースは、前者を科学的営為とし、後者を(前近代科学的な)ブリコラージュとして、後者にポスト実存主義(=構造主義)的な可能性を見出しつつ、美術的創作をその中間に位置付けたのだった(『野生の思考』)。つまり、匿名的な構造内操作と構造からブレークスルーする偶発事(出来事への予期)を併せ持つものが美術的創作であり、その切り結び方の発見が美的感動をもたらすのだということである。メタ作家でありながら匿名的集団に内属すること。それはジャンルの橋渡し・重ね合わせによって果たされるだろう。
ロザリンド・クラウスは、シュルレアリスムを評価するさいに、従来の美術史のフレームではなく(それではシュールは語れない)、写真のフレームをもってきた(『オリジナリティと反復』「シュルレアリスムの写真的条件」)。それと同じように、たとえば佐藤友哉を、既成の文学観なり特定の評価軸から批評することほど意味のない営為はあるまい。
彼は与えられたジャンルの中で作家性を維持している(私小説大好きな僕!)わけではない。同様に誤解されがちだが、あるジャンルからの超克の身振りで作家性を維持している(エンターテインメントから純文学へ)のでもない。
彼は複数のジャンルを操作する、それ自体自律したジャンルにほかならない。佐藤友哉という作家性はそこから備給されているのだ。
古川日出男のような従来の文学観でははかれない作家たちがよく読まれるのも、文学が好きだから(古川を読むの)ではなく、古川が好きだから読まれるのである。しかし古川が組織する表現とその作家性は、いわゆる実存とか主体性とは異質のものだ*1
複数のジャンルを橋渡しし、重ね合わせることで美的な表現を組織し、その場を育む彼らを形容するのにふさわしい言葉は、たとえばメディアであり、インターフェイスであり、ハブ等々といったものだろう。
まとめよう。アーキテクチャに支援された集団製作か(映画からニコニコ動画まで)、個人の作家性かといった二分法では、文芸批評は展開できない。もちろん、集合知なり集団製作がモダンの呪縛(作家性)を乗り越えるという図式からも、文芸批評は距離をとらねばならないだろう*2。この種の図式の主張は、とりわけメディアの再編期にしばしば現われるが(たとえば1930−40年代のアーツ&クラフト運動=民藝、中井正一、大正新興芸術運動、ベンヤミン等々)、けっきょく二分法の範囲にとどまるものだった。
くり返せば、問題は個人か複数かではない。というのも個人それ自体が複数だからであるのだが、そのような現代思想的でベタな文句はいまや失墜して誰もが見向きもしなくなったものだとはいえ、それは思考のメタファーとして、いまでもある種の「照れ」(蓮實重彦)とともに、批評を組織する重要なきっかけであり続けていることは、僕たちの心に留めておいてもいい。

*1:物語のプロットにのみ準拠し、その無数の組み合わせでエンターテインメントの消費財を生産するハリウッド的なシステムは、グローバルな形で実存的契機を乗り越える最右翼の傾向であり、佐藤や古川のローカルな実存の乗り越えとは真逆である。グローバルな乗り越えは、設計主義的な集団製作論と相性がいいだろうし、政治的にはファシズムとの相性がいい。これに耐えられない場合、大塚英志のように倫理を接木する啓蒙主義に転じる。

*2:とはいえ、「サブ・カルチャー最終審判」の結論のように、アンチ「ニコ動」のあまり作家性に回帰する主張にも与することはできない。