感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

水村美苗の『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

水村美苗の『日本語が亡びるとき』ようやく読んだ。発売以来ネット上では毀誉褒貶のレヴューがあふれかえり、一部からは「トンデモ本」などと呼ばれているようだけれど、そんな軽薄なものではまったくないし、個人的には良書だと思う。「あとがき」にもある通り水村氏の周辺には柄谷行人がいたり、岩井克人がいたりするわけだけど、彼らがとくに活躍した8・90年代に輝いていた批評の良質な部分を上手に消化している印象を受けた。この本が「トンデモ本」と一蹴されるとき、かつての文芸批評の想像力のあり方にはいまや実効性がないのだろうなあと、少し寂しい気持ちになったものだが。
水村氏によれば、いまある様々な「国語」は、ローカルな「現地語」でしかなかったものが、世界性を担う「普遍語」――ラテン語・漢語・アラビア語など――の「翻訳」を通して形成されたものだ。その「国語」によって書かれた近代文学は、ローカルなものでありながら、それ自体で世界性を担うまでになった。しかしいまや英語が単独で普遍語化し、その一方で諸国語の影響力が衰退している。そういう状況にあって、国語と文学はどうあるべきか? というのが本書の論旨である。
本書の結論は、夏目漱石二葉亭四迷といった近代文学の端緒を飾る作家を「読むべき」文学とし、最近の文学に思い入れがない。そこのところを批判する向き(現代文学擁護派)があるが、水村氏の文学趣味を批判しても水掛け論になるだけである。むしろ彼女の議論の核心は別にある。それを踏まえれば、水村氏が近代文学を「読むべき言葉」だとするのは論理的な整合性があると言わねばならない。
本書は、文化防衛論的に、亡国を嘆いて活気があった近代の端緒を回想するものではない。むろん、一部から評価を受けているような英語礼賛のビジネス本でもない。
+++
水村氏の論旨は、複雑なようにみえるがとてもシンプルである。まずは、日本の近代文学がどのように形成されたのかという本書の核心的な議論をまとめる。それは一言で言えば、「翻訳」によって日本の近代文学は成立した、ということである。
より厳密に言うと、当時世界的に主要だった言語――近代において「普遍語」の役割を代行する英語・ドイツ語・フランス語を中心にした西洋語――の翻訳を通じて近代日本の「国語」が形成されたという言語的条件において、日本の近代文学(「国民文学」)が成立した、ということである。そして「国語」の形成においては、いかなる政治的プランよりも、学問、そしてとりわけ文学が貢献したと水村氏は言う。なぜなら、文学にたずさわる彼らは、言語における書き言葉と話し言葉の本質的な違いを知っていたからである。
書き言葉(文字)は話し言葉を再現・記録する手段でしかないと考えるのが通常だが*1、文学にたずさわる者は、書き言葉はそれ自体自律したシステムであることを知っている。むしろ「翻訳」こそこの言語にそなわる本質的な違いを露呈する営為であった。
かくして彼らの「翻訳」は、世界性を担う西洋語を読みながら、西洋語では書かず、世界性を独自に担える自分たちの「国語」として書き改める、という過程をとったのだった。日常の話し言葉でしかなかった「現地語」としてのローカルな日本語(各方言)を束ね規定する「国語」がここで完成する。そしてその「国語」によって、世界性のあるテーマ(人間とは? 社会とは?)を問題にしながら、日常の些末な私事をも表現できる、新たな文学(「国民文学」)のフォーマットがセットアップされることになったのである。
以上のような歴史的考察を踏まえ、水村氏は現状分析を展開する。それは一言で言えば、英語の普遍語化である。いまや英語は、政治経済のみならず、学問や文学をはじめあらゆる分野で一極集中化し、単独で世界性を担うようになっている、ということである。それに対して、他の「国語」は単なる「現地語」に逆戻りする可能性すら考えられるようになった。
このような言語的状況を反映するように、文学をはじめ様々な文化商品は、世界性をまったく考慮しない「幼稚」な表現に内向し、細分化されたジャンルごとにタコツボ化する傾向が一方にあり、もう一方で、娯楽を追及したグローバルな文化商品が世界市場を席巻している(ハリーポッターとハリウッドの商業映画)。
このような文化的現状を嘆く水村氏は、近代文学の端緒に可能性を見出す、というのが本書の結論である。近代文学の端緒とは、言語と文学が「翻訳」として強く意識されていた時代である。「翻訳」とはつまり、外の言語体系から自分たちの言語体系を練り上げる過程であり、そこでは書き言葉が話し言葉の外部にあることがつねに意識される。書き言葉としての「国語」は、自分たちのものでありながら、他の言語との関係から外側に開かれたものでもあり、それ自体で自律した体系をそなえているのである。
「幼稚」に内向する表現も、グローバルな娯楽表現も、この翻訳にそなわった二重性を忘却した上で成り立っているものにすぎない。だから文化を賦活するためにいまこそ近代文学の端緒が残した成果にスポットを当てるべきだ、と水村氏は唱えるのだ。
このことは言語のレベルにも言える。つまり、英語を当然のように母語としながら他民族・多言語主義を提唱する楽観主義者も、「国語」(「国民文学」)は黙っていても修得できるものだから、国際化したいまこそ学習すべきは英語だと強迫的に信じている亡国的?愛国的?人々(国語教育からITまで)も、水村氏にしてみれば、言語にそなわる翻訳の二重性を忘却しており、英語が普遍語化している現状を各々の文脈においていかにサバイヴするかという問題を、形式的にも文化的にも考察する前提を、彼らは決定的に欠いていると言うのである。
私は水村氏の議論におおむね同意する。ただ一点だけ、水村氏の議論からはよく見えてこない視点があり、そこが疑問である。それは、水村氏が「翻訳」の問題を知のレベルに限定しているように見えるところである。水村氏にとって「翻訳」は、「叡智を求める人」が、外の言語が内蔵する知を知りたがるところに根拠付けられる。だから「翻訳」の問題は、知性を主体にしたその可能性と不可能性というレベル以上は問われない。「翻訳」とは不可能性にさらされながら自分たちの知的体系を補完していく作業であり、それは外と内の間でたえず外部性を指し示すものである、というわけだ。「商品価値」に還元されない「文学の価値」もこの営為にいかに関わるかに求められるだろう。
しかし、「翻訳」とは、それとは別に共感可能性の問題でもあり、そこが核心的な部分でもある。つまり、他の可能性もあったのに、「love」は「恋愛」という言葉になり、共感をもって使用されるようになるということ。それは狭義の「翻訳」にとどまらない。たとえば最近の「ひきこもり」という造語や「ストーカー」といった新たな意味の付与、語義の転用にも言える。水村氏が指摘する通り、ジャンル間の翻案をくわえてもいいだろう。
別の言語体系から当の言語体系に言葉を変換させ、共感をもって、あるいは暴力をともないながら受肉させるという側面を「翻訳」は不可避的にもっているのである。
そしていうまでもなく、共感可能性を扱えるのは美のカテゴリーである。しかし、水村氏は、「翻訳」の問題と同じように、文学を基本的に知のカテゴリーに縮減しているように見える。あるいは二つのカテゴリーを混同し、知性優位の自分の美学を「文学の価値」として前提している向きがある*2
そもそも「翻訳」には、未知なる相手のアイデアを知りたいという知的欲求とともに、相手と関わりたい・相手のコミュニティーに属したい(文化的にせよ政治的にせよ経済的にせよ)というコミュニケーションの欲求もある。
しかも、情報がくまなく行き届くデジタル・メディア環境が整備されつつあるいま、「翻訳」は知の連鎖よりも共感の連鎖にこそ動機付けのウェイトが置かれるケースが多々あるだろう。ネットを中心に、検索エンジンやブックマーク、レコメンド機能といった情報処理・情報編集の技術が、個人的な趣味と共感文脈の育成支援のアーキテクチャとして注目を集めているのは、この背景があるためである。
かつて近代にあっては、水村氏の「図書館」の比喩が示唆する通り、言語(国語)とそれに対応する出版・教育システムが情報の共有を促進し、その抽象的な知的形式が趣味と共感の形成(「想像の共同体」)を下支えしたわけだが、いまや、趣味と共感をいかに分節し組織するかという問題に対応する技術が情報(知)の流れと偏差を規定するようになっていることは明らかである(たとえばサブカルやオタクの消費の仕方)。「翻訳」もこの文脈に対応せざるをえないだろう。とくに知的体系によりかかれず美のカテゴリーに関わる分野の場合*3
+++
水村氏は、おりにふれ「読まれるべき言葉」を読み書きする能力を養うべきことを提唱する。水村氏にとってそれは何より近代文学の端緒にあるのだが、本書の結論の最後になるほど増殖するこの「べき」は、水村氏の明晰な議論には還元されない思いである。そこには、水村氏の倫理と美学がこめられている。しかし水村氏は自分の倫理と美学(趣味)を説得する意志とその修辞的技術を欠いている。ゆえに本書は――理論的な言語分析の部分は時宜にかなった英語普遍語化論とその対応策として読まれる一方――近代文学を中心に文学を論じる部分は、時代に取り残された年配の啓蒙という印象を強め、反発にあうことになる。
むろん、本書の議論に反発し、近代文学をいまさら持ち出すなよという考えも誤解である。水村氏の考えの通り、近代文学は「翻訳」という観点からいまも検討すべき点が多々ある。
思えば、近代文学の端緒の端緒にいる二葉亭四迷は、翻訳を通して自分の作り出した表現がのちに「読まれるべき言葉」になるとは思ってもいなかっただろう。彼にとって文学は「男子一生の事業」ではない。しかし結果的にはそうなった。
驚くべきことは、四迷が自分たちの言葉と文学を編み出すとき、日本近代文学という知の体系は存在しなかったということである。彼の周りには、西洋文学の翻訳を通して肉付けすべき自前の言葉と文学などなかったのだ。あるのは、漢文由来の政治小説と、口語由来の講壇本(当時完成された速記技術が貢献)や戯作だけである。それらと西洋文学の交互「翻訳」をこなしていったのが四迷の文学的成果であった。四迷も漱石も一作ごとに作風を換えていったが、それは、「読まれるべき言葉」の多様性の知的操作などではなく、自分たちの言葉と文学の根拠のなさの表明であり、端的に自信がないのである。
このように彼らはたえず(西洋文学のアイデアの)「翻訳」の不可能性にさらされながら、日本近代文学を共感可能なものに肉付けしていったのである。
そして最後に、彼らの語学力は必ずしも文学のために培ったものではなかったことも、水村氏が触れなかった翻訳秘話として記しておきたい。四迷のロシア語は当時勢力を伸ばしつつあったロシアとの外交問題に興味があったからである。森鷗外のドイツ語(とフランス語)は医学校入学を見据えたものだった。漱石の英語は、成績は抜群だったがもとより興味があったわけではない。しかし彼らの語学力による「翻訳」は、各々作動しながら近代文学の形成に貢献したのだった。
+++
新年好。去年の暮れから僕の念頭にあるのは、ハイレッド・センターからChim↑Pomの流れと内向の世代から古川たちの流れ。公共性なり日常性に潜む変てこなものにフェティッシュに(知的・衒学的に)拘泥せず(「超芸術トマソン」に陥らず)、感染の媒体に変換すること。上のエントリーの文脈で言い換えれば、文学は自分たちの「書き言葉」を再利用しながらそのような媒体に練り上げていくべきだ。それしか文学が影響力をもち続ける術はない。
鹿島田真希の連載完結した『ゼロの王国』はその手がかりとなるだろう。おお、鹿島田真希、このブログを始めたきっかけは彼女の文学を読む躓きにあったのであり、このふざけた素晴らしい作家はガチで論じなければならないと思っています。

*1:この常識にそって「国語」を作り出そうとする政治家・官僚たちは、音声中心主義的な発想にのっとって漢字排除・総仮名化・総ローマ字化という単純なプランしか考え出せなかった。

*2:水村氏も指摘する通り、文学が諸学問の一部でありながらそれを代表することができたのは、近代という時代の特殊な条件があったからである。

*3:最近の文学事情については前回のエントリーを確認してください。http://d.hatena.ne.jp/sz9/20081201