感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

小説のプログラム 内言篇

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小説は近代の文学として誕生した。近代文学とはすなわち小説のことである。小説が前時代の文芸ジャンルと異なる点はいくつかあるが、内面描写(以下「内言」とする)を重要な構成要素として取り入れたところが決定的だったといっていい。
前時代の文芸ジャンルは、語り手のポジションが重要視されていた。話芸としての要素が大きかったのである。明治20年に『浮雲』(1887−9、二葉亭四迷)が発表されたのを端緒に近代文学はスタートするが、それまで明治開化の文壇をにぎわしていたのは、戯作と政治小説である。
戯作は、前時代から継承された文芸ジャンルである。政治小説は、明治の近代化以降、自由民権運動が活発になる中で設立された政党のプロパガンダとしても期待された新規の読み物だが、形式としては、伝統的な漢詩文のスタイルを継承したものであった。いずれにせよ、戯作も政治小説漢詩文)も、スタイルが違えども、語り手のポジションが重要なのは変わらない。そこでは、語り手の教養がためされる古典からの引用、教養に裏打ちされたレトリック、多彩な文末詞とリズミカルな語り口といった挿評的な要素が、物語の内容以上に重要だったのである。言い換えれば、それら語り手を明示する挿評的要素をフックにしながら物語世界に読者は入ることができたのだった。
小説はこれとはスタイルが異なる。たとえば坪内逍遥は小説を定義するに当たって「小説の主脳は人情なり」(『小説神髄』1885−6)といった。それを受けて『浮雲』は書かれた。だから、物語内キャラクターの人情(内面)を表現すること(内言)は、小説を開始する当初から内蔵されたプログラムだったといっていい。
内面を表現すること。キャラクターが自分の境遇に悩み(自己言及的苦悩)、それを読者が共感するように内言を組織すること。これを実現するために試みられたことは、語り手への依存をやめ、挿評的要素を消去することだった。
そして『浮雲』が試みたのがまさにそれだったのである。とはいえ、後半に進むほどうまくいってはいるものの、要所要所で失敗している点は見逃せない。以下は、お勢という女性を思う主人公・文三の内言シーン。

お勢は実に軽躁[かるはずみ]で有る。けれども、軽躁で無い者が軽躁な事を為ようとて為得ぬが如く、軽躁な者は軽躁な事を為まいと思ッたとて、なかなか為ずにはおられまい。軽躁と自ら認めている者すら、尚おこうしたもので有ッてみれば、況してお勢の如き、まだ我をも知らぬ、罪の無い処女が己の気質に克ち得ぬとて、強ちにそれを無理とも云えぬ。若しお勢を深く尤[とが]む可き者なら、較べて云えば、悄々学問あり智識ありながら、尚お軽躁を免がれぬ、警えば、文三の如き者は(はれやれ、文三の如き者は?)何としたもので有ろう?[中略]何事につけても、己一人をのみ責めて敢てみだりにお勢を尤めなかッた。が、如何に贔屓眼にみても、文三の既に得た所謂識認というものをお勢が得ているとはどうしても見えない。軽躁と心附かねばこそ、身を軽躁に持崩しながら、それを憂しとも思わぬ様子。醜穢[しゅうかい]と認めねばこそ、身を不潔な境に処きながらそれを、何とも思わぬ顔色[かおつき]。これが文三の近来最も傷心な事、半夜夢覚めて燈冷かなる時、想うてこの事に到れば、毎[つね]に悵然[ちょうぜん]として太息せられる。/して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみが嘗め足りぬそうな!

語り手を示す要素が薄められるのに対応して、主人公・文三の内言が現前化する様が見て取れるが、文三の内面への追及が徹底されると必ず語り手が前面に出てくるのを、作家はどうすることもできないでいる。語り手がキャラクターを覗き見ながら揶揄し批評する戯作の伝統に縛られているのである。これを克服するためには、語り手をキャラクターの背後に重なるように透明に配さなければならないのだが。
この問題は言文一致運動とともに二十年間にわたって取り組まれることになり、およその決着をみせたのが明治39年の『破戒』(島崎藤村)と40年の『蒲団』(田山花袋)であった。そこでは語り手が介入することなく、キャラクターの内面が思う存分開陳されることになる。以下は『蒲団』からの引用。女弟子の師匠でありながら、性的惑溺におぼれる主人公・時雄の内言シーン。

時雄は例刻をてくてくと牛込矢来町の自宅に帰って来た。
渠は三日間、その苦悶と戦った。渠は性として惑溺することが出来ぬ或る一種の力を有っている。この力の為めに支配されるのを常に口惜しく思っているのではあるが、それでもいつか負けて了う。征服されて了う。これが為め渠はいつも運命の圏外に立って苦しい味を嘗めさせられるが、世間からは正しい人、信頼するに足る人と信じられている。三日間の苦しい煩悶、これでとにかく渠はその前途を見た。二人の間の関係は一段落を告げた。これからは、師としての責任を尽して、わが愛する女の幸福の為めを謀るばかりだ。これはつらい、けれどつらいのが人生[ライフ]だ! と思いながら帰って来た。

かくして内言は小説の構成要素として十全に機能するようになり、技法化されることになる。『日本近代文学の起源』の柄谷行人は、この時期言文一致という近代的な言語システムの成立によって内面は発見されたのだ(近代人の成立)といったが、その内面を語るために文学もまた自分の構成要素の重要な一つとして内言を練り上げていたのである(近代文学の成立)。
これ以降、作家はこぞって内面を語ることになる。小説を自身の内面を語るツールとして利用するようになる。形式的な技巧を凝らすことは否定され、内面告白こそ文学の価値であると建言される(「露骨なる描写」明治37=1904年、田山花袋)。告白小説が注目を浴び、私小説が文壇に大きな勢力を占める時期である。
いまや、時雄の女弟子の女学生までもが「言文一致で、すらすらとこの上ない達筆」(『蒲団』)で文章を書けてしまう時勢。多少学を積めば、「礼儀正しい候文」と「言文一致」のスイッチングも余裕でできる。花袋が技巧を否定し、内面告白に重点を置いたのは、いまや形式的な技巧では勝負できないという危機感があったからである。『蒲団』の時雄が女弟子を最終的に追放したのも、自分の性的惑溺を抑えるためというより、この危機感があったともいえる。そして時雄=花袋はこの女弟子の不在の後、彼女との「情事」を内面告白に利用し、カミングアウト小説を世に問うたのだった。
ただし、「候文」(旧文体)と「言文一致」(新文体)を場面に応じてスイッチングできる女弟子をキャラクターに採用した花袋は、内面というものは新しい言語システムによって作られた、想像の産物であることを知っている(大塚英志物語消滅論』他)。言い換えれば、花袋や藤村の世代は内面が発見されたものであることを知りながら私小説や告白小説を書いていた。花袋の「露骨なる描写」はその意味できわめて政治的に意図されたものだったということができるだろう。
しかしのちの世代においては、表現の素材として告白すべき内面は自明なものになる。不特定多数に表現すべきオリジナルな内面が個々人に備わっているはずだと、彼らの多くは信じたのだ。私小説をバックアップする早稲田派の谷崎精二は、兄の潤一郎がアンチ自然主義私小説)として糾弾されている状況を見かねて、作品よりも実生活を見なければ兄の作家としての良さはわからないという、きわめて倒錯した評言を口にしもしたが*1、まさにそれがまかり通る時代だったのである。いまや内言は、小説の構成要素として過大評価され、普及することになる*2
かほどに内言に信頼を置くその無邪気さを批判する向きももちろん当時からあった。しかしその批判が一つの大きな流れになるのはもう少し待たねばならない。そう、モダニズムの時代である。まずは『機械』(1930、横光利一)。『機械』は一人称視点を採用している。一人称視点は、「私」の内言を、語りの視点(カメラ)および分析・解説・考察(ナレーション)とリンクさせて、つまり語りの要素を一人称キャラクターの内言と重ねて物語を展開させるモードだが、『機械』はこれを内言批判のために意識的に採用したのである。語りと重ねがけされた一人称キャラクターの内言――言い換えれば、内言を軸にした語り――は、自己言及的な内省(内言)を徹底させ、語る私と語られる私を分裂させるだろう。

その夜私たち三人は仕事場でそのまま車座になって十二時過ぎまで飲み続けたのだが、眼が醒めると三人の中の屋敷が重クロム酸アンモニアの残った溶液を水と間違えて土瓶の口から飲んで死んでいたのである。私は彼をこの家へ送った製作所の者達がいうように軽部が屋敷を殺したのだとは今でも思わない。勿論私が屋敷の飲んだ重クロム酸アンモニアを使用するべきグリュー引きの部分にその日も働いていたとはいえ、彼に酒を飲ましたのが私でない以上は私よりも一応軽部の方がより多く疑われるのは当然であるが、それにしても軽部が故意に酒を飲ましてまで屋敷を殺そうなどと深い謀みの起ろうほど前から私たちは酒を飲みたくなっていたのではないのである。酒を飲みたくなったときより私が重クロム酸アンモニアを造っておいた時間の方が前なのだから疑い得られるとすると私なのにも拘らず、それが軽部が疑われたというのも軽部の先ずひと目で誰からも暴力を好むことを見破られる逞しい相貌から来ているのであろう。しかし、私とても勿論軽部が全然屋敷を殺したのではないと断言するのではない。私の知り得られる程度のことは彼が屋敷を殺したのではないといい得られるほどのことであるより仕方がないのだ。もともと軽部は屋敷が暗室へ忍び込んだのを見ているからは、彼を殺害する以外に彼に秘密を知られぬ方法はないと一度は私のように思ったであろうから。そうして私が屋敷を殺害するのなら酒を飲ましておいてその上重クロム酸アンモニアを飲ますより仕方がないと思ったことさえあることから考えても、彼もそのように一度は思ったにちがいないであろうから。だが、酒に酔っていたのは私と屋敷だけではなくて軽部とて同様に酔っていたのだから彼がその劇薬を屋敷に飲まそうなどとしたのではないであろう。よしたとえ日頃考えていたことが無意識に酔の中に働いて彼が屋敷に重クロム酸アンモニアを飲ましたのだとするならそれなら或いは屋敷にそれを飲ましたのは同様な理由によって私かもしれないのだ。いや、全く私とて彼を殺さなかったとどうして断言することが出来るであろう。軽部より誰よりもいつも一番屋敷を恐れたものは私ではなかったか。日夜彼のいる限り彼の暗室へ忍び込むのを一番注意して眺めていたのは私ではなかったか。いやそれより私の発見しつつある蒼鉛と珪酸ジルコニウムの化合物に関する方程式を盗まれたと思い込みいつも一番激しく彼を怨んでいたのは私ではなかったか。そうだ。もしかすると屋敷を殺害したのは私かもしれぬのだ。私は重クロム酸アンモニアの置き場を一番良く心得ていたのである。私は酔いの廻らぬまでは屋敷が明日からどこへいってどんなことをするのか彼の自由になってからの行動ばかりが気になってならなかったのである。しかも彼を生かしておいて損をするのは軽部よりも私ではなかったか。いや、もう私の頭もいつの間にか主人の頭のように早や塩化鉄に侵されてしまっているのではなかろうか。私はもう私が分らなくなって来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代って私を審いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。

「私に代って私を審いてくれ」というが、横光は、いかなる「私」も分裂した「私」を調停できない(メタレベルに立てない)ことを知っている。ここで横光が実験的に示したのは、この「私」の縫合しえない分裂の有様であり、それをないかのように縫合して内言を組織する告白小説や私小説の虚構性であった。かくして『機械』は内言の一つの可能性を、自己言及的に提示したのである。
『水晶幻想』(1931、川端康成)は、『機械』と同様に「意識の流れ」の技法を使って書かれたものだ。「意識の流れ」とは、心理学者のウィリアム・ジェイムズが、人の心的機能を秩序だったものではなく、脈略のないイメージの流れとして説明したことに端を発し、モダニズムの作家が小説の技法として転用したものである。伊藤整や横光がそれを日本に紹介・導入したのだが、その完成度の高い日本版が『水晶幻想』である。

夫人は正面の鏡のなかに、彼女の頬の美しい薔薇色を見た。(清潔に白い広々とした理髪店。そこのマニキュア・テエブル。動物の光る歯のやうな皮膚の娘に爪を磨かせてゐる夫人科医。)を思ひ浮かべて、夫人は頬の温かいしあはせに浮き浮きして来た。(透き通る水のなかに浮かんだ、美しい少年のバタックス。少年は蛙のやうに泳いでゐる。)夫が部屋を出て行つた。(みなさん、お行儀が悪いですね。女の子も男の子も一緒に裸で泳いだりして、と、川岸を通りかかつた学校の先生が言ふ。美しい少年が岸へ泳ぎ着くと、バタックスを日に光らせながら、草のなかに突つ立つて、でも先生、私たちは着物を着てゐませんから、誰が男で誰が女だか、ちつとも分らないんです。)夫人は鏡のなかの彼女が少女のやうにはにかむのを見た。彼女は少女であつた。その少女が思つた。

鏡の前に座ってひたすら内言(「」の中)を繰り出す夫人。記号の断片でしかない自由連想的な内言は、光の加減でうつろう鏡のイメージとして外在化されている。奥深くにある固有の内面を信じて告白をくり返す作家に対抗する、実験的な内言のアプローチだといえよう。
こうしてみると、内言がいかに小説において重要な構成要素であるかがわかるはずだ。これによって小説の可能性は狭まるのではなく、広げられてきたのである。次章では、戦後における内言の利用のされ方をみていこう。
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内言の効果的な利用として、ここでさらに注目したいのは、私小説ではなく、ブロークンな口語体である。戦後以来、内言の活用において可能性の一端を示しているのは、ブロークンな口語体の系譜に列なるものだからだ。
ここで小説の構成要素をまとめておこう。小説とは、内言にくわえ、描写と会話があり、この3点で物語が構成されており、さらに物語をその外から構成する語りの位相がある。語りは視点(カメラ)と分析・解説・考察(ナレーション)に分けられるだろう。この都合5点が主要な構成要素として物語を切り盛りするのが小説なのである(各論者によって違いはあるが)。
ブロークンな口語体とは、横光が利用した一人称視点の特徴である、語りと一人称キャラクター(の内言)の二重化を積極利用し、語りとリンクした一人称(「私」)の内言を軸にして、それによって描写・会話など他の要素を担った文体である。ブロークンな口語体を採用する作家はしばしば新しい言文一致を切り開いたと指摘されるが、そんなことよりも注目すべきは、「私」の内言を介して物語世界を構成することに自覚的な文体だということである。そしてこのブロークンな口語体を最初に採用したのが、周知の通り庄司薫である。

僕は時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず「ママ」が出てくるのだ。もちろんぼくには(どなるわけじゃないが)やましいところはないし、出てくる母親たちに悪気があるわけでもない。それどころか彼女たちは、(キャラメルはくれないまでも)まるで巨大なシャンパンのびんみたいに好意に溢れていて、まごまごしているとぼくを頭から泡だらけにしてしまうほどだ。特に最近はいけない。例の東大入試が中止になって以来、ぼくのような高校三年生というか旧東大受験生(?)というやつは、「可哀そうだ」という一点で一種のナショナル・コンセンサスを獲得したおもむきがある。なにしろ安田トリデで奮戦した反代々木系の闘志たちまで、「受験生諸君にはすまないと思うが」なんていうほどなんだからこれは大変だ。かくしてぼくたちは、まるで赤い羽根の募金箱か救世軍の社会鍋みたいにまわり中から同情を注ぎこまれたうえ、これからどうするの? 京都へ行くの? といった一身上の問題に始まり、ゲバ学生をどう思うかとか、サンパとミンセーのどっちが好きかとかいったアンケートまでとられて、それこそ、あーあ、やんなっちゃったということになるわけだ。(『赤頭巾ちゃん気をつけて』1968)

庄司薫についてはすでに詳しく述べたことがあるので*3、ここでは最小限の説明にとどめる。彼が内言を軸にしたブロークンな口語体を採用した理由は、社会的な背景があったということをまず確認しておこう。1960年代から70年代にかけて社会の価値観が大きく変容したのである。つまり、社会の成員が集団で共有しうる価値観があったのが60年代までであり、70年代以降、価値観は個々人がばらばらに有する個人主義の時代に入ることになったのだ。『赤頭巾ちゃん気をつけて』はちょうどこの転換期に発表されたものであり、物語の主人公・薫はじっさい、この二つの価値観の間で翻弄されるのである。
庄司薫は、10年前に福田章二名義で作家デヴューを果たしているが(『喪失』1958)、この作品では、『赤頭巾ちゃん』同様一人称視点だとはいえ、内言と描写、会話の各要素は明確に仕切られた、オーソドックスな文体を採用している。
それに対して、『赤頭巾ちゃん』での口語体採用は、70年代的な価値観(社会より個人)を踏まえたものであるといえよう。ただし、彼の場合、60年代的な価値観(個人より社会)との関係でやむなく70年代的な価値観を選択するというプロセスがあったのである。庄司薫のブロークンな口語体採用は、私的な趣味を楽しむためではなく、このような社会的問題が動機になっていることは注意したい。社会的問題ゆえに私的になるという「内向の世代」的な捩れが、彼の口語体採用にはあるのである。
その社会性は、しかし、橋本治の『桃尻娘』(1977)では抜け落ちるだろう。そこでは、ブロークンな口語体(女子高生の喋り言葉)は、女子高生の現代的な生態を活写するという機能以上の役割はない。

大きな声じゃ言えないけど、あたし、この頃お酒っておいしいなって思うの。黙っててよ、一応ヤバイんだから。夜ソーッと階段下りて自動販売機で買ったりするんだけど、それもあるのかもしれないわネ。家[ウチ]にだってお酒ぐらいあるけど、だんだん減ったりしてるのがバレたらヤバイじゃない。

桃尻娘」は以降シリーズ化され、消費社会の波に乗った。その内密で軽い口語体は、ラジオ聴取のDJとリスナーの関係を読者との間で育み、それ以上の社会的問題を問う必要はなかった。
ブロークンな口語体といえば、大阪弁に基づいたものもある。町田康はその代表的な作家であろう。町田的口語体の動因は、何かを表現し物語を語るというよりも、リズミカルな口語体の語り口そのものを愉しむことに求められる*4

もう三日も飲んでいないのであって、実になんというかやれんよ。ホント。酒を飲ましやがらぬのだもの。ホイスキーやら焼酎やらでいいのだが。あきまへんの? あきまへんの? ほんまに? 一杯だけ。あきまへんの? ええわい。飲ましていらんわい。飲ますな。飲ますなよ。そのかわり、ええか、おれは一生、Wヤングのギャグを言い続けてやる。君がとってもウイスキージーンときちゃうわ。スコッチでいいから頂戴よ。どや。滑って転んでオオイタ県。おまえはアホモリ県。そんなことイワテ県。ええ加減にシガ県。どや。松にツルゲーネフ。あれが金閣寺ドストエフスキー。ほんまやほんまやほんマヤコフスキー。どや。そろそろ堪忍して欲しいやろ。(『くっすん大黒』1997)

大阪弁式ブロークンな口語体の元祖といえば、町田のルーツとしてしばしば指摘される織田作之助ではなく、野坂昭如である。そう、あの野坂だ。自分の雑誌(「面白半分」)に春本まがいの読み物(「四畳半襖の下張」)を掲載し、わいせつ罪摘発された野坂。「四畳半襖の下張」は戦後まもない時期に一度摘発されたことがあるのだから、野坂がこのとき(1972)同作を改めて掲載したのはむしろ挑発的に煽ったわけで、面目を保つべく略式裁判で済ませたかった検察側に対して、野坂は裁判をショウアップし、わいせつ罪などという旧態然とした法を死守する権力を問題にしたのだった。表現による抵抗を終始続ける彼の口語体採用は、したがって、きわめて政治的・社会的な動機がある。庄司薫と同様に。

DDTは人畜無害やねんやろ、つまり体に別条ないわけやなあ」高田が頓狂にいい、それがどないしてん、DDTは虱の神経系統をこわしてしまうんやて、新聞に出てた、俺は虱にも神経なんかあるんかいなと、おかしかったが、いや、人畜無害かどうかわからんで、大阪駅上六天王寺京橋、電車乗り降りするたんびに、黒人兵のもった空気ポンプみたいなんで襟や袖や、さてはズボンのバンドゆるめ、シューいうて粉吹きこまれる。いかにも化学みたいな臭い立ちのぼり、おまけにぐりぐり坊主の頭もやられて、まるでしらくもみたいや、黒人兵厚い唇ゆるめてたけどあれ愛想笑いか、軽べつか、なんせ恥かしかったで、決して無害ではない。女の人は天幕かこった中でやられて、俺、ちょっとのぞいたら日本人の係員にえらいどなられた、女の人ももんぺの紐ほどいて、太い魔羅みたいなポンプシューとやられたんか、みんな中途半端な顔つきで出て来よったが。(「あゝ日本大疥癬」1969)

冒頭の「高田が頓狂にいい」以下の地の文をみると、会話(間接話法)か内言なのか、ここでは決定不能である。くり返せば、ブロークンな口語体とは、このように、語りの要素を担った一人称の内言を軸にして、それが他の要素をも担う文体である。そこには、内言・描写・会話の明確な仕切りはない。
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ブロークンな口語体の系譜を追うとき、忘れてならない作家がいる。もちろん、村上春樹である。彼は最近サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951)の新約(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』2003)を発表したが(邦訳の最初は52年)、庄司薫の口語体が『ライ麦』の野崎孝訳(64)に影響を受けたものであり、その庄司薫の問題系を引き継いで登場したのが村上春樹である以上(庄司のほぼ断筆と春樹のデヴューが79年)、この新約は、ブロークンな口語体繋がりで文学史上必然的な事件だったことを、僕たちは忘れないだろう。
村上春樹はブロークン度合いは少ないが、ブロークンな口語体の重要な側面を継承している。それは、自分好み、自分仕様のものとして物語世界を仕込むことである。村上春樹にとっては、世界(社会)は私によって恣意的に再構成できるものなのだ。
庄司薫のところで、60年代と70年代で価値観が変わったということを述べた。もう一つ、これを別の側面からとらえるなら、現実認識の変容としてもとらえられるだろう。60年代までは、現実はそれをあるがままに把握しうるというリアリズムの認識が優勢だったが、70年代以降は、現実は情報として把握しなければならなくなる、という変容である。現実と「私」の関係でいえば、60年代的現実認識は現実優位であり、70年代的現実認識は「私」優位となる。前者の場合、誰もが同じように把握できる現実が想定されるが、後者の場合、個々人が個々人なり所有する情報にしたがって現実をとらえる以上、現実は個々人に応じて無数に存在しうるということになる。村上春樹はこの70年代的な現実認識を背景にして、ブロークンな口語体が開いた問題系を継承したのである。では、それを彼はどのような方法で表現に還元したのだろうか。

僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ。

僕は以前、人間の存在理由[レーゾン・デートゥル]をテーマにした短い小説を書こうとしたことがある。結局小説は完成しなかったのだけれど、その間じゅう僕は人間のレーゾン・デートゥルについて考え続け、おかげで奇妙な性癖にとりつかれることになった。全ての物事を数値に置き換えずにはいられないという癖である。約8ヶ月間、僕はその衝動に追いまわされた。僕は電車に乗るとまず最初に乗客の数をかぞえ、階段の数を全てかぞえ、暇さえあれば脈を測った。当時の記録によれば、1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。
その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上った階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失ない、ひとりぼっちになった。

そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本目の煙草を吸っていた。(『風の歌を聴け』1979)

結論からいうと、ある事実なり事象に対して恣意的かつ私意的な情報を被せる、という方法を村上春樹は取ったのである。つまり「僕のペニス」に対して「あなたのレーゾン・デートゥル」を被せることであり、日常の瑣末な行為を数値化することであり、「彼女の死(の告知)」に対して「6922本の煙草を吸っていた」を被せることである。そしてさらには、レーゾン・デートゥルをめぐる学生のそれなりに苦悩した瑣末な日常の反復に対して、彼女の死という事件を「そんなわけで」という接続詞で繋げてみる恣意性であり、私意性である。この恣意的かつ私意的な情報はある事実なり事象の一般的な意味を(事実の社会的な重大さも含めて)剥離することに貢献するだろう。
村上春樹はこの方法で物語世界を私的な脳内世界に囲い込んだのであり、それによってブロークンな口語体の問題系を継承しえた、重要な結節点に当たる作家として、文学史に登録されることになった。ブロークンな口語体の問題系とはつまり、70年代以降にみまわれた価値観と現実認識の変容を、一人称視点の内言を軸にしていかに処理するかというものである。
村上春樹の取った方法に対しては、恣意的・私意的な情報を被せることで現実を回避したと否定的に語ることもできるが、そのようにしてしか現実と関係できない時代に最適な表現を編み出したということもできるだろう。
この現実認識を作品で明確に裏付けたのが、1985年の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』であった。そこで村上春樹は、まず物語世界を二つのパートに分けた。現実を生きる「僕」の物語パート(「ハードボイルド・ワンダーランド」)と、その「僕」の脳内虚構世界を生きる「僕」の物語パート(「世界の終り」)である。そしてその二分された物語世界を交互に展開させ、最終的に現実の「僕」が脳内虚構世界(の「僕」)を選択するまでのプロセスを作品化したのである。
ここで注意したいのは、庄司薫は価値観の変容を70年代の側で受けとめたものの、現実認識の変容に対しては、情報として把握することに最終的に抗ったことである。その格闘は、薫君4部作中3作目の『白鳥の歌なんか聞えない』(1970)に詳しい。庄司薫のこの捩れはいまから見ればやはり奇妙であるが、時代の転換期を生きた証だとはいえるだろう。そしてこの捩れを70年代以降の側に解放したのが村上春樹なのである。
村上春樹という作家が優れているのかいないのかなんていう評には意味がない。彼の表現は、酔えるが危険な薬物であり、それだけは知っておくべきだ。だからチェイサーとして別の表現を対置する必要がつねにあり、ときには村上龍だったりするのだけれど、内言というトピックにおいて最高のチェイサーは「内向の世代」の後藤明生以上の作家はいない。
後藤が主に採用する内言構造は、自己言及的な自問自答である。これ自体は、坪内−二葉亭がはじめた近代文学に当初から内蔵された内言の構造と変わりはない。
しかし、後藤の場合、そもそもの前提として問いたいこと、問うべきことがあるわけではない。政治と文学といった大きな問題は後藤にはない。だから、とりあえず問いの対象となる些細なきっかけを見出し、問いを捏造し、それを応答に繋げていくという自問自答の形式を展開したのである。デヴューして間もない70年前後の作品はその構造があからさまに露呈したものが多い*5。たとえば「書かれない報告」(70)は、団地住まいの男に電話が唐突に入り、団地生活の実態調査として報告を求められるところからはじまる。一編を通して視点人物の男はカフカ的な理不尽さを引き受け続けるのだが、とりわけ支障のなかった団地生活を振り返って、いままで気にも留めなかった天井の染みや侵入する虫といった日常の中の些細な歪み・凹み・ほつれ・不在をきっかけにして問いと応答を自らのうちに繰り返していく。この内言構造が物語の原動力となるのである。

ある朝、男の住いである3DKのダイニングキッチンの天井から水が漏りはじめた。もっとも、目をさました男がダイニングキッチンへその日はじめて入って行ったときには、すでに水漏れは止っていた。(中略)しかし何故水は漏ってきたのだろう? もちろん天井にヒビが入っていたからだ。しかしそれでは、いったいいつ天井にはヒビが入ったのだろう? この団地に居住しはじめてから七年目になるが、男は毎日天井を眺めて暮してきたわけではなかった。たとえ鉄筋コンクリート建造物といえども、七年目には傷つきはじめるということだろうか? 天井のヒビは確かに傷痕のようだ。その傷痕はまだ濡れていた。しかしながら漏ってきたのは、三階のいかなる水だろうか? 傷痕の真下の二個の洗面器の底に溜っている水は決して濁ってはいなかったからだ。トイレット用の水でないことだけは男にもわかった。男の住居である二階のトイレットの真上が、三階のトイレットであることはダイニングキッチンの場合とまったく同じであったが、トイレットには、一本の鉄管が垂直に天井から床へ貫通している。ちょうど大人の両手で包み込める太さを持つ、その緑色のエナメルで塗られた鉄管は、鉄筋コンクリート四階から地上まで貫通しているはずだ。男が馬蹄形の白い陶器に腰をおろしているとき、背骨の斜め左うしろにあたる鉄管の中を勢のいい音をたてながら、三階からの水が下降してゆくのはそのためだった。すさまじい音だ。とつぜん発せられるその激しい渦巻き音は、あたかも何ものかを、一刻も早くどこかへ遠去けようとしているかのようにきこえた。一刻も早く! 少しでも遠くへ! どこだかはわからないが、とにかく自分とは無縁の場所へ、はねのけ、押し流し、葬らねばならぬ。これこそ水洗便所の理念というべきものではあるまいか。要するに非水洗の場合とは正反対なのだ。こちらは徐々にではあるがほぼ正確な速度をもって、次第にわれわれの方へ近づいてくる仕組みだからである。
ところでトイレットの水でないとすれば、漏ってきたのはいったいどこの水だろうか? 台所の水だろうか、それとも風呂場の水だろうか? 男は鉄筋コンクリート建造物の、目に見えない内部の暗闇をぼんやりと頭の中に描き出してみようとした。男は天井を見上げた。そこはすなわち三階の床でもあるわけだった。したがって男が描き出そうとしたのは、男が見上げている天井と三階の床との間に挟まれた鉄筋コンクリート建造物の暗闇だといえる。しかしながら男には何一つよくわからなかった。そこは果たしてがらんどうの空間なのだろうか? それともびっしりと何かで埋め尽くされているのだろうか? 少なくとも木造建築の天井と梁のような具合いではないはずだった。なにしろこの建物は火事でも燃えない構造になっているらしいからだ。
火事でも燃えない? 男は夜更けに幾度かサイレンの音をきいた。単なる救急車の場合もあった。にわかに産気づいた主婦、その他の急病人などのためだ。[後略]

最初に立てた問い(テーマ)は、自問自答を繰り返すうちにずらされていき、いつの間にかまったく違った問いを立てている。後藤的自問自答には、根拠などそもそもないからである。この自問自答の内言構造によって、後藤は世界と「私」の関係をそのつど立ち上げていくのである。従来の自問自答の場合、規範的な世界(社会)とそこから逸脱する「私」の関係がまずあって、その齟齬が駆動したのだが、後藤にはそのような関係が前提されていないわけだ。
もう一点、これに関連して注目したい後藤の特徴は、メトニミーの関係によって物語世界を構築している点である。これを説明する前に、メタファーについてまず説明しておこう。メタファーによる構築は、たえず類似の関係を軸にするので、調和した構造が求められる。たとえば「頬」と「林檎」をメタファーによって関係させる場合、「赤い」という共有されたシンボリックな意味を前提にしなければ成立しない。ここでは、「赤い」を頂点にした調和的な三角形が構造化されているのである。これに対してメトニミーの場合、隣接(あるいは包摂)の関係が軸になる。それは関係の連鎖によってどこまでも帰着点のない横滑り(あるいは重畳)のベクトルにしたがって、逸脱した構造となるだろう。
『機械』と『水晶幻想』の対比でいえば、『機械』はメタファーの関係を徹底させてその内側から自壊させる内言構造をもっていた(「主人」を取り巻く三人の従業員の類似関係を背景にして、語る私と語られる私の調和した構造に亀裂を入れる自己言及的な内言)。他方『水晶幻想』は、脈略のない記号を並列させるメトニミックな運動の側から、メタファーの調和した関係を牽制する内言構造をもっていたということができる。
後藤の場合、メトニミーは『水晶幻想』のように記号のレベルではなく、物語に構造化されている。たとえば、突然の電話依頼(団地生活の実態調査)が入ってから日常の些細な部分が気になりだし、まず三階からの水漏れの痕(二階の天井の傷痕)を発見。さらに自分の住居である二階の床に水漏れの痕を見出し、その凹みを男の妻が押してみると、男は自分の頭を押された気持ちになる。それがさらに、自分が指で押した虫への想起に繋がるのだが、その虫はそもそもこの二階の部屋の壁の凹みから侵入してきたものだったのであり、最終的にその虫は男の手によって粘土の中に押し込まれることになる(粘土が凹む)。もちろんその粘土(凹)と虫(凸)の関係は、団地と男の関係でもあるというわけだ。以上の通り、凹凸(あるいは侵入するものと侵入されるもの、押すものと押されるもの)の隣接関係に準拠して物語がひたすら構造化されていることが知られるだろう。
もとより団地という住居構造こそメトニミックな関係によって構築されたものである。垂直・水平軸に列なる各住居の関係は類似ではなく、単に隣接関係があるのみだ。いち早く団地を創作のネタとして見出した後藤(=号棟)はまさしくメトニミーの運動に文学の価値を見出したのであり、「内向の世代」としての彼の内言構造はこの運動に準拠したものであった。つまりここでは、世界(社会)との関係で悩める「私」が問題なのではなく、「私」と世界の関係を貫くメトニミックな運動によって自問自答をし、そのつど内面を立ち上げることに関心が向けられていたのだ。
後藤明生の引用癖もこの運動に準拠したものである。オリジナリティーを徹底して嫌悪し、何を書くかではなくいかに書くかという観点から、複数のテクストとの隣接関係によって表現活動を行ったのがこの作家である。何故書くか? 読んだからだ! という後藤の自問自答はいまなお立ち戻りうる参照点としてあるはずなのだ。
ここで再び村上春樹に戻ろう。彼は、ある事実なり事象に対して恣意的かつ私意的な情報を被せる方法を編み出し、脳内世界(情報空間)として物語を育んだということをすでに述べた。この恣意的かつ私意的な情報もある事実なり事象に対してメトニミーの関係にあるといえるだろう。
メトニミーは、隣接しあう関係において共有する意味を前提しないので、関係はたえず不安定である。だからメタファーに比べて文脈依存型のレトリックにならざるをえない。たとえば「ねえそこの眼鏡!」といって「眼鏡」からそれを装着している人物を表現する場合や、「ご飯を頂きます」といって「ご飯」(個)から食事全般(類)を表現する場合、その表現だけではその意味を決定することは困難ゆえ、最終的には文脈に委ねられがちである。
ところで、村上春樹が組織するメトニミーの関係は、その関係を調停せずに、そのまま投げ込むところが特徴である。それが記号(単語)のレベルだと、「僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ」というシニカルなセンテンスになる。文章のレベルだと、「そんなわけで」という接続詞で繋げたアフォリズム風のエピソード群になるし、物語構造のレベルだと黙説法的プロットになるのである。
他方後藤明生のメトニミーの関係は、自己言及によってたえず調停をはかられる。しかしそうすればするほど空回りする様は先ほどの引用の通りだ。
ただし村上春樹は調停を放棄したのではない。文脈依存型のメトニミーを最大限に利用し、読者に関係の調停を委ねているのである。彼の表現が無意識的な同調圧力が強く、毀誉褒貶が分かれるのはこのためである。いまや影響力は相対的に薄まったとはいえ、ブログ界隈やライトノベル周辺などでハルキ・チルドレンをいまなお排出しているのはよく知られる通りであろう。他方、後藤明生の徹底した自己言及による空回り振りは、読者を寄せ付けず限定するが、その滑稽な運動に身を任せることの快楽は、消費の快楽とは別途文学史に登録されるべきである。いずれにせよ、僕たちの文学史には村上春樹後藤明生がいることを言祝いでもいい。
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4
最後に、再びブロークンな口語体に戻り、その現在進行形に出来る限り迫って終わる。舞城王太郎川上未映子である。近代文学が成立して以降小説にとって重要なプログラムである内言において、いま注目すべきは私小説よりもブロークンな口語体に列なる系譜であり、この二人はそれを先導しているといっていい。
舞城と川上が口語体で何を目論んでいるかというと、それは再社会化という問題に集約される。言い換えれば、彼らの文学史における意義は、ブロークンな口語体という観点からとらえるなら、「私」の再社会化という問題に集約されるということだ。
ふり返れば、庄司と野坂は、社会(世界)と「私」の関係において、価値観と現実認識の変容から「私」に力点を置いて、ブロークンな口語体を選び取った。そこには社会的問題に対する意識があった。しかし橋本や町田にあっては、「私」を継承しながら、社会が抜け落ちていた。それは、村上春樹の庄司的問題系の継承の仕方で明らかだった。この一連のプロセスは、社会を捨象し「私」を内に閉じるベクトルを推し進めたものである。舞城と川上は、その問題に対して別のアプローチを試みるのではなく、ブロークンな口語体を継承しながらその再社会化を目論んでいる二人の作家なのである。
まずは、舞城王太郎。ここで横光を再度ふり返っておくと、横光は一人称視点の葛藤形式を徹底することで、内言とそれによる物語の虚構性を露わにしたのだった。横光にあっては虚構性の暴露にこそ文学的意義があったのである。
他方、舞城は、徹底して内言(を軸にした口語体)を全面化する。それによって、内言とそれによる物語の虚構性を露悪的に示すのである。つまり舞城においては内言の虚構性は当然の前提であり、それに開き直って内言(とその脳内世界による物語展開)を全面化するのである。それゆえ視点人物はしばしば全能性が付与され(「自分が神になったような気がしてくる。」『煙か土か食い物』2001)、その全能性に保証された内言=口語体が物語世界を駆動するわけだ。これに対して読者はツッコミなど様々な態度表明を強いられ、巻き込まれることになるだろう。じっさい舞城の作品は、デヴュー当時から様々なリアクションを呼び込んだはずだ。いわば舞城の作品はそれ自体がネタとして作りこまれており、舞城のブロークンな口語体はコミュニケーションとしての内言の機能を果たしているといっていい。そしてこの内言のコミュニケーション性において再社会化がはかられているのである。
舞城が最初に作家デヴューを果たしたミステリの文脈でも同じことがいえるだろう。語る私と語られる私の分裂と、その分裂をないかのように縫合して私語りを展開する虚構性は当然の前提だとして、逆に全能の「私」をネタとして、コミュニケーションの接点として作りこむこと。それは、謎掛けと謎解きを分裂させて(犯人と探偵)ミステリを組織するジャンルの虚構性――一人芝居でしかない!――が当然の前提となった上で、全能の探偵を作りこむことと相似的であるはずだ。それこそ、ジャンルの虚構性・恣意性を積極的に突いて出てきた清涼院流水以降のミステリ作家として慎み深い振る舞いだったのである。かくして舞城王太郎は、ミステリと純文学の双方でコミュニケーションを育む場として機能しているのである。
川上未映子はどうか。彼女は大阪弁の系譜にあるが、川上のブロークンな口語体もまた、舞城と同程度に過激化・全面化のベクトルに乗っかっている。出世作『わたくし率イン歯ー、または世界』(2007)は、夢オチと解釈されるなどその徹底した内言=口語体の包囲は描写や会話の仕切りをたえず侵食する。ただし、彼女の内言=口語体はコミュニケーションを、直接的には育むものではない。
彼女の特徴でまず指摘すべきなのは、一人称視点の「私」を起点にして自己と世界の関係、世界との繋がりを考察している点である。この考察のために、「私」はいくつかのレベル(「わたくし率」)に分けられる。意識の私、経験の私、身体の私、無意識の私、他者の私等々と。そのなかでも身体上の極私的な部位、たとえば奥歯の痛みとか切っても伸びる毛をはじめ、社会の中で女性性が示される生理や乳房、卵子等内密な部位を通じて世界との関係が考察されるのである。
当然このような思弁的な考察には、内言を軸にしたブロークンな口語体は付きが悪い。しかし、一貫して「私」の内密な部位から世界との関係を問い記述する川上未映子にとって、極私的な口語体こそ必要なのであり、このようなブロークンな口語体からしか世界とは関係しえないという、価値観と現実認識の新たな変容を川上の口語体は示しているのではないか。この意味でまさに彼女もまた、内言という近代文学が内蔵したプログラムにおいて問題になった「私」の再社会化を表現の使命とする作家なのである。
*6

*1:「是は人づてに聞いた話だが櫻井天壇氏があなたを評して、「作を書く書かぬと云ふことは問題ではない。潤一郎氏自身が従来決して見なかつた、ある新しいマターを文壇に提供して居る」。と云はれたとの事、僕も此の意見には至極賛成します。あなたを普通の――普通のと云ふのは今日さう云ふ名目の下に文壇に流行しつつあると云ふ意味です――都会文学者、普通の享楽主義者と同一視する人達は皆此のあなたの作品のみを見て、あなた自身の生活を見なかつたと云ふ不用意に原因して居る事と思ひます。」

*2:明治30年代に注目された描写は相対的に衰退する。

*3:http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070922http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070929

*4:最近作の長編『宿屋めぐり』(2008)は、主人の命によって大刀を大権現に奉納するまでの壮大な物語の枠組みがあるが、町田の冗長な口語体によって間延びした印象を与える。

*5:「笑い地獄」(69)と「誰?」(70)については詳しく論じたことがある。「仮装する人、後藤明生を仮葬する(ケイタイ的)」(「早稲田文学」2000年9月号)。

*6:以上は、小説の構成要素についての講義の一部をリライトしたものです。小説の引用は一部「青空文庫」からのものです。