感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

倫理的/存在論的、コミュニケーション的/システム論的

濱野智史氏の『アーキテクチャの生態系』を読んだ。啓発されたし、文学とか批評を考えるヒントも得ることができた。

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

ウェブ/ネットでいま起こっている現象を説明するために、濱野氏は先ず、ネット上の各種サービス群(検索エンジン・ブログ・SNS・匿名掲示板・動画共有サイトなど)を、「ソーシャルウェア」(「社会的」な「ソフトウェア」)と規定し、集合知のコミュニケーションによってそれらサービス群のシステムがたゆまず組み換わり、新たなサービスが産出されているのだという。それが、本書の「生態学」的なヴィジョンである。
ウェブ/ネットのシステムを「生態系」としてとらえること。それは、各種サービスの性質を、そのサービスが繰り広げられているネットやケータイといったメディアの特殊性から説明するような、メディア還元主義に対する批判である*1。本書においては、ユーザーの集合知によるコミュニケーションという契機を差し込んでいるところが重要であり、それを介して各種サービスの性質を説明しているのである。
それが「ソーシャルウェア」という所以だが、さらに重要なのは、この集合知による「社会」的なコミュニケーションから、各種サービスのシステム間の「コミュニケーション」が説明されるところだろう。それはつまり、既成のシステムを組み換え、新たなサービスを産出する一連のプロセスである(かくして新たなサービスはそれに相応した新たなコミュニケーションの様態を産み出すだろう)。これこそタイトルの意味するところであり、濱野氏は生態学的な進化論によってこの一連のプロセスを解説している。
彼が定義する、「進化」を促すコミュニケーションというのは、簡単にいえば、転用の美学である。既成のシステムなりその細部には本来備わっていなかった(想定されていなかった)使用価値が、意図せざる利用によって創出・付加・可視化されること。つまりここでは転用に創造性の契機を置いているといっていい。
転用の美学といえば、岡崎乾二郎氏が以前からカントの美学(「目的なき合目的性」)をもとにして問題にしていたことだが、いわば濱野氏はそういった発想を使って、集合知のコミュニケーションによるシステム変換の創造性を理論化しているのである。

より詳しくいえば、「偶然から複雑性が生まれる」というプロセスは、進化論においては次の二段階のロジックで説明されます。/まず、遺伝子のレベルで、なんらかの種が「発生」する(突然変異)。次に、そのときどきの「環境」との適応度によって、種の「淘汰」と「存続」が起きる。このように、「発生」のメカニズム(発生論的説明)と「存続」のメカニズム(機能論的説明)を分離して考えることで、事後的には目的合理的(なんらかの目的を実現するために最適な行為や機能を有していること)に見えてしまう現象やシステムであっても、その発生過程を目的合理的に説明してしまうという罠を回避することができる。つまり、偶然の産物から、目的合理的なシステムが自然発生するという現象を、「神による設計」という神秘論に回収することなく説明することができるわけです。/以上の進化論的な見方は、本章で見てきた、〈ウェブ→グーグル→ブログ〉という進化のプロセスにも当てはめることができます。(71‐2頁)

濱野氏のこの見取り図は、ウェブ/ネットの自生的な「進化」をとらえるべく目的論的な説明を避ける必要があって考案されたものだが、僕には、創造性の契機を個人の主体性に担保しないためのロジックだと思えた。僕は最近、文学や批評の創造性を個人の実存なり主体性を根拠にせずいかに表現できるか、ということを考えていて、このロジックはその意味でとても参考になった。
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大澤信亮氏の「柄谷行人論」(「新潮」2008・11)は、ここ最近の文芸批評の中で最も好感が持てた論文だった。前作の新潮新人賞を受賞した論文「宮澤賢治の暴力」(「新潮」07・11)と合わせて書き手の思いが揺るぎなく押し出されていて、読むこちらの方が圧倒される。
周知の通り柄谷行人はデビュー以来、意識と存在の分裂を、自ら対象化できぬほど執拗に問題にして(自己言及による形式化の徹底)、それを批評の力にした。しかし、大澤氏によれば、『探究』以降、その分裂をみすえた自己言及の徹底を放棄し、「平板かつ閉塞的な関係に着地した」(286頁)ということになる。大澤氏はこの『探究』以降の柄谷を批判している。それは氏自身の論文が、縫合できない分裂をみすえつつ自己言及をくり返す中で議論を展開しているその有様で十分説得的である。ただ、それを柄谷の社会運動(NAM)の「失敗」に重ねるところは、僕には判断しかねる。
それに僕個人としては、柄谷の『探究』以降、『トランスクリティーク』、(NAM関連の著述がここに入るわけだが)そして『世界共和国へ』という思考のプロセスは、ある側面から見れば必然性があったという解釈をしている。『探究』以降も柄谷は終わっていない。
『探究』以降の柄谷にとっては、分裂した意識と存在の超越論的な批評軸は、単に放棄されたのではなく、システム論に組み込み、(主体間・システム間の)コミュニケーションの枠組みでとらえていく必要があったのだろうということだ。意識−存在の軸を、コミュニケーション−システムの軸に接合すること。
東浩紀は、柄谷の『ヒューモアとしての唯物論』の文庫本解説(1999)で、意識と存在の縫合しえない分裂(東のまとめでは「倫理的位相と存在論的位相」)を自己言及的な批評の力にした柄谷は、84年の「批評とポスト・モダン」及び『探究』以降、その前提を放棄し、意識と存在の接触が可能になった「交通空間」(いまの東なら「環境」というだろうか)を批評の主戦場に変えた、といっている。大澤氏の柄谷論は、この東の柄谷評への批判でもあるのだが、どちらが正解かは問題ではない。コミュニケーション−システムの軸でとらえられる「交通空間」において、意識と存在の問題は回収されたのではなく、「交通空間」でも別様にセットアップされ、機能していると考えた方がいいのではないか。
たとえば『世界共和国へ』は、歴史的・地理的に規定された各種「社会構成体」を、互酬・再分配・商品交換という交換様式(コミュニケーション様式)の相互連関でとらえている。柄谷はそこで、たえず実現(存在)しえない統制的理念を想定しつつ、交換様式を組み換えながらありうべき可能性としての「社会構成体」を考案する。超越論的な問いによる自己言及はそこにはないが、彼が「社会構成体」(システム)を考察するに当たって交換様式を組み合わせる際に、様式間の作動・誤作動・浸透・暴力的組み込みなどといった相互交通の様態をつぶさにとらえていて、そこには彼の「倫理的位相と存在論的位相」の関係が転写されているように僕にはみえる。
何より、存在しえない理念として「社会構成体」(交換・コミュニケーション様態)をガチで考察し続ける彼の議論は、ユーモアに満ちていて、良くも悪くもツッコミどころがあり、柄谷の文章はそれ自体でコミュニケーションの場を形成し、呼び込む形式になっている(柄谷には労働力への考察が甘いところがあるなら、それを付け加えて柄谷的「アソシエーション」に誤作動を起こしてみればいいのではないか)。ただ、これは僕の極私的体験だけれど、柄谷さんはその存在自体が圧迫的で怖いんだよ(笑)。近寄れない。まあでもそれは彼の文章とはとりあえず関係ない。
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前回書いた竹内好論は、読書会の成果なのだが、後半の展開は大澤氏の柄谷論を念頭に置いていた。要するに僕の竹内論は、竹内をコミュニケーション−システム論的な枠組みから論じてみようということだった。従来の彼の評価は、政治と文学という「倫理的位相と存在論的位相」の関係を、実存的なレベルに落とし込んで評価するものだったわけだが。
竹内もありうべき社会構成を考察し、そのために自分のいま存在する社会をコミュニケーション様式の観点から分析していたのである。そこで重要なのは、竹内がたえず負け戦に自分を位置付けたことだ。柄谷が理念として掲げた「アソシエーションX」に自分の身を置いて議論を展開したように。
そして竹内の文章もまた、理論的に構築されたものでありながらパフォーマティヴに演出され、コミュニケーションの素材としても消費されたのである。竹内は、「近代文学」と共産党系の文学グループが政治と文学という文脈で論壇プロレスをくり返している中で、つねにどちらの立場にも立ち、肯定否定を並べたが、中野重治がいきおい完璧に勝ちにいったりなんかすると、「中野は、論争の作品的完成をあせっているように見える」といい、それを「一種の政治性に欠けたところ」、「当事者に引きいれるべき大衆を傍観者に立たせることにおわっている」(「中国文学の政治性」1948)ということで批判しもした。竹内が、議論を自分の実存的レベルで解決するものではなく「交通空間」において開いておこうとした、そしてそのためにロジックを組織していたことは、この発言からもうかがえるだろう。というより、当時の文壇・論壇は、議論はプロレスだという認識を誰もが共有していたのだが。

来るべき精神分析のプログラム (講談社選書メチエ)

来るべき精神分析のプログラム (講談社選書メチエ)

竹内論を書く上でもう一つ影響を受けたのが、十川幸司氏の『来るべき精神分析のプログラム』だった。フロイトラカンの理論を臨床と結び付けながら精緻な理論を展開するこの批評家は、「批評空間」の第三期で初めて知って以来。彼はここで、自己を抑圧や単なる解離の機制としてとらえるのではなく、またラカンの言語論的アプローチ(言語の介入が「倫理的位相と存在論的位相」の関係を分断するわけだが)にも限界を見出している。そして、発達論の成果を受けて、自己を感覚の回路と欲動の回路、情動の回路、言語の回路という4つのシステムに分け、システム論(オートポイエーシス論)の観点からこれらの個々に自律した回路がいかに連動し、動作誤動作を生じつつ自己を成り立たせているかを解説している。重要なのは、自己を構成するこの回路群は、つねに外に開かれ、コミュニケーションの影響を受けるということだ。
フロイトラカン−十川という系譜があるとすれば、この創造的な改定の過程は、彼らにも臨床や社会体験などを通してつねに「X」的な位相(「死の欲動」!?)を、それを理論化の前提にも根拠にもしない――つまりおのれの実存的な契機にもしない――ながら、しかし理論の前提にセットアップしていたことの成果だと、僕には思える。
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日本のアニメは、様々な経済的・社会的条件の制約を受けた結果、そこから多用な可能性を引きだしえた、という話はよく聞く話だ。転用の美学とはそういうことである。そもそもジャンルの創成期には決まってあるものだが、ウェブ/ネットの環境はいままさにそのような転用の美学に基づいた「進化」が、各種システム間の方々で起こっているのだろう。
濱野氏は、それを「ソーシャルウェア」という観点から摘出しえた。「ソーシャルウェア」の作動誤作動がもたらす、「発生」のメカニズムと「存続」のメカニズムの関係には、縫合できない亀裂がある。したがって後者から前者を説明することはできない。
しかしこれは意識と存在の関係とは別様である。意識は存在との関係におけるギャップからたえず反省を促し、関係の再修正を際限なくくり返すだろう。そのような思考様式と相性がいいテクスト分析は、その無限背進的な自己言及に創造的な「症候」を見出し、実存に回収する分析を施してきた。経験的なレベルに(表現の痕跡として)「症候」を見出すのではなく、メタフィクション・メタレベルの操作に創造的な契機を見出し、たとえば東氏が「パフォーマティヴ」とか「プレイヤー視点」といった概念を提出しもしたが、これもやはり実存なり主体の営為に回収された。デジタル・メディアを素材にしていても、そこでは暗に意識と存在の分裂を前提にした議論がなされていた。
これはもう個人的な課題だが、僕には「発生」のメカニズムと「存続」のメカニズムの関係に関心がある。文学研究をするに当たって、主体間、システム間の作動・誤作動を、コミュニケーション・表現論のレベルから追跡すること。これはネット上の集合知にのみ関る問題ではない。竹内・柄谷・十川の各論でも明らかな通り、自己の表現群(の周辺)にそのような「発生」のメカニズムをもたらすべく表現を組織することは可能だし、具体的に誤作動/転用をもたらした作品を、文学史を背景にして摘出することもできるだろう。
ある「発生」が前史の切断であれ、何らかの形で「存続」をもたらすものなら、そこには文学という存在の倫理が問われていると思う。

*1:だからこそ、ケータイ小説をケータイの「操作ログ」に落とし込んで説明するところは残念だ。