感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

方法としての竹内好

日本とアジア (ちくま学芸文庫)

日本とアジア (ちくま学芸文庫)

竹内好とは、戦時中から中国文学を専門とし、論壇と文壇に幅広く関与した評論家として知られている。戦時中は武田泰淳らと「中国文学研究会」を立ち上げ、魯迅論を執筆するなどしていたが、論壇に頭角を現すのは戦後になってからである。
戦後の早くから、日本浪曼派を問題設定に組み込んだ竹内は、当時の論壇で比較的優位な立場に立てた。何故か*1
ここで当時を振り返っておくと、平野謙らを擁する「近代文学」グループと、中野重治らが属する共産党系の文学グループの対立軸(政治と文学論争など)によってまずは展開される戦後文壇に象徴されるように、当時の論壇は、戦争を招いた超法規的なファシズム(ウルトラ・ナショナリズム)と親和性の高い日本浪曼派の成果など全てなかったことにし、いまいちど近代の合理精神に立ち返った、秩序正しく規律のとれた世界観および人間像を理想として共有していた。立場は違えども。
しかし、日本浪曼派は近代には避けられない近代のアポリアとしての非合理・超合理の側面を問題にしたのであって、結果と内実はどうであれ、この限りで日本浪曼派を問題設定から外すことはできないと竹内はくり返し論じたのである。この竹内の論点が、戦後の問題構成にインパクトを与えた最初の契機が国民文学論争(1951)である。ここは以前*2坂口安吾との繋がりで論じたことがあるので、省く。一つだけ言っておきたいのは、竹内的論点は、竹内だけのものではなく、安吾花田清輝小林秀雄といった特異点にもそれぞれの仕方で共有されていたということ。そしてこの論点を突きつめていないと、たとえば『民主と愛国』(小熊英二)のような甘さ(政治と文学論争的な近代の磁場への逆戻り)が生じるということである。
ここで改めて整理しておく。竹内は、民主と愛国(独裁)、近代と超(前)近代、合理と非合理といった問題構成を、簡単に(合理的に)割り切れるものではなく、近代のアポリアとしてとらえた。そしてこれらの両項の関係を踏まえ、後者を通過・媒介させないと前者は実現しないという、当時の誰がみても奇妙なロジックを展開し、様々なトピックに応用したのである。

ウルトラ・ナショナリズムに陥る危険を避けてナショナリズムだけを手に入れることができないとすれば、唯一の道は、逆にウルトラ・ナショナリズムの中から真実のナショナリズムを引き出してくることだ。反革命の中から革命を引き出してくることだ。(「ナショナリズムと社会革命」1951・7)

この竹内が最もエネルギッシュに活動したのは、60年安保反対運動に関与した時期だろう。安保条約継続の方向で動く保守の自民党・岸内閣に対して、竹内は反対運動関与の当初から、安保の歴史を踏まえた批判を展開していた。竹内によれば、アジア・中国の存在を端から無視した安保条約の成立および存続過程――これにより日本は55年体制確立後の戦後民主主義の条件を整えた――がすでに誤りなのである。そのような安保理解のもと竹内は、現状の安保条約の存在根拠自体を批判したのであった。しかし激しい反対運動にもかかわらず、強行採決で条約承認は確定し、いちおうの決着をむかえる。竹内はこの決着の責任を都立大の教員辞職という形で個人的に取るにいたる。そして在野の身で運動を継続させ、保守党の横暴に対抗すべく「民主か独裁か」というスローガンを打ち立てたのだった(「四つの提案」1960・6・2、『不服従の遺産』)。
この竹内の、近代主義的にして実に戦後民主主義的なふるまい――アジアへの贖罪意識を通して主権国家の主体性を確立し、独裁を批判して民主主義を立て直せ!――は、竹内の限界として指摘できるだろう。けっきょく竹内の論理は空論でしかなく、個別具体的な運動には使い物にならないから、ボロが出たのだと。じっさい、安保問題に関るエッセイを主に収録した『不服従の遺産』は、他の竹内テクストに比べて議論が単純化されている印象を拭えない。
しかし竹内はその一方で、同時期に「近代の超克」を問題にした重要な論文を書いていた(「近代の超克」1959・11、『日本とアジア』)。「近代の超克」とは、戦時中に雑誌「文学界」が様々な分野から知識人を招聘し、近代の諸問題が多角的に議論された座談会であり(1942)、当時は神話化されたものの戦後はまともに省みられることがなかった、戦争の痛々しい痕跡を残す記録である。
1950年代の後半、橋川文三が日本浪曼派についての論文を発表するなど戦時中の思想の動向が再び取り上げられるようになったこの時期に、竹内も改めてその重要な記録である「近代の超克」を話題にしたのだった*3
竹内はここで「近代の超克」を二つのトピックから説明する。一つは、思想のレベルであり、合理精神に代表される近代思想のアポリアとしての「近代の超克」。もう一つは、政治・情勢論のレベルであり、日本が犯し、清算しなければならない戦争と戦争責任の「二重性格」(アジアの解放・共和を唱えながら欧米帝国主義の侵略戦争を遂行する二枚舌)としての「近代の超克」。
このように思想的かつ政治的なトピックが多岐にわたって「近代の超克」というテーマのもと議論された座談会なのだが、この参加者を、竹内は、三つのカテゴリーに分けている。「京都学派」と「日本浪曼派」と「文学界」グループである。このカテゴリーは、参加者個々人をその所属するグループにただ機械的に振り分けた論壇マップ的なものであるが、竹内にとっては、きわめて機能的なカテゴリーでもあった。つまりこのカテゴリーは、「近代の超克」をいかに対処するかを評価軸にして決められたものなのである。だからたとえば「文学界」グループに所属する小林秀雄は、その対処の仕方ゆえに日本浪曼派の近傍に位置付けられるだろう。
「近代の超克」に対していかに対応したか。まず京都学派は、理論的(コンスタティヴ)に「近代の超克」を西田哲学以来のロジックで説明した。時流に迎合しただけの説明は明快ではあるものの、竹内にとっては物足りないものだったし、じっさい当時の国民を動員する言説にはなりえなかった(横光的なモダニズム以降の表現タイプ)。
もう一つの日本浪曼派は、「近代の超克」に対して、非論理的(パフォーマティヴ)に応じた。竹内は、ここで保田與重郎の文章を引用して見事なテクスト分析を披露する。彼によれば、保田の文章はきょくりょく主語が省かれ、伝聞的な述語を何重にも重ねるロジックで(時枝文法のいわゆる風呂敷型の特性を徹底的に利用するように)発話主体を曖昧にする非人間的(=「巫」的)なロジックを保田から読み取ってみせる。さらにいえば、保田はこの座談会には当初出席の意向を示しておきながらドタキャンしてみせるという(恐らく)戦略を展開し、逆に存在感を示したわけだが、このアイロニカルな欠席の身振りは、沈黙を有効に活用する黙説法のロジックであり、このように言語外の文脈を利用しながら「近代の超克」に対応したのが日本浪曼派だということである。小林は、この保田を日本浪曼派の極に置いた場合、いぜんとして主語を温存させた(自意識にこだわった)点で徹底しきれていないと竹内に判断される。
いずれにせよ、保田は、京都学派が理論的に説明したことを、コミュニケーション・表現論レベルで実践してみせた一形態だということができるだろう(川端的なモダニズム以降の表現タイプ)。そしてこれこそ国民の動員に成功したロジックであり、ポピュリズムファシズムと親和性が高いといわれる所以である。
残った「文学界」は、中村光夫に代表される通り、近代の知性を司る最後の砦として位置付けられている。近代を守護しながら、その綻びが目に見えて目立ってきた状況において、雑誌媒体の使命をもった「文学界」は、それを繕うべく日本浪曼派と京都学派を招聘したコーディネーターであり、「近代の超克」を受け入れざるをえない近代主義者であった。
このような三つのカテゴリーによって「近代の超克」を描き出した竹内は、なかでも保田に最も注目し、両義的な評価を下している。では、竹内自身は、「近代の超克」にいかに対応したのだろうか。
彼は、「近代の超克」を話題にする文脈で、日本の戦争(日本の近代がもたらした戦争)責任に関してこのようなことを言っている。「ファシズム対民主主義」の図式では割り切れない、と*4(「戦争責任について」60・2、『日本とアジア』)。このフレーズを、同時期に安保敗北のさなかで叫ばれたスローガン「民主か独裁か」と重ね合わせてみよう。それぞれの文脈の中では整合性のある表現が、竹内の中で激しくぶつかり合い、切り結ばれる様が見て取れる。実践向けに一見ベタな「民主か独裁か」(=独裁よりも民主)は、単なる退行ではなく、「ファシズム対民主主義」では割り切れないと理論的に評価を下したときと同じように、厳しくメタレベルに立った操作・判断によって下されたものでもあると考えることができるはずだ。
むろん、実践上のやむない判断だったと言えるし、理論(「ファシズム対民主主義」では割り切れない)と行動のずれと言うこともできるだろう。しかし、このような考え方は、民主も独裁も実体的に把握する誤謬を招きかねない。だからここでおさえておきたいのは、竹内にとっては、民主が正しいとも独裁が正しいとも、必ずしも言えないということである。
民主にも独裁的な面があること、独裁にも民主的な面があることを知っていた竹内にとって、この両項に収まる概念は、実体的なものではなく、あくまでも機能的・方法的な操作概念だったのである。「近代の超克」の三つのカテゴリーと同じように。
安保問題に話を戻せば、竹内はここで、彼なりに情勢に見合った概念操作をし、保田なら民主でも独裁でもだめだとかうそぶいて議論をひっくり返すところを、「民主か独裁か」という一つの判断軸を指し示したのである。
そしてここでも竹内のスタンスはユニークであった。彼がいう「民主」は、近代化によって西洋から形式的に与えられた制度としての「民主」ではなく、中国がモデルの「人民議会と人民政府」であったのである。これは下方から民衆が勝ち取った、ほとんど直接的な民主形態であろう。日本にはいまだそのような民主形態は存在しないし、竹内のこの提案も、左派を含め多くの立場から冷ややかに受け止められていた。しかし竹内にとってこれは近代日本の抑圧された(ありうべき可能性の)「民主」であり、最も注目すべきカテゴリーであった。このような認識のもと、竹内は「民主か独裁か」と言ったのである。
ここで注意したいのは、竹内にしてみれば、抑圧されたもの(の回帰)も、あくまでも操作対象としてカテゴリー分けされた概念だった、ということである。そしてこれと同じ権利で日本浪曼派も位置付けられていた。万能化して猛威を振るう日本浪曼派ではなく、抑圧された可能性としての日本浪曼派である。
以上のように、竹内はトピックごとにカテゴリー分類をし、抑圧されたものの側に立ちながら、概念操作をし、判断を下した。これら諸概念の関係は、自分が与する情勢・文脈の中で組み替えられるだろう。永久革命なり永久戦争をやむなしとした竹内は、与えられた情勢の中でこのように問題を一つ一つ(近代のアポリアとして)解いていった運動体であった。
民主をとるか愛国をとるか、個人の自由をとるか共同体をとるかといったレベルの話に還元されるものではない、ということが竹内には重要な前提なのである。そしてもう一つ、重要なのは、竹内は負け戦が好きだったということだ。彼はつねに勝算が悪い方、抑圧されている方、受動的な方についた。風向き上「ファシズム翼賛の日本浪曼派」の分が悪ければ「日本浪曼派」につき、「民主」の分が悪ければ「民主」についた。だめもとで「民主」についた。そして全力で負けた。ガチかネタか判断できない仕方で彼は負け戦を戦った。
一方の日本浪曼派は、つねに勝ち戦を狙った。負ける素振りを見せながら、ガチ勝負の相手を嘲笑い、自己を満足させた。これに対して竹内は、安保敗北にあって「負けるが勝ち」「どうせ負けるならうまい負け方をしたい」と言った。みっともない敗者の弁だ。しかしこれが彼のモラルであり、美的判断であった。
日本浪曼派も竹内も、民主と愛国といった近代的な問題構成が相対的な対立項であることを知っていた。しかし勝負に対するこのちょっとの差が、近代的な問題構成をめぐる「近代の超克」に対して決定的に相容れない戦略を、それぞれに編ませたのである。
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くり返せば、竹内は、抑圧された、受動的な、分が悪いもの(A)の側に立ち、その敵対するもの(−A)との対比から見えてくる、分が悪いもの(A)の醜い部分もひっくるめて問題設定に組み込むという、非常に立場がわかりにくい戦略をつねにとった。その結果、「ウルトラ・ナショナリズムの中からナショナリズムを引き出す」というアクロバットを披露したし、「ファシズム対民主主義」という対立軸では解決しないと言いながら、別の文脈では「民主か独裁か」と見栄を切ってみせもした。アジア・中国を理想的なモデルとしながら、「方法としてのアジア」として対象化し、ときにバカにするような物言いをした。彼の論理はこのような彼なりのモラルに裏付けられたものだったのである。
竹内のモラルは、しかし、竹内以降、政治のレベルでは、アジアの絶対視と自虐史観によって骨抜きにされることになる。思想のレベルでは、表象不可能なものとして美的に回収された。そしてゼロ年代になると、竹内がアイロニカルかつユーモラスに対処していた近代のアポリア(民主か愛国か、リベラルか公共性か、合理か非合理か…)は、表象不可能なものとして美的に葬る必要などなく、デジタルベースの環境整備の徹底により可視化され、それによってすべて解決する(棲み分けられる)とする発想で乗り越えられようとしているかにみえる(近代の超克?)。
もちろん、解決などしない。とはいえ、竹内が問題設定に組み込んだ評価軸だけでは、いまや近代(ポストモダン?)の超克に対応できないことも確かだ。たとえばローレンス・レッシグ『CODE』における、社会の成員を規定する四つの機軸(法・慣習・市場・アーキテクチャ)にしたがっていえば、竹内は、法と慣習(ナショナリズム)を問題の中心に置いたが、市場に関しては、当時のマルクス主義の一般的な疎外論的解釈以上の見解を持っていなかった。したがって、竹内は市場には冷淡である。彼は、労働過程を抽象的に支配・抑圧する(金融)資本を嫌い、知的労働さえきょくりょく抑えることを望んだ(『日本イデオロギイ』1952など)。
最後のアーキテクチャ(社会設計のための環境整備)のレベルにいたっては、当時としては仕方がないことだが、ほとんど視野に入っていない(法と規律でなんとかなる)。
これはむろん竹内の責務ではない。私たちが引き受ける問題である。慣習が弱まり、代わって市場とアーキテクチャの物理的・形式的な側面がせり出してきた状況をいかに対処するか。そのような状況においても、しかし竹内の有効性は失われていない。といっても、竹内好がいまでも有効なのは、「民主か愛国か」といった次元では無論ない。「アーキテクチャか規律(慣習)か」でもない。社会をデザインするに当たって、現在有効な機軸を操作すること、その操作のために必要とされるあのモラルが、竹内の固有名が登録された方法としていまでも有効な参照点であり続けている。
思い返せば、恐らく魯迅体験が大きく作用しているだろう、この竹内好のモラルがあったからこそ、戦時中の記憶を忘れたかのように近代知が復権を遂げた戦後において、日本浪曼派を問題設定に組み込みえたのである。竹内は、戦時中の「近代の超克」論議を忘れ、西洋由来の近代の合理精神に大勢が依拠する戦後において、日本浪曼派を再導入したのだった。
そして、安保条約の締結(1951)後、欧米を参照枠とする戦後の日本に対して、中国およびアジアを対置したのである。現状の日本とも西洋とも違うロジックを持つアジア・中国、日本との関係から西洋と異なるロジックが見出されるアジア・中国を一つの極に立てて、この三点からありうべき日本を考えたわけだ(「方法としてのアジア」)。
この方法は、いくつかの正史と偽史を相対的・鏡像的に組み合わせながら差異(抑圧されたもの)を見出し、ありうべきもう一つの日本史を編む安吾の歴史探偵方法論と似ている(国民文学論としての安吾)。安吾もまた、戦後において近代主義ロマン主義アイロニー決断主義の間に自分を置いてポジショニングを測っていたのである。
最後に補足。先ほど、竹内は市場とアーキテクチャに関わらなかったと述べた。それは事実だが、コミュニケーション・表現論のレベルでは、彼はそれらを方法として身に付けていたことを確認しておく。
まず近代知と理論に依拠する「文学界」グループと京都学派が法と規律・慣習(国民国家)を司る審級だろう。だとすれば、日本浪曼派は、資本に擬態したロジックにほかならない*5。竹内は誰よりもこのロジックに注目していたのである。
そして政治と文学論争とか安保問題で議論が紛糾・炎上しているさなかに、そこではよく見えない、別の評価軸を差し込み、議論の全体的な環境整備を試みる竹内は、まさにアーキテクチャの技師だと言いたくなるが、しかし彼はそれでもなお負け戦に自らを置いて、自分が立てた全体的な見通しを、それこそ身をもって引き裂き、自分はまだ何も分かっていないと呟き(「方法としてのアジア」)、議論を立て直すのである。これが彼の「近代の超克」の身の処し方であった。

*1:このエントリーは、戦後文学(竹内好篇)の読書会で、梶尾文武氏、平山茂樹氏、平林慶尚氏らとの討論によって生まれたものである。もちろん文責は中沢。

*2:安吾戦争後史論 モダニズム以降の表現の可能性』(2007、東京大学大学院提出博士論文)。

*3:橋川の連載論文は『日本浪曼派批判序説』として1960年に結実。むろん橋川にしてみれば、『批判序説』の執筆に当たっては、丸山真男と竹内という二人の先人が強く意識されている。

*4:竹内は、日本の戦争責任を「二重性格」としてとらえた上で、アジアに対する侵略戦争に責任を限定し、欧米帝国主義に対する責任はこの限りではないとした。日本浪曼派の亀井勝一郎もほぼ同様の見解であり、竹内は評価している。しかし竹内は、亀井のようにアジアを実体として把握していたのではなく、あくまでも「方法として」とらえていた(「方法としてのアジア」61年11月)。それは日本浪曼派が竹内にとって方法としてあったのと同じ意味である。竹内の日本浪曼派なり中国への執着は、見ようによっては、理想化のし過ぎの印象を与える。しかし竹内は、自分が与する戦後の知的空間を、批判的に相対化するための方法として、ときに日本浪曼派を、ときにアジアそして中国を導入したのである。大江健三郎が「核時代の想像力」を導入したように。あるいはまた江藤=大塚がサブカルチャーの想像力を導入したように。

*5:個物の交換・契約を総合する貨幣/資本のロジック。より厳密に言えば、当時編み出された京都学派の「世界史の哲学」や時枝文法などは、近代的な個物・主体のロジックを否定的にとらえ、それらを一気通貫し包摂するロジックを考案したのであり、日本浪曼派はその極限において、文脈を意識した表現・コミュニケーションの演出を模索したのだった。そこでは、地(フレーム)を利用して個性のある図を演出することが求められる(モダニズム)のではなく、無数の図の演出・動員のために地(抑圧された基底面/フレーム)をいかに炙り出すかが賭けられている(このあたりは、『一九二〇と一九三〇』(2000、近畿大学大学院提出修士論文)、「ジャーナル、ジャーナリスティック――J批評宣言」(2001・3、「早稲田文学」))。そしてそのような地の審級はしばしば日本の特殊性として比喩的に論じられたのだった(時枝の「玉の緒」「風呂敷」理論、京都学派の場所・述語理論、岸田の「鳥居」など)。これらに対して、安吾の正史と偽史アナーキズムと愛国、竹内の民主と愛国は、地と図、目的と手段の関係においてたえず反転する関係にある。これが彼らのモラルであり、美的判断であった。