感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

前回の注改

最初に、前回のエントリーの訂正を。
東氏の「自然主義的リアリズム」観を、「相対的に可能性を省みられない(まあお役目御免的な)様式」と定義したことに関して、暴力的だというご批判を受けました。確かにそうですね。彼は現代社会に対応した様式を「ゲーム的リアリズム」として摘出し、それに可能性を見出し彼なりの期待をかけただけであって、純文学や「自然主義的リアリズム」を(相対的にせよ)否定的に論じたわけではない。
このエントリー(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080201)にも書いた通り、僕もそのことは了解していたつもりですが、ついこういう評価をしてしまうということは、純文学の「党派性」を免れていないと指摘されてもしようがないなあ、とつくづく反省しています。とにもかくにも、前回のエントリーでは、柴崎さんの文学史における特異性の確認とともに、リアリズムの多様性を感じていただければなあと思っております。いまやリアリズムに対して否定するまでもなく単に省みられない状況において、柴崎さんの方法をリアリズムとした場合見えてくる特異性です。
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僕が前回のエントリーを書こうと思った動機は三つあります。まず何より、柴崎友香という作家の書く小説が好きだから、という思いがありました。それから、最近僕の批評の軸、価値基準が固着してきて融通が利かなくなってきているから、どうにかしたいという思いもありました。この思いは、柴崎さんの小説が好きなのに、それを語る言葉がない、批評の言葉にできないというもどかしさがよりいっそう強くしてくれました。
三つ目の動機は、リアリズム(自然主義といってもいいですが)の評価軸を拡張したいという思いです。これは、柴崎さんや長嶋有さんの小説の読書体験があってこそもたらされた思いですし(柴崎友香を最初に読んだのは、『きょうのできごと』の、行定勲監督によるこれまた魅力的な映画版を観てからで、長嶋有は『夕子ちゃんの近道』の大江健三郎賞受賞からだったのですが)、これを解決すれば、僕の評価軸――批評で切れるカードの数――の固着度合いを緩めてくれることにもなるだろうという期待がありました。
とくにリアリズムの再考に関しては、エントリーにも書いた通り、蓮實重彦から東浩紀にかけて小説は「物語の説話論的構造への還元とデータベースを参照したネタ的加工」という観点からの評価がもっぱら目立ってきたわけで(この流れを否定的に評価した蓮實さんから東さんの肯定にいたるスタンスの違いはあるわけですが)、その流れに乗りながらどうにかしたいなあという思いが、趣味判断のレベル(柴崎作品がアルコールと同じくらい好きだ!)からあって、それに突き動かされた結果なわけです。本当ですよ。そこのところはとても重要なのですが、熱く語っても自慰行為に陥るだけなので、これ以上展開できません。おしむらくは。
注意してほしいのは、以上の批評の流れ(これはもちろん僕のバイアスがかかっていますが)に対してどうかしたいと思ったのは、政治的な判断ではなく、僕の趣味、好き嫌いを根拠にしているということです。
ユリイカ」の中上健次論の場合も同様です。中上の業績なり中上論の成果を批判するために書いたのではなく、中上、そして阿部和重古川日出男が不可欠な存在としてある現代文学の可能性を問いたかったということでした。だって文学が好きなんだから、ということです。
むろん、言葉にして公にした以上、政治的に読まれることは避けられないですし、当の僕が書いている過程においてさえこのような政治的な評価軸を混入してしまうことは半ば不可避でしょう。その一端が東さんの「自然主義的リアリズム」観の定義に党派的なものとして混入していたわけです。いずれにせよ、趣味なり感情が批評の起点になっていることは僕にとっては重要です。というのも何より、批評の批評、批評のメタ無限ループや批評のニッチ的利用にきょくりょく乗りたくないからです。
ただし、僕の学生に対してだったら、まずは批評についてきちんとおさらいすることで自分のポジショニングをはかるなり、批評のニッチを狙うなりすることをすすめますが。
とにかく、前回のエントリーでいえば、蓮實−東の批評が築いてきたリアリズム批判なり軽視の文脈に難癖をつけるために批評の言葉を組織したのではなく、柴崎友香の小説の特異性、面白さを伝えたいという思いがあって、そのためには、今の批評の文脈を踏まえつつ変更する必要があったということです。むろん、現行の批評のヘゲモニーを批判し相対化すべく柴崎友香の小説を利用したというふうに読んでいただいても構わないのですが(笑)。その場合、僕が柴崎さんの良さを伝える言葉を十分に組織できなかったということでしょう。
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僕は以前、文学の価値とか批評の根拠は無底・無根拠だという至極当然のことをいいましたが、だからといっていまさら決定不能性だとか相対論についてどうこう講釈したいわけではありません。無根拠ゆえに引きこもるか決断するか態度表明を迫られる今日この頃ですが、ブログを立ち上げてから僕は僕なりに批評の立場をはっきりさせていて、まず第一に作品(とくに小説)の「感情レヴュー」ですし、それからもう一点、小説の評価軸を増やしたい(それにより感情の源泉を増やしたい)という意図があります。ニッチを無理やり創出するというやり方ではなくて、小説(分析対象)がもともともっているもの、もちうるものを(分析主体の期待や予断をこめながら)明らかにしていくというアプローチです。これは文学史の視点が入ってきます。ですから、社会学や消費分析をはじめ他の分野の批評なり理論的考察を必要としてきます。
僕は90年代を表現論(テクスト分析)と政治分析(ポスト・コロニアル分析やカルチュラル・スタディーズなど)のカップリングで批評をしてきました。しかし、このままだと従来の「政治と文学」の枠組みの中で批評の批評、批評のメタ無限ループに巻き込まれ、なおかつ、エンターテインメントやサブカルチャーを植民地としながら純文学を囲い込むだけだ(いまや立場は逆ですが!)、という思いが出てきて、社会学や消費分析の問題を挿し込もうと考えました。
これを背景にしておくと、エンターテインメント系文学やサブカルチャーを含めて同列に扱わざるをえなくなります。それから、差別やポルノグラフィー、権力や暴力といった政治の問題は、表象のレベル(想像の共同体とかオリエンタリズム的なイメージ批判)から消費やコミュニケーションのレベルに移行しているわけで、そのような状況をきちんと追えると考えました。
かくして、こういった政治的社会的状況を踏まえ、市場の原理優先で動くエンターテインメントやサブカルチャー分析と同列にとらえる視野において文学(批評)の可能性が見えてこないだろうかという考えのもとに、いま批評を置いています。
ただし、社会学なり消費分析で作品分析を充足させた場合、それはまた別種の(動物的な!)無限ループにつかまるでしょう。それはそれでありなのかもしれませんし、たとえば前回論じた柴崎友香の方法もデータベース消費を前提にしているといえばいえるような批評も当然ありなのかもしれません。しかし僕の限界なのかもしれませんが、そこまではどうしても降りられない。その点、物語構造のみならず叙述のレベルから作品構成、文体まで言葉の様々な層をとらえ、幅広い評価基準を培ってきた純文学を一方の極に置いておくのは、僕にとっては有意義なものです。