感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

中上論と小泉元首相と批評についての話

1路地から路地ならざるものへ
以前にも告知した通り、「ユリイカ」で中上健次論を書きましたが、もう発売されている頃ではないでしょうか。「中上以後」というタイトルが示す通り、中上健次阿部和重古川日出男へとリレーする構成をとっています。テーマは、サーガの想像力の変容についてです。土地・地名が物語の動力としてどのように関係しているのかを検証することによって、このテーマを明らかにしました。
何故この三人を採用したのかというと、中上特集なので中上を出発点にするに相応しいテーマを選んだわけですが、三人とも、物語の動力を得るに当たって、土地なり地名を活用することにきわめて自覚的な(批評をこめた)作家だからです。物語を展開するのに無自覚ではいられない1980年代以降のいわゆる物語批判の文脈にあって、彼らは物語を積極的に組織し運営しながら、物語を冷徹に対象化し続けました。そのような、物語に対して両義的なスタンスを貫く媒体として彼らは、土地・地名を導入したのです。
中上、阿部、古川へと、土地と物語の関係をめぐる諸規則が、ガチャッ、ガチャッ、ガチャッと切り替わっていく様が見えてくると思います。物語への傾倒と物語批判を、各時代ごとに最も先鋭的な形で取り組みえた作家だからこそ実現するリレーであって、そこに優劣の差はいっさいありません。
もちろん、以上のような中上の読み方は中上のほんの一端にしか関わっていません(その一端から全体が浮かんでくるような構成にはしていますが)。彼の読み方が多様にあることは、これまでの膨大な中上論の成果をみても明らかです。僕はそのうちの、とくにいままであまり見えてこなかった一端を切り出したつもりです。そこではとりわけ、中上以後の成果と接続する形で見えてくるものもある、ということを示したかった。
これまでの中上論は、「中上ってやっぱり巨大だよな、近代文学の集大成であり、現在進行形の文学の可能性も予言しているよな」という主張のために、文学史や文学の遺産を参照してきました。それは大きな成果を残したと思うけれど、いま僕が中上を論じるのなら、そのような中上論を積み上げたいとは思わなかった。まあ逃げともいえますが。
むしろ文学史の一端を明らかにしたいがために中上を利用しようと思ったし、そのためには中上という作家のキャリアこそ必要不可欠なのだ、という意図が僕にはありました。簡単にいうと、中上は何故どのように優れているのかを明らかにしたいのではなくて、中上は何故どのようにして文学史を記述する上で必要不可欠なのかを明らかにしたかったということです。
中上の多様性なり可能性を見ることは重要だし、中上ファンとしていまでもそうだとは思うけど、現時点の現代思想なり社会学の功績を踏まえた思い込みなり期待をもって中上をこれ以上論じ続けることは、ことにいまは、中上論を細らせるだけのような気がします(中上論の「異族」化)。
中上のキーワードとして、路地から路地へとか、路地の拡散と普遍化とかしばしば指摘されますが、拡散させたものがけっきょく元々の中上に戻ってくるような、いささか神経症的な中上論はとくにいま読んでいて息苦しいなあという印象を受けます。中上は豊穣に物語を語ったし、その平板化も受け入れたし、劇画もやったし、あれもやっていた、これもやっていた等々と。
それよりも、中上は何から何を繋いだのか、その間で彼は何を試行錯誤したのかを見たい*1。中上の可能性としてではなく、文学の可能性として、ですね。いわば中上を、多様性を内包する面としてとらえるのではなく、避けては通れない幾つかの結節点の集合(その一端が土地と物語の関係)としてとらえること。
路地は、いつの間にかまったく路地とは異なる何ものかに再利用される(しかしそれは確かにかつて路地といわれていたもののはずなのだが!)のであり、その運動が文学だと僕は思っています。
だから願わくば、無数の結節点を結び付けては幾つもの線を引き、文学の可能性の一端を担える批評であらんことを。
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2保守とリベラル
あの構造改革の雄・小泉元首相の後継者に息子が指名された件について、否定的な声があり、これはまあ往年の左翼的(というかリベラル)な理念が背景にあるわけで、わかりやすいといえばいえる。世襲は自由と平等(公平な自由)に反するというわけですね。で、それに対する再批判があるんだけれど、ふむふむと思ったしだい。
その再批判はいくつかに分けられるんだけれど、一つは、まああれだ、いまや議会は世襲議員だらけだからしようがないんじゃないのという諦念の声(小泉氏もしょせん人の子)。これはリベラル崩れというか、リベラルでいたいんだけれど、その実効性なんてもうないでしょうというところで引き裂かれてしまってる声ですよね。これも僕にはよくわかる。
それから他には、「世襲を嘆く前に、選挙なんだから(いやなら)投票しなければいい」というものと、「世襲が悪いんじゃなくて、世襲だって能力があればいいじゃないか(けっきょく能力勝負だ)」というもの。これらは、リベラル=悪平等という(新)保守的な発想にもとづいたものだと思うんだけど、すごいピュアな理想論だと思うんですよね。
ここのところ長らくリベラルの方が実効性のない空論的な理想論だとして批判されてきたけれど、代表制民主主義とか個人の能力を素直に信じてしまえるなんてこれ以上の理想はないでしょう。まあ保守政治家は、「自由」とか「市場原理」とか「構造改革」とかいいながら我々の理想像に訴えかけつつ、利用できるものはとことん利用しつくすという形で勢力を伸ばしていくものですけれども。
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3批評について
ここ最近文芸批評のことで色々考えていた(ふりをした)のだけれど、けっきょく、自分にとって関心のある文学の見通しなり可能性を言葉にしていけばいいんだ、って、それで満足することにしました(もともとそういうつもりでやってはいるんですが)。で、批評家の資質を問われるのは、いかにルール(フレームといってもいいし価値基準といってもいいし読み方書き方といってもいい)を多彩に披露出来るかってところにあるんじゃないかとも思う。まあその一個一個が説得的じゃなきゃ意味がないわけだけど。
要するに、色んな作品を、自分の一つの欲望(ルール)で読み解いていくのではなく、なるべく欲望(ルール)の可能性を開いた批評が組織できるかどうかってことじゃないでしょうかと。物語かキャラ萌えか、決断主義セカイ系か、データベース消費かリアリズムか、なんて問いは、一個一個の作品を読む上ではあんまし意味がないってことですね。
思えば伊藤剛氏がマンガ批評に「キャラ」を導入したときも、そういう意図があったはずなんですよね。つまり彼がマンガ批評に「キャラ」を導入した理由は、キャラ消費こそ重要ということではなく、マンガとは必ずしも物語を消費するためにのみあるものではないのだ(あるいは物語を消費すためには、キャラクター要素はそれと背反するものではなくむしろ促進するものだ)、ということが核にあったはずです。
僕は、こんなふうに、ジャンルの可能性をより豊穣にするために、消費・受容のルールを提供していく批評というのが大好きです。だから、文学は終わったとかマンガは終わった式の言葉を読むことほど萎えることはない。それはたった一つのルール(ある作家なり作品の傾向)にのっとっているから出てくる感想に過ぎないからです。そのジャンルを好きな人は、間違ってもそんなことはいわないはず。
くり返せば、キャラ読みが正しいとかいう話ではない。それは一つのルールとして使えるってことにすぎない*2
思い返せば、物語消費に対しては、単純にプロットに言及したテーマ批評しかなかなかできなかった状況の中で、東浩紀氏がデータベース消費の文脈でキャラの様相(ルール)を摘出し、マンガ批評で伊藤氏がそれを活用する、という流れがあったわけで、そのキャラ消費をフックにしてマンガ(サブカル)批評が強くなったということがあったと思う。柄谷行人氏(『日本近代文学の起源』)が明かしている通り近代文学の可能性と限界の中心が人間の「内面」だったように、マンガ(サブカル)の可能性と限界の中心はキャラだったというふうにもいえばいえるような趨勢になりつつある今日この頃ですが、でも、それとは別のルールを活用しながら地道にマンガ・サブカル批評をしている人たちもいるわけだし、本当は無数のルールがあるはずなのです。
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先頃子供が誕生しました*3。実感が湧かないまま育児その他諸々に追われることになりそうですが、些細であれ、これまでのルールをガチャッと組み替えてくれる結節点であればいいなあと思っています。

*1:たとえば、太宰治ライトノベルなり佐藤友哉の手法の先駆を見るのではなく、ライトノベルなり佐藤が太宰の何を、どのような文脈においてリサイクルしているのか、を見ること。その試みが、中上論のカップリングとして書いた「青春小説論」http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080830でした。

*2:ただ、伊藤氏の場合、日本マンガ/手塚治虫の初期に遡った考古学的なキャラの摘出の仕方が、「マンガのルーツは(物語消費より)キャラにある」的な読まれ方を促してしまったことはあるにせよ。むろん伊藤氏の力点はそこにはなく、物語消費に抑圧されてきたキャラ消費を喚起させたところにあるわけです。

*3:そんな頃に一升瓶を一人で開けてるなよというツッコミは当然ありだと思います。