感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

批評について、考える。

前々夜の酔い痴れコメントに対して藤田直哉さんの「共鳴」を頂戴したり(http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080914)、間借花さんから身体を気遣ってくれるコメントをくださったり(ありがとうございます。気をつけます)、こんなふうに拾っていただけると、なんだか書いてよかったなあとちょっぴり思ったりします。色々書きましたが、僕も、藤田さんが引用してくださったところ、いわば批評の無底性(評価軸の根拠のなさ、共通了解のなさ)に関してはまったく同意見で、これについては少し補足しておきたいです。
批評をするときにはこの無底性にいつも無関心ではいられません。でも、作品を読んでいくと、ふっと評価軸というか評価の図面のようなものが浮かんでくるんですね。それが僕と作品の掛け替えのない出会いです、と小林秀雄みたいなことを言ってみる(笑)。でもこれは掛け値なしに事実です。もちろんその出会いについて事細かに書くことは僕の倫理が許しませんが、浮かんできた評価軸をもとにして言葉をつらねていくというのが実際の作業工程になります。もちろん浮かんでくるのをただ待っててはだめとも思っていて、出会いをより多くより面白くするために、過去の作品や理論的な文書をできるだけ吸収するようにすることにしています。そうして持ち前の評価軸を網状にセットしておいて、ある作品を読んだときに、網目のどこかとどこかの糸が交錯しながらぶいっと持ち上がる、でもってそれを手繰り寄せつつ言語化の一助にしていく、っていう、なんかよくわからないけど(笑)、そんなイメージですね。もちろん言葉にしていくうちに、当初の評価と変わっていくということもよくあります。網はつねに変化しているんじゃないでしょうか。ってなんかすごい危ない人みたいですね(笑)。
ともあれ、いまや評価はマーケットのレベルで全て処理できるような幻想がはびこっていて、それには抵抗があります。たとえば、最近小林多喜二の『蟹工船』がブームになりましたが、あれは文学史データベースの中の「昭和初期」「プロレタリア文学」項目に、現代の「格差社会」「ワーキングプア」文脈を評価軸として接ぎ木した結果、新たな消費者・読まれ方を喚起した、という言い方ができると思います(実際そうなされているでしょう)。過去のプロレタリア文学を現在読まれる機会を作ったマーケティングの手続きは大したものだと思いますが、批評がそんなようないわば手書きポップなり帯付け戦略を解説するレベルで満足できるかというと、やはりそうじゃないですよね。サブカルを中心にしてそういう消費分析(萌えとかセカイ系とか)がここ最近多いような気がしますが。
ちょっと話をずらすと、たとえば、東浩紀さんが「データベース管理・消費」を社会(工)学的にきわめて卓抜に分析した功績は、とてつもなくでかいわけですが、その後の文芸批評はうまくそれを吸収できていないとも思っています。まあ人によってはそんなの無視してもいいとは思うのですが。美少女ゲームとかアニメとかの分析を見てると、東さんをはじめ、けっこう多くの人がセクシュアリティー批判を(データベース諸費とプレイヤー視点に)接ぎ木するという戦略をとったでしょう? 消費分析だけじゃ足りない、倫理とかそれに抵抗するものがいると正しく痛感した結果だと思うのですが、あれも批評からの逃げ(根拠の捏造)としか僕は思えなかったです(むろん僕は政治的な読解を否定するものではありません。それもまた場合によっては必要不可欠で重要な作業だと思っています)。だからその逃げに対して、宇野常寛さんがいくら効果的に批判しても、少なくとも批評にとっては首を傾げるところがあります。なんかこう書いていると、批評を囲い込んで特権化しているように見えますが、もちろんそんなつもりはないんですね。こんなこといくらいっても、いまや文芸批評をガチでやることはブログ論壇のみならず社会的にまったく影響力がない*1ということも僕はよく知っています。まあなんか孤独な作業だなあというのが、無底性とともに批評を志す以上は宿命的に付きまとうんじゃないかなあと、そういうふうに思っています。

*1:否定性(みんな無根拠だ!)を振りかざしたって、いまさらメタ視点に立てやしない。みんな無根拠だと知ってて特定の価値を振りかざしてるのがゼロ年代の「バトル・ロワイアル」なんでしょう?