感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

醒めて、考える。

というか二日酔いです。アルコール漬けのエントリーはやっぱり酷いし痛い。なぜか(1)としてるけど、もうないことを祈るばかりです。商業性とそれに犯されない趣味判断という対概念で文学の可能性について議論することは、大衆文学とかエンターテインメント系の文学ジャンルが登場して以来(大正時代あたり)、再三なされてきたことで、この対概念でうっかり話し出すと、これまでの論争(純文学VSエンターテインメント)と同様に不毛な議論を付け加えることでしかない。それは無駄に純文学を延命させる議論でしかありません。それを承知しておきながら、思わず「商業性に犯された純文学」について息巻いて、しかも偉そうにお前文学の何様だよって感じで語ってしまう自分がいるということに、少なからずショックを受けています。宇野さんの「緩やかな共同体」もそうだし、東さんたちの「公共性」の話も含め、細かく分断された生活圏に対していまどうすべきかという問いを文学でやると、こんなふうになりがちだし、歴史を振り返ればじっさい周期的に議論されてることなんですよね。とはいえ、批評においてこういう問いは、いまあってもいい(というかあってほしい)とは思っています。ただし、これまでの論争(純文学VSエンターテインメント)を踏まえて、別の評価軸なり視点を差し込む必要はあるでしょう。少なくとも、いまや文学の趣味判断(評価)について、「売れなくていいもの」とか「思索的」とか「文体に生き様あり」とか非商業的な価値観ばかりを、逃げ道のごとく提示してみても意味がない。いかなる文学ジャンルであれ消費やコミュニケーションのレベルを抜きにしてとらえることはできませんものね。でもこの視点でぐいぐい議論していくと、けっきょく社会学的な考察になってしまう。データベース消費とかね。それは純文学もケータイ小説ライトノベルも同様にとらえうる視点です。それでいいのかもしれないけれど、いや違うんじゃない?と思ってしまうところは、古い人間なのか甘いのか、よくわかりません。と、ここまで無理して考えてみたものの、やっぱり不毛だなあという感慨に陥る。けっきょくは、現代的な消費・コミュニケーション性向を、純文学ジャンルで培われてきた意匠によって的確に表現にした作家・作品こそ優れている、という評価の仕方でいいんでしょうかね。その上に、流行りの政治的なテーマや風俗を織り込んでいるとなおよし、と。いまもって「小説の主脳は人情なり、世態・風俗これにつぐ」(坪内逍遥)という卓見は変わっていないということかもしれない。なんか吐きそうな結論だ。
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追加。
ただ、やはり純文学は歴史も長いし(他の文学ジャンルと比べて)、ノイズが多いジャンルであることは間違いない。どこに評価の軸を設定していいかの共通了解がない。だからライトノベルケータイ小説の方が批評の言葉が集中するし、それでなにかわかったような気になれるというところがあると思います。純文学に(アカデミズム以外で)批評の言葉が集まらないのだとしたら、それは(消費者の数はおいといて)古いからというよりもノイズが多いからですよね。むろんだからといって、このノイズに文学の価値を担保することは、けっきょく逃げ道でしかないわけですが。
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さらに追加。
けっきょく不毛でくだらない問いでした。純文学限定で考えていてもどうしようもないし、文学をグランドデザインしようとすること自体が、偽の問いの罠。他のジャンルと相対的に比較検討しても消費レベルのジャンル論的な話にしかならない。けっきょく、個々の作品が結実するたびに、その時々の文脈と様々な評価軸(人文諸科学の)を参照して評価がなされ、その評価の一つ一つがまた文脈と評価軸を書き換えていく、という運動としてとらえるしかない、というもっともらしい結論に落ち着く。その中で僕に出来ることは、批評・評価のメタ・ループ(批評の批評、評価の評価…)になるべく巻き込まれずに、個々の作家なり作品を評価すること(もちろん個々の作品にも批評が入っていて、一定の文脈と評価軸のもとに書かれている)。そのプロセスが結果的に一つの評価軸として自律し、他の評価に参照される程度の価値あるものになっていればなおよし、という感じでしょうか。これはこれでなんか逃げてるようだけど。