感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

酔いながら、考える(1)

例によって焼酎を一升瓶一人で開けてると色々見えてくることがある。いやまあ、だいたいが妄想か雑念かエロなんだけど。最近の(このブログの)エントリーでは、表現分析においては形式と歴史の考察が重要だというきわめて保守的な説教ばかり言っていて、われながら怪しい。むろん形式と歴史という二本立ては必ずしも虚勢じゃないんだけれど、それ以上にというかそれを通して知りたいのは趣味判断の問題なんですよね。要するに文学の価値の在り処について。というか、エンターテインメント系の文学だったら市場の評価で満足できるということであれば、それ以外の文学、純文学のことですが、の評価ってどこでなされるわけ? っていうことです。東浩紀さんがいま連載中の「なんとなく、考える」(「文学界」8-)で公共性の問題を扱っているでしょう? 現代版公共性の問題。いまや公共性は市場の原理に侵食され、それを抜きにして考えることはできないという議論はここ数年なされているけれど、それを東氏は「公共財」と「公共圏」という対概念で彼特有のレトリックのもとに的確に語っている。そんなような状況に対して純文学の価値っていまどうよ?ってのがあったっておかしくないというか今みんな(じゃなくごく一部)そういうの抱えてるでしょう。趣味判断ってけっきょく個人の問題に還元されるわけだけど、純文学というジャンルは公共性の名のもとに個人の趣味とか市場の原理を排除してきた歴史があるんだよね。で、この文脈にフリーライド的に乗っかった作品ってどうなの? っていう問いも当然あるし、いやいやその歴史性ゆえに、市場の原理に還元されない問題を追及する権利がこのジャンルにはあるんだ、という主張があるわけです。どっちが正しいという話じゃなく、そこのところは悩んどいていいと思うんですよ、少なくとも批評は。どうすんだよと。いまや純文学だって市場の原理にまみれてるじゃないかと。まあ、批評家には小説は読めないという非常にくだらないテーマと同様に決着のつきようのない話なんだけれどね。ということで、一升瓶(最近は黄麹の芋にはまってます)が尽きかけてるので、この辺で。