感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

『ゼロ年代の想像力』読みました。

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

宇野常寛氏が『ゼロ年代の想像力』でテーマにしたのは、価値観の流動化・多様化を背景にした、内向的なロマン主義から暴力的な決断主義への歴史的以降、あるいはその両者の、コインの裏表的カップリングという問題系である。これは、ナチスの近傍にいた法哲学カール・シュミットとそれを批判的に問題にしたカール・レーヴィット以来、近代の古典的なテーマであることは、ここで改めて確認しておきたい。
もちろん日本でも直接間接にしばしば問題にされてきた。とくにポストモダンとか「近代の超克」が取り上げられた1990年代には、現代思想周辺で盛んにクローズアップされている。その関係でデリダ(『法の力』)、ベンヤミンハイデガー、シュミットあたりはよく読まれたし、日本の1930年代近辺の思想(京都学派、日本浪漫派など)も積極的に言及された。
法・政治学的には、議会制民主主義(ワイマール体制)の限界と軍部・行政による全体主義化の動きとしてとらえられる。表現史的には、表現主義モダニズムの閉塞的退廃から文芸復興という流れ。僕も上記90年代のブームに乗っかった口で、修士論文(『一九二〇と一九三〇』)以来、モダニズム(以降)の限界と可能性を問題にしている性質上、このテーマには少なからず関心がある。
この問題系において宇野氏がユニークなのは、大塚英志東浩紀がオタクの消費性向をもとにして精緻に理論化したポストモダン的表現およびその歴史の体系(のヘゲモニー支配)を批判する上で、ロマン主義セカイ系)/決断主義の問題系を有効に活用した、という点だろう。
本書で宇野氏は、小説をはじめ映画やコミック、テレビドラマ、特撮など様々な表現ジャンルを扱っているのだが、それらは基本的に社会学的な消費・コミュニケーション様式、いわばロール・モデルとして参照されている。したがって、文学研究の中での直接的な評価はできない。個人的な感想は、私小説批判のヴァリエーションとしても読めると思ったし、他にも啓発される点が多々あったが、ただ少し疑問に思ったことがあるので、そこを起点にして文学研究もしくは表現研究における評価をしてみたい。
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宇野氏による文学評価は、ライトノベルに際立ったキャラクター消費とケータイ小説に際立ったプロット消費に注目し、この二軸によって個々の作品評価をする、というものだと思う。とにかく彼の文学(のみならず他の表現ジャンルもだが)評価はキャラクターとプロットの二軸によってなされている。他の形式的側面は評価軸として採用されないし、評価の対象にならない。
文学表現を、近代の「大きな物語」が裏付ける「文体」から評価することに否定的な宇野氏にとっては、この評価の仕方は至極当然だろう。それにそもそも本書の分析対象は、活字・映像含めた様々な表現ジャンルに及んでいるので、ジャンルごとの形式的側面に注目することは経済的に効率の悪いものでもあったとはいえる。
それは戦略としてありだと思うが、疑問なのは、彼がプロット消費の立場からキャラクター消費を批判するところだ。これはもちろん本書のスタンス――オタク的引きこもり物語から決断主義的物語を経由して成熟した物語を待望する――を反映したものなので、宇野氏にとっては必然的なのではあろう。本書において宇野氏は、オタクによる美少女キャラの所有・承認欲求を充填してくれる脳内「レイプ・ファンタジー」を強化するのみとしてキャラクター消費を批判し、アクションとイベントの関係の束に還元されるプロット消費こそ自己愛的な所有・承認欲求を解放し、より成熟した物語を組織する要素だ、としているのである。
しかし、宇野氏の社会学的な見取り図についての評価は留保するとしても、キャラクター消費よりプロット消費というとらえ方は、表現論的にみれば誤解でしかない。とくにサブカルチャーにおいてはこの両輪は物語の想像力にとって欠かせない要素であることは自明であり、宇野氏が評価するよしながふみのマンガにも当然当てはまる。この誤解は、おそらく、宇野氏が参照するジャンルの偏向の結果であろう。どういうことか。
彼は、オタク的な「セカイ系」およびキャラクター消費の擁護者である東浩紀とその「劣化コピー」の言論がはびこった結果、ゼロ年代にふさわしい物語の想像力を把握・支援する機会が失われてきたことを批判するのだが、それゆえに、宇野氏にとってのキャラクター消費は、東らが言及したライトノベル美少女ゲームのそれに縮約されてしまっている。ライトノベル美少女ゲーム周辺がキャラクター消費を特化したことは間違いないが、社会学的評価とは別に、サブカルチャー全般においてキャラクター消費は不可欠の要素である。
それは、所有・承認欲求を満たすためのみならず、宇野氏が肯定するような、モバイルなコミュニケーションのためにも活用されているはずだ(たとえばよしながふみあずまきよひこ羽海野チカなどのキャラクター使用法。http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080606を参照)。
他方、宇野氏が相対的に評価するケータイ小説が特化したプロット消費にも、宇野氏の意図に反して所有・承認欲求を満たすものとして機能する場合がある。たとえば、ケータイ小説には、簡略なプロットの特化とともに、説教・啓蒙要素が織り込まれていることはつとに指摘されている。語りがきわめて保守的な価値観のもとに人生訓を語りだしたりするのはよくあることだが、なによりプロットが啓蒙的な価値観(セックスすること、金儲けをすること=「汚い/汚れてない」という二項対立のロジック)に還元・支配されている(『ケータイ小説は文学か』石原千秋)。それにいうまでもなく、このジャンルに典型的な愛−死というプロットの流れは自己愛的な消費のフラグでしかない。
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このようにみてみると、やはり宇野氏の「セカイ系」的想像力を敵とする決断主義的なスタンスに問題があるといえる。その結果、評価の対象が激しく限定される怖れがある。宇野氏が打ち出すように、セカイ系を踏まえ決断主義の次なるフェーズがあるとしたら、新しいロール・モデル(宇野氏がデザインする緩やかな共同体とか)よりも、セカイ系決断主義の消費・コミュニケーション性向と想像力をカップリングした想像力のトレーニングこそ重要だろう。
最初に、ロマン主義決断主義の問題があらわになった時期の話をしたが、それは日本では1920年代から30年代、表現史でいえば、表現主義私小説ロマン主義)と分離派からモダニズムの時期に該当する(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080601参照)。自然主義の社会性が私小説によって切断され、表現が内向的になる時代(宇野浩二の「夢見る部屋」、病的なまでに衒学的な探偵小説、大正教養・精神主義)がまずあり、次第に価値観の多様化が叫ばれ(娯楽雑誌・円本ブーム、芸術大衆化論争)、前時代の価値観を決断主義的に全否定し、新興の様々な流派・グループがジャンルの境をこえて組織され、そのたびに宣言が声高く唱えられ、それらがまた盛んに離合・交流をくり返した時代。この状況に対し「三派鼎立」を唱え、すべてを見通している的な言論をデビュー作品(「様々なる意匠」)で組織し、注目された若かりし小林秀雄はまるで夜神月のようでさえある(半分嘘)。
小説はプロットを重視すべきか否かとか(「筋論争」)、内容ではなく形式こそ重要とか(「形式主義文学論争」)、社会性を導入せよとか(プロレタリア文学)、様々な可能性が提出されもした。それはしかし、傾向としては長続きはしなかった。かくして文芸復興(物語回帰)の時代、そして日本回帰の時代の到来である。
そこでは、個々の実存(あるいはセクト的まとまり)に孕まれた内向性や暴力性を乗り越えるために、共同体の再構築が話題にのぼることになる(建築界では日本の様式建築の再考)。その中でもとくに注目されていたのが、アジアを含めたゆるやかな共同体のデザインであった*1。西洋近代を乗り越えるべくそのような試みを文学で考えたのが、横光利一である。それをカルスタ的スタンスから批評することはしないが、彼の文学は明らかに、単純化されたプロットと説教モードによって埋め尽くされたものだった(プロットの単純化と説教モードの前景化は最近の村上春樹の物語的想像力にもいえる)。
それに対して、ロマン主義の屈折したアイロニー決断主義の暴力性およびコミュニケーション能力を等分に理解し、モダニズム以降の表現の可能性を打ち出したのが、川端康成谷崎潤一郎だった。彼らは、横光のごとく律儀に日本の行く末を憂えてロール・モデルなり共同体の可能性を真面目に考えることをしなかったが、共同体を代表する国民作家になった。一表現者としての彼らは、表現主義からモダニズムの遺産を前に、閉じこもっていじくりまわしたのではないし、決断主義的に切り捨てたのでもない。吸収し、リサイクルしたのであった(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070803参照)。
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宇野氏が決断主義を反映した作家として相対的に評価する人たちよりも、僕は、宇野氏によって引きこもり文学とされた作家たち(佐藤友哉舞城王太郎)の方が文学史なり表現史の系譜に列なるし、リサイクルされる遺産を残していると思っているが、そんなことはどうでもいい。僕がいいたいことは、現代文学を評価するためには、歴史と、そして形式的側面をみる必要がある、ということだ。何を古臭いこといってるんだとお思いかもしれないが、表現の形式的側面も歴史も、表現をする上で、あるいはコミュニケーション(ロール・プレイ)を営む上で重要な参照項であることはいつの時代も同じである。
宇野氏が、90年代以降の物語批判のコンテクストにおいて評価する諏訪哲史川上未映子は、様々な形式的側面を抜いてキャラクター消費とプロット消費だけでみてみたら、引きこもり文学以外の何ものでもないはずだ。そこにしかし宇野氏は「声」なり「身体」という力を感じた。それが文学の圧倒的な力だと、僕も諏訪哲史ばりに確信している。

*1:有象無象の、単純な植民地主義的論理とは別に、中井正一の「集団の論理」とそれ以降の経緯は注目すべきだ。