感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

前回の補遺

批評の方法については、ここでは何度か言及していることだけれど、僕が意図している方法は、表現論(テクスト分析など)の軸と歴史・社会分析(消費やコミュニケーション分析も含む)の軸を縦横におり合わせたものだ、ということです。表現論によってジャンル固有の形式・方法論を抽出することと、その表現の歴史的・社会的な意義なり立ち位置を明らかにすることの往復運動が、批評には求められているという理解ですね。
とくにこのブログ開設時からの僕の関心は、1980-90年代に隆盛した物語批判の後、物語(を語ること)といかに関係を結び直すか、読者との共感のルート・感情の創出をいかに確保するか、といったことにあります(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070803http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080307)。現在このような関心に至ったのは、当然、上記の二軸を通して文学に接しているからです。
このような方法論はいまや文学研究では当たり前ですが、ふり返れば90年代は、テクスト分析とカルチュラル・スタディーズ(歴史・社会分析)が棲み分けされた状態が続いていました。それの反省がいまある、と。最近では、アニメやマンガを中心にしてサブカル分析のフィールドでも、この方法論に立ってジャンル史を編もうという試みが主流になりつつあり、頼もしく感じています。
ただ文学のフィールドをみてみると、批評の世界では(アカデミックな研究の世界ではなく)、あまり文学史がふり返られないのが気になります。サブカル系の隣接するジャンルや、ライトノベルとかケータイ小説といった部分的に内包する文学ジャンルとの関係ばかりが注目される。文学史をふり返っても、せいぜい村上春樹止まりでしょう。アカデミックな研究の世界では、逆に現代文学を無視していて、これはこれで問題なのですが。
文学史は、表現論と歴史・社会分析のリミックスにおいてはけっこう利用価値があるのに、もったいないなあと思ったりします。というか、文学史はこのリミックスにおいてこそ記述されるべきでしょう。
前回言及した、佐藤友哉の自意識という方法も、それを抽出するに当たってまず「青春小説」というフレームを設定し、「自意識」の表現を方法論・技術的な角度から文学史を洗い直してみた結果、見えてきたものでした。そしてその自意識という方法(太宰由来の)を、サブカル文脈で積極的に活用される、リソースのリミックスなりサンプリング(データベース消費)の方法と連動させたわけです。この方法(太宰的自意識によるデータベース消費)によって佐藤は、ジャンルの境界を再設定するような役回りを担ってきました。
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佐藤の盟友(?)舞城王太郎も、サブカル特有のデータベース活用で物語を組み上げていくのは、佐藤と同じでしょう。デビュー当時はそれがジャンルの境界(エンターテインメントと純文学)を揺るがせもしました。
しかし舞城にとっては、それは半ば偶然の効果にすぎません。彼には、佐藤的自意識のように境界設定を自ら仕掛ける意図はないし、ジャンルやルールの境界は物語の構築に当たってほとんど無関係のはずですから。なぜならその証拠に、彼はミステリから純文学に活躍の場(発表媒体)を移動しても、ベタに筋のない純文学の作品を書くか(『熊の場所』02)、ミステリの世界で試みていたもの(西暁町サーガ)をそのままベタに持ち込むか(『ディスコ探偵水曜日』08)、あるいはその中間のような設定による作品に仕上がるか(『阿修羅ガール』03、『みんな元気。』04など)、いずれかだからです。要するに、なんでもありなんです。境界に頓着せず。発表媒体が純文学だから何かしようなんて意図などない。
だから彼の作品は、物語設定(タイムリープなど)の構造がいくら複雑になっても、叙述レベル・形式面は絶対メタフィクションになりません。佐藤が執着してやまない、内とか外とか、外部を際立たせるとかいっさい興味ないですから。舞城の叙述形式を、正しく斉藤環が「人格障害のリアリズム」だと言い(『文学の徴候』04)、石川忠司が「フリーフォーム」だと述べるのも(『現代小説のレッスン』05)、このためです。
佐藤と同様にデータベース消費と過剰な自意識モードのカップリングゆえに、エンターテインメントにも純文学にも収まりがよくないわけですが、佐藤とは自意識の出力が異なるのです。このブログでも何度か指摘しましたが、文学史に置いてみると、庄司薫以来のブロークンな饒舌体を駆動する自意識モードですね。饒舌体によるデータベース消費。それは設定を(データベースから拾い)立てては崩していく。ミステリやSFの各種設定はその限りで都合よく利用されるわけです(読者やジャンルの期待値など二の次)。そうして前段階の設定にたえずツッコミを入れて進んでいく饒舌体。
ただ庄司薫の饒舌体(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070922)は、政治や社会の問題を正面きって語らないための(自意識を保護する)技法として身に付けられたものなのですが(同時代の「内向の世代」が、物語を遅延させ迂回する話法と文体を選択するのも庄司と同じ理由によります)、舞城にはそのような区別・境界はありません。歴史も社会も饒舌体のデータベース消費によって加工できるというのが舞城の前提でしょう*1
いずれにせよ、舞城の自意識モードは、佐藤と同じように、消費やコミュニケーションのレベル(萌え要素、データベース消費)に還元できるものではなく、方法として確立していることは文学史に記しておくべきです。
彼らのおよそ10年のキャリアは、いまや非常に成熟した観があります。彼らのことを、ひきこもり文学とか自意識をもてあそんでいるとか言うのは、たんに文学史を知らないだけだし、形式的に読めないということです。彼らのキャリアはこれからより困難になるだろうけれど、期待しているし、純文学の一研究者として僕は、彼らがいてくれたおかげで、ここ数年、ゼロ年代の(?)文学研究を継続できたのだから、感謝ですね。ラノベ文脈での評価の仕方とは異なると思いますが。

*1:自意識の保護膜としての饒舌体といえば庄司薫村上春樹−舞城のラインを引くことができるかと思いますが、庄司薫(老人の図書室)が問題にし最終的に否認した、現実の情報空間による包囲は、村上春樹(『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の図書館)の肯定を経由し、舞城(のデータベース消費)においては当然の前提になっています。http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070929を参照。[以上2008年9月7日注記]