感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

古川日出男「狗塚カナリアによる「三きょうだいの歴史」」のための小文――話すように書くこと・書くように話すこと・歌うように話すこと

近代文学のはじまりは、まず、話すように書くことが目指された(言文一致運動、明治20−30年代)。そして、それはまもなく成就する(明治40年前後)。以降、誰もが話すように書くことを謳歌したが(大正期)、やがてそれに対する反抗が芽生え、書くように話すことが提唱されたのだった(横光の「国語との対決」、フォルマリズム宣言)。
書くように話すことで、話すように書く理性――書き言葉を話し言葉の文法に従属させる理性――が制御できない部分を解放しようとしたのである。そうして横光をはじめとするモダニストは、書くように話すことを徹底したあげく、およそ話されがたい書き言葉にこだわることになった。
しかし彼らはやがて、話すことに相対的に重点を移していった。書き言葉を徹底することはできない。小説は書くことと話すことによって成り立っているからである。
だから、川端は、書き言葉の記憶を留めるように、アイロニカルに話す(屈折した語り方をする)ようになったし、横光利一は、その記憶を振り払うように率直に話すことでベタな物語を組織することになった。
あらためて話すように書くことしかできなくなった横光の後期は、物語内容の保守化という問題点以上に、形式的な緊張感の喪失、語り(=話し方)の平板さが明らかだった。
たとえば、西洋由来の教養をたしなみながらも古神道をこよなく愛する男が、キリスト教信者の女に対し、恋愛がらみで古神道への信仰を説得し、ものの見事に家族ぐるみで説得されるという粗筋をもつ『旅愁』は、ナショナリズムへの、いまなら「脊髄反射的」と言われもしようベタな傾倒によって物語の全プロットを組織する。
この点で、とりわけ戦後おおいに批判されることになるのだが、その批判は、国家云々といった大きな物語の要素をのぞけば、「文体がなく、脊髄反射的なプロットがあるだけ」という形で向けられるケータイ小説批判と変わらないし、そもそも『旅愁』自身にそのような批判を受ける資格が十二分にある。
国家云々の思想告白に頼らず、キャラを立たせていれば、いまなら救済されたかもしれないが、エンターテイメントの純文学への取り込みを模索していた横光もさすがにそこまで手が回らなかったようだ。
以上の通り、いまや書くことにも頼れず、だからといって素直に物語を語ること(=話すこと)さえできなくなった状況。それを熟知していたのが川端康成であり、そんな彼は話さずに話すというイロニーの戦略をとったのだった。
そこでは物語進行上のプロットが周到に回避され、きわだった形式性も省かれることになる*1。『旅愁』のなかでもしつこく展開された建築論にもある通り*2、日本の建築の美点として構築性のなさが挙げられ、鳥居こそが(建築本体ではなく)その真髄だという、当時流行した奇妙なロジック(浜口隆一「日本国民建築様式の問題」1944*3、岸田日出刀『日本建築の特性』1941*4など)を踏まえるように(あるいは保田與重郎の「日本の橋/端」)、『雪国』は書かれたのだった。
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しかし、まだ他にもある。ベタ語りでもアイロニカルな語りでもなく、書きながら話す(あるいはその逆)という試みであり、それを試みていたのが、谷崎潤一郎である。
書きながら話すこと。それが顕著になる彼の昭和以降の作品は、まず外在するテクストや歴史(偽史も含む)や土地を作品内へ継起的に取り込み、それらに積極的に語らせながら、それらを起点にして物語を繋いでいく、というアプローチをしばしばとった(『吉野葛』『蘆刈』『春琴抄』『蓼食う虫』など)。
そこにおいては、引用されたテクストや歴史や土地の記録・記憶は、自作の自律性を批判するインターテクスト性を示すものではなく、あくまでも物語を語る、話すことのためのものであった。
また谷崎は、作中人物の複数の視点を交え、しばしば対話させることによって(地の文の会話だから間接話法、もしくは手記・日記の交換)物語をすすめる(『蘆刈』『鍵』『細雪』など)。まず誰かが話したことを、書かれたものとして、それを起点に次の話しが繋がるのである。
谷崎の物語のダイナミズムは、ぺらぺら話すように書くのではない。話すことは書くことであり、書かれたものであるということへの自覚に起因する(その直系は中上健次)。だから、彼が話し言葉を意識すればするほど(『盲目物語』『蘆刈』『鍵』など)、漢字がなくなり、意味の分節を失うほどにひらがな・カタカナが紙面を占めることになるが、このときほど彼の文章が音声よりも書かれたものであるということを意識させられることはない。
しかもこれらの試みは、読みを阻害するということはなく、むしろ物語の消費を促進するだろう。
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以上の要件を全て満たしている現代の作家を挙げるとすれば、意外にも(?)古川日出男である。古川もまた普通に物語を語る(話すように書く)ことを信じられない時代に生きており、とくにポスト村上春樹(アイロニカルに話す話法)を使命とした作家である*5
彼の文章は、時代や土地の区分を要所要所に貼りめぐらせて、それらを起点に物語を組織する。そこでは、谷崎にはいまだ見られた、シンボリックな含意(「蘆刈」で話すこと=後鳥羽院の記憶=国家権力に対する両義性…)はすでにない。ほぼ一義的な情報・データとして即物的な記号と化している。それら土地や時代の区分は、物語にシンボリックな意味合い(「路地」「郊外」「戦後」…)をもたせるのではなく、それ以上に、語り(話すこと)の内と外を分けるフレームとして機能している。それによって物語は方向付けられるだろう*6
たとえば、最新作「狗塚カナリアによる「三きょうだいの歴史」」(「すばる」2008年7月*7)を見ればわかる通り、ここでは、過去から現在へという時代の流れは意味をなさない。固有性のある出来事が有機的に位置付けられた歴史、といった観念はかなりどうでもいい。もっといえば、後の時代から前の時代への回想とか、前の時代から後の時代への予見とかいった話法はここでは無意味である。
なにより、語り(話すこと)の「現在」(いまここ)が重要なのであり、この「現在」が継起的に物語を方向付けるように土地と時代区分は書き込まれる。その書き込まれる土地と時代区分にしたがって語りの「現在」はたえず移動し、移動することで物語を組織するだろう。
逆に言えば、そのつど書き込まれる土地と時代区分は、固有の意味・固有の歴史性をもたない。つまり、語りの「現在」をどこに置くかしだいで、かつて前の時代だったものは後の時代になりうるし、後の時代だったものも前の時代になりうる。そこでは、予見や回想、サスペンス効果といった小説的な話法は意味をなさない。

そしてこの列島の全体では、時代も曲がった。曲がり角に至った。この時代、この現代[いま―ルビ表記、以下同]。天正年間。その数え[「数え」に傍点]で十一年めに織田信長が斃れる。謀叛に遭い、切腹して果てる。その享年は数えで四十九歳。しかしながらそれは翌年の出来事である。いまは天正十年で、それから。/クキ丸は十二歳。犬が死ぬ。それから。/クキ丸は十四歳。それから。(「狗塚カナリアによる「三きょうだいの歴史」」37頁、以下同)
お終[しま]いに時代が曲がり切るのは、慶長八年。/その男が征夷大将軍になる。/その男が幕府を江戸に開いている。/三人めのその男が、とうとう。/家康が天下統一を成就させた。征夷、の肩書きを得て。/しかし、時代は……時代は。とうに現代[いま]ではない。それらは次代と次々代。天正年間においては、クキ丸の身に起きるのは名護屋への出陣のみ。それから。/クキ丸は五十七歳。寛永6年に五十七歳。そしてクキ丸の享年は、数え[「数え」に傍点]で五十七歳。(47頁)
しかし……しかしながら。幕藩体制が徳川家の「日本」支配を決定的にしたが、じつは当時、諸大名の領地は「藩」とは呼ばれていない。その呼称が公式に用いられるのは明治元年が初である。それまで大名領は、たとえば加藤家ならば「加藤家家中[かちゅう]」と称されていた。すなわち会津会津藩というものはなかったし、会津の領主は決して会津藩主ではなかった。だが、記憶は……。/記憶は未来に。/だから、その胎[はら]の児[こ]の生涯を語るにあたって、躊躇[ためら]わずに藩と呼ぼう。遥か未来に根拠を置いて、陸奥国会津を、会津藩としよう。その三番めの子はいずれにしても延宝八年のうちに生まれる。八月に。若松の城下町に。(56頁)
これが江戸幕府の五代将軍の、その男。/いずれ犬公方[いぬくぼう]と呼ばれる男。/なぜならば、後[のち]の世に「生類憐[しょうるいあわ]れみの令」と総称されることになるものを出したから。動物愛護の法令を続々、発したから。中でも犬を極端に愛護させたから。それら「生類憐れみの令」の発布が頂点に達するのは、元禄年間。会津保科家がご家門[「ご家門」に傍点]たる会津松平家に生まれ変わるのと同じ、元禄年間。/それが現代[いま]となる。いずれは。/元禄年間が。/しかし……しかしながら。/この現在の一点を見据えるならば、いまだ延宝八年。その男が将軍の座に即いた、延宝年間の八年め。かついまだ八月ではない。八月の八日にその胎[はら]の児[こ]は生まれ落ちる。八重なりである延宝八年のその月のその日に、きょうだいの三番めは誕生する。現時点ではその児[こ]はいまだ子宮にいる。しかしながら、いずれにしても八月には無事に生まれて。それから。/シゲ政は一歳。本当は八という数字に因んだ名前を授けられるはずだった。(58‐9頁)
しかし、それは未来。この時点は、貞享五年にして元禄元年。さらに続いて現在[いま]のここでは何が起きるか。(66頁)
いずれあたしは狗塚らいてうになる。/必ず。/この対面の場面から半年と経たずに、らいてうと龍大の婚約は成立する。それはらいてう、十六歳の時である。母親の所願を成就させて、かつ十五歳のらいてうが予感した通りに、結納が交わされる。しかし、それはらいてうと龍大が、ではない。本田家と狗塚家が、である。所定の儀式が執り行われる。ここまで、らいてうは子である。意識の内側においても、子である。ここから、らいてうは妻である。将来の夫の妻にして、ヤシャガシマの祖母の孫である。優先的に意識されるのは、その二つ。つまり「本田の娘」から「狗塚の嫁」にらいてうは変わる。しかし、十五歳のらいてうはそうではないし、と同時に十五歳のらいてうの予感も半分しか当たらない。(「狗塚らいてうによる「おばあちゃんの歴史」」43頁)

以上の通り、古川における語り(話すこと)と土地・時代区分表記の関係は見てとれたと思う。土地と時代区分の表記を起点にして物語を組織すること。これで明らかになったはずだ。古川日出男もまた、書きながら話す作家だということを。
書きながら話すのに巧みなことを示す例として、もう一点。古川作品においては、複数視点の交流・対話も特筆すべき点である。
たとえば狗塚の一族は、ときには聞き語りの伝聞で、ときには手紙などのメディアを通して、ときには予言や夢や幻といった超現象を通して会話をし、話を引き継ぎながら物語を組織する。それもこれも、前話者の話したことを書かれたものとしてフレームにし、そこから次の話に引き継ぐというプロセスにしたがったものである。これもまた、書きながら話すことに自覚的であるゆえんである。
しかし、古川の特異な点は、ここではない。彼の文章は、書き言葉と話し言葉の二分法では説明し切れない点が多々あるのである。そこまで突っ走っているのである。
そう。古川日出男は、うたうように話すのだ。「んだ。俺ら詩のように、謡うように話すべ」(「狗塚らいてうによる「おばあちゃんの歴史」」34頁)。
むろんその話法は、書き言葉を忘れたものではない。そしてそれはまた、単にうたうように話しているわけでもない。古川のうたうように話すことは、書き言葉でしか成り立ちえないものであり、そこでは書きながら話し、話しながら書くことがうたうことになるのである。

ノック、ノック。そんなふうに外[「外」に傍点]に合図をする者がいる。カナリアの輪郭線の内側にいる。母体の線[ライン]の中にいる。お前は目を覚ましているね? カナリアはその児[こ]が返事をする気がした。(うん)と。声で。じゃあ目を覚ましているのと反対の時は寝ているね?(うん)眠ったら夢を見るね?(うん)あたしの内部[なか]にいるお前が夢を見て(うん)その夢をあたしが見て(おかあさん)そうよ(母[おが])そう、孕んでいる最中のあたしには二度も目覚めないとならない夢があって(うん)あたしは一人めの時はそりゃあ驚いたけれど(あに)そうよ、兄よ、お前の兄よ(んだ)記憶を持っていない人の夢をあたしが夢に見ているんだなってあたしは悟って。/(みる)/続けて見たの。/(みた)/何度もね、それから気づいて(うん)あたしは生まれていない子供の夢をシェアしてるんだって、だから胎[はら]の児[こ]のを、あたしの内部[なか]にいるからって理由で共有しているんだって(うん)あたしも初産までにいろんなことを学んだのよ、いっぱい驚きながら(おかあさん)んだ、お前[め]の兄[にい]ぢゃんの時[どき]には初めて過ぎでわがンねがっだごと、いまはわがっぞ。/(あに)/記憶がないけれど、お前たちは夢を見られるし。/(んだ)/あたしはお前たちを異類と思ったけれど、お前たちからすれば、もしかしたら異類なのはあたしたち?(うん)そうなの?(うん)記憶があるほうが異類で(キオク[「キオク」に傍点]ガアルホウ)じゃあお前たちは何を見るの?(アルホウガイルイデ[「イルイデ」に傍点])違うね、お前は何を見るの?(うん)お前の夢の材料はなに?(うん)記憶は……未来に?/ノック、ノック。(「狗塚カナリアによる「三きょうだいの歴史」」18頁)
俺は誰だった?(羊二郎)そうだ俺はばば様の孫で(狗塚羊二郎)そうなんだ、本当に、こんな場所にいても(番号しかない場所?)俺が番号でしか呼ばれない場所(拘置所だから)俺が死刑囚だから(そう)俺が人殺しだから(そう)しかも本当に何人も何人も殺[や]ってるから。/(本当はもっと)/うん、まだまだ殺した。/(スコップ)/兄さんと(埋めた?)埋めた(そう)そういえば。/(何?)/ばば様と俺は似てるな、俺も自分が何歳か、わからない。[中略](妹だからな。あいづは俺らの妹だから)/んだ。でもね、兄さん、そのカナリアが祖母たちの一人だったよ。/(他にはどんな鳥がいるんだ?)/まだ見通せない。/(まだか)/ばば様が俺に語るよ。いつか、必ず。それと鳥居。/羊二郎はその瞬間、ふいに自問する。いつか? おかしな副詞だ。ここは袋小路なのに。ここは時間のデッド・エンドなのに。まるで、まるでまるでまるで、羊二郎は矢継ぎ早に考える。この部屋にも過去とか未来とかがあるみたいだ。/でもこの部屋はこの世の中心で。/六県の。/中心で、流れていないから。/それから羊二郎は感じる。何かが流れるのを。羊二郎は感じとる。奈落の底に落ちるのではない、違う移動を。ねえ兄さん、俺はずっと兄さんといたかった、少年だった俺には英雄そのものの、兄さんと。それだけだった。だから青森、青森秋田岩手山形宮城福島、アオモリアキタイワテヤマガタミヤギフクシマって、俺たち、流浪して。/嬉しかったよ。/羊二郎は感知する。部屋が移動しつつあるのを。[中略]正面に兄が見える。記憶の出土品としての、狗塚牛一郎。/正面に座っている。光り輝いている。/レールの響きがする。全然、切れ目がない。/俺たちは(何だ?)これに乗ってるの?(そうだ)何分乗ってるの?(三が二つ並んだ時間)三十三分?(そうだ)盛岡を何時に出たっけ?[後略](「狗塚らいてうによる「おばあちゃんの歴史」32‐3頁」

最初の引用は、母とその胎内にいる児との対話。次のは、弟の心の内における兄弟の対話である。胎児の胎動は身体上の記録であり、弟における兄の声は記憶として心内に刻まれたものだ。これらとの対話によって歌はうたわれている*8
ここでは、話すように書くことが抑圧したがり、書くように話すことが露呈させたがったような、書き言葉の特異性はない。あくまでも書きながら話すこと。そしてさらに古川は、従来の書きながら話す作家が手を出さなかったところにも及んでいる。書くこと、書き言葉(との対話)は物語のためのみならず、詩にも歌にもなるということに。そしてそのうたうように話すことがいまや物語に貢献するということに。
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思えば、谷崎−中上の書きながら話すことは、三島由紀夫村上春樹のアイロニカルに話すことと同様、物語を語ること、話すことの危機への見事な解決法だった。
彼らは、間接話法を軸にした息の長い長文を駆使し、しばしばワン・センテンスに複数の視点を交わせながら複雑な時制および物語空間を操った。書きながら話すことの面目躍如たる様である。その規範から見れば、古川の文章は稚拙で節操のないものに見える。
しかし、彼もまた書きながら話しているのであり、さらには話し/書き散らしたあげく、小刻みな分節化による短文を軸にしながら歌をうたいはじめた。物語のために。
「詩のように、謡うように話す」こと。ルビ振りなど古川的な書記法を見ればわかる通り、彼の文章は、即物的な音への享楽と、物語を開く意味への欲望とに、同時に貫かれている。東北六県/Rock'n!*9

*1:このあたりは「モダニズム以降の表現の可能性」http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070803参照。

*2:「少し開いた伊勢の大鳥居の黙然とした簡素鮮明な姿は、いつもヨーロッパにいたときから矢代の頭に浮んで来た姿だった。」『旅愁

*3:「建築が行為的・空間的要素と構築的・物体的要素との統一体である以上、構築的要素のない空間的要素だけの形成の仕方などというものはもちろんありえない。しかしわれわれの言っているのは構築的・物体的要素のことを排除せよというのではない。国民建築様式を樹立するということの重点を移せと言っているのである。少なくとも日本の伝統にしたがって国民建築様式を樹立しようとするには、構築的・物体的要素のことを現在一般にしているように見つめてばかりいる限り道は開けてこない。」

*4:「今日我々は複雑な西洋流の建築に見慣れてゐる。たった一本の鳥居を見て感興を湧かす人は殆どないであらう。だがこの一本の鳥居だけからでも、考へれば糸車のやうにいろいろのことが考へ出され、建築の日本精神といふやうなことへも考へ及ぶことができるのは興深い。」

*5:以下は、土地をめぐる古川論http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080223を参照。

*6:「狗塚カナリアによる「三きょうだいの歴史」」に関していえば、各登場人物の名に付けられる鳥や動物や数字の記号は「狗塚家」の繋がり以上の意味をもたないし、物語中いっけんシンボリックに鳴り響くノックの音も、出産や黒舟来航等における「新時代の幕開け」以上の意味をもたない。もたないけど、ノック音をともなう「新時代の幕開け」が、微細極大、私的公的領野をまじえて複数のレベルで引き起こされることそれ自体が感動的なのだ。鳥や動物や数字入りの名前が引き継がれることそれ自体が感動的なように。

*7:「狗塚らいてうによる「おばあちゃんの歴史」」(「すばる」2006年6月)からはじまる古川「狗塚」シリーズ、「狗塚」一族の大河シリーズのひとつ。

*8:「どうして笑うの? 楽しい?/うん。/どうして笑うの? 夢を見ているの?/うん。/その夢の材料は、未来? それから、声?/声には二種類ある。母親の声。それがしばしば外[「外」に傍点]から聞こえる声。まるで異類の語りかけのように始終外[「外」に傍点]から響いている声。この子宮の外側から。でも、同時にこの子宮そのものでもある者の声。それから、その声と語らう「電話の向こう側」の声。もともと声だけの存在[もの]の声。福島県の外側の……青森県の。その声の祖母の声。あたかも話すたびにこの子宮の時間を経過させる、だから、あたかも時間を流している声。つねに胎内に響いている声。見えない[「見えない」に傍点]曾祖母の。曾[ひい]ばば様の。/母体の目にすら見えない[「見えない」に傍点]者の。/それに、曾ばば様、と反応する。/反応するの?/うん。」(「狗塚カナリア」51頁)「改めて憶えたことがある。それが、これだ。ばば様の名前は、白鳥と同じ響きを持った、はくてう[「はくてう」に傍点]。」(「狗塚らいてう」27頁)古川特有の、代名詞の多用、体言止めと非終止形止めの多用によって説明を上書きしていく話法も(命令形や名付けの多用も含む)、語り手の擬似対話である。

*9:「貴賎なき宇宙の素潜り」(「ユリイカ」2006年8月)古川と吉増剛造の対話における吉増の指摘。