感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

批評のコミュニケーション

日記が百回にせまったので、このさいに文芸批評の方法論についてまとめてみる。
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僕がこのところ批評を実践する上でこころがけているのは、社会学的な環境分析・消費分析と、テクスト分析を軸にした表現論のリミックスである。そういうスタンスをとりはじめたのはこのブログを開設したころであり、とくに作品のサプリメント消費とか、ライトノベルのジャンル論的な定義に注目しだしたころが契機になっている。
このブログをはじめたきっかけは、作品を僕が一読者として受容・消費したときに動く感情を、作品側がどのような仕掛けによってもたらしたのかを分析したいという意図にあった(プロフィール参照)。そのときにこころがけたのは、単なる印象批評に流れないために、あくまでもテクスト分析(表現論)を軸にすることだった。
そもそも、生まの感情がそのまま言語化されるなんて考えてもいないし(それを本気で考えると印象批評になる)、方法論的にも、僕にはテクスト分析は手放せないものだったのである。
僕が批評をはじめたのは90年代の半ばで、そのころに蓮實重彦渡部直己のテクスト分析に魅力を感じて以来、その思いはいまでも変わらない。何気なく受容・消費していた作品が、ひとたびテクスト分析にかかれば、思いもよらなかった構造が抽出され、新たな消費の動線を開いてくれた。
90年代の半ばといえば、作品に政治性を読み込むポストコロニアルカルチュラル・スタディーズが批評のフィールドを席巻しはじめた時期である。それらの手法は、80年代から――物語批判と実験的な形式操作をする作品が登場したのと踵を合わせるように――ひとつの流れを形成していたテクスト分析をはじめとする各種表現論を、良くも悪くも牽制していた。
テクスト論者もその動向と無縁ではなかった。蓮實重彦東京大学の総長になったりして批評から一時退去する一方、渡部直己が差別論(『日本近代文学と「差別」』1994)と天皇論(『不敬文学論序説』1999)を上梓し、マイナー・ポリティクス(これがのちにJ=ジャンク文学に結実するのだが)を標榜する絓秀実が、文壇の動き(筒井康隆の『無人警察』てんかん差別と「断筆宣言」問題や柳美里の『石に泳ぐ魚』プライバシー侵害問題など)を牽制して「言葉狩り論争」に名乗り出ていった時代である。アカデミズムでも、テクスト分析を牽引した小森陽一らがカルチュラル・スタディーズをこの時期、サバルタンや歴史・記憶論争が行われるなかで取り入れていった*1
僕は99年から00年にかけて近畿大学渡部直己の講義を聴いていたのだが、当時の彼の問題意識は、作品を自律したパッケージとして消費するテクスト分析にカルスタ的な政治性をいかに導入するか、というものだった。
また、テクスト分析の営為は、作品を利用した批評家の独りよがりの解釈でしかないという批判が以前からたびたびあったが、じっさい00年前後からはそのようなタイプの批判が顕著になり、当の分析対象である作品から解離した批評の解釈ゲームは徹底的に糾弾されることになる。
そもそも、分析対象から批評が解離している(分析対象を目的的にではなく手段に貶めている)という批判は、テクスト論者からカルスタに向けられていたものだったが、テクスト分析も批評の解釈ゲームに落ち込んでいるという批判を受けたわけである。言い換えれば、作品の複雑性を抽出して評価する(この作品は巧妙に音声中心主義的な視点をズラしている!)テクスト分析も、作品の政治性を読み込んで非難する(この作品は無意識に男性中心主義的な視点から描かれている!)カルチュラル・スタディーズ的営為も、作品の「無意識」を想定し、その解釈をする、ということを根拠とする点では同じなのである(だから谷崎論を書いた人が天皇論を書くのも不自然ではない)。
そこでは、作品の「無意識」は、じっさいに作品に織り込まれているのではなく、批評家の欲望(「−中心主義」を批判したい!)と応接しながら抽き出されることになるのはいうまでもない。
だから、テクスト分析は批評家による一つの創作だと言い切る市川真人の言は正しい(『絶対安全文芸批評』佐々木敦)。そして彼の、前田塁名義による、テクスト分析を軸にした批評集『小説の設計図』が本屋で平積みにされ、好評を得ているのを耳目にするたびに手を合わせてしまいたくなるのは、僕もテクスト分析によって批評的な創作を作ることを主眼にしていた者だからだ。最近レヴュー的、ガイド的な批評が多いなかで、彼の批評集は注目されねばならないと思う*2
しかし、僕は、いくつかの理由があって上記した通りの移動をみずからに強いた。感動を軸にした個人的な消費性向を根拠とする批評から、社会学的な消費性向・環境分析を根拠とする批評への移動(と往復)である。もちろん、終始テクスト分析とともに、であるが。
その理由は、上記したなかからも想像できると思うけれど、単純に、テクスト分析を地道にやるとめちゃくちゃ費用対効果が悪い(一作品に費やすコストが膨大)というデメリット面があるわけだが、まあそれはいい。
移動の理由を少しあげるとすれば、やはり分析対象との解離に対する見直しがあったし、それに、作品の「無意識」とその解釈という精神分析学的な手続き(深層のトラウマの発見とその解放という物語)が、かつてはべたな作品論・作家論を牽制する点で有効性があったとはいえ、批評の根拠としては弱くなってきているという現状の空気を読んだからだろうと思う。
逆に言えば、いまはマスの消費性向を背景にした社会学的な分析が批評の根拠として説得力を持ちはじめているけれど、いうまでもなくこのような方法論的手続きも変換可能な根拠の一つであり、モードにすぎないということくらいは理解しているつもりだ。作家論よりもテクスト分析の方が、テクスト分析よりも社会学的消費分析の方が分析対象の作品を明らかにするわけではない。それぞれ、作品から何について知りたいのかという、分析の対象が異なるのである。
いま社会学的なアプローチに勢いがあるなら、そのような知のモードが求められているということであり、KYを恐れて僕は社会学的知見を導入したのだった。ただ単純に、いろんなモードを試して、貼り合わせてみるのが好きなだけとも言えるのだけれど。
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僕がいまさら過去を振り返ったのには理由がある。「思想地図」掲載の黒瀬陽平によるアニメ論をとても楽しく読んだからだ。とりわけ黒瀬氏の方法意識がとても納得のいくものだった。
彼いわく、現在のアニメ批評は、東浩紀エヴァ批評が古典的参照先となり、エヴァンゲリオン−「セカイ系」につらなる作品しか評価の対象にならなくなっているという(そのような疑問から、たとえば宇野常寛は「決断主義」という主題を「セカイ系」に対置したのだったが)。
その結果、東(『動物化するポストモダン』)の「キャラクターの自律化」と「データベース消費」という消費分析は重要な視点だが、セカイ系物語論の解明に資するばかりで、エヴァと同時期に台頭しはじめていた「萌え系」のアニメ作品群を語り損ねている。キャラ萌えに言及されるとしても、社会学的な消費分析の網にかけられるだけで、作品固有の表現のあり方に分析の目が向けられることはなかった。言い換えれば、消費分析と、それと親和性のある「セカイ系」的な物語論メタフィクションと自律・閉鎖した内部空間)のヘゲモニー支配に対して、表現論が不在だということである。
以上のような問題設定のもとに、彼は表現論を導入するのだけれど、それは消費分析を手放すことではない。アニメにおけるキャラ萌えという消費性向(コミュニケーション形態)が、個々の作品においてどのように表現されているのかを地道に、かつアクロバティックに分析している。キャラの自律化と萌えが逆遠近法として説明され、涼宮ハルヒの真正面アップとキリストのモザイク画が並べられるくだりは思わず快哉を叫んでしまったけれど、まあそれはいい。
とにかく、サブカルチャー分析のフィールドが消費分析と物語論ばかりであるという現状に、反動的にではなく真っ向から勝負する批評家が、ウェブ上にも何人かいることは知っているけれど、新しく見出されたことがとても楽しかった。
他方で、文学研究のフィールドでは、出来不出来は問わないが、テクスト分析なりカルスタ的手法を踏まえた表現論はありふれているといえる。しかし、消費分析なりコミュニケーション分析をそこに接続する試みは見受けられない(歴史記述やメディア論を使った環境分析との接続は以前からあったし、僕の修士論文もおおむねそんな感じだが)。
かつて前田愛が「音読」から「黙読共同体」への移行を社会学的な知見をもとに明らかにしながらメディア論を軸にした消費分析を試みたことがあるが(『近代読者の成立』)、それは作品固有の表現論に結びつくことはなかったし(作品は素材にされたにすぎない)、最終的にはメディア論としてカルチュラル・スタディーズに吸収されたように思う。
そもそも純文学は、これといって(キャラ萌えというコミュニケーション・モードなりセカイ系という主題なり)何に準拠して消費しているのか分からないという側面がある。少なくとも僕はそうだ。自然主義的リアリズムに没入したいからではない。
それは、純文学が市場原理とは切れたところでのんきに営まれている封建遺制的な共同体だからだ、とサブカルチャー批評のフィールドにいる人たちは言うかもしれない。それを否定はしないが、しかしたとえば、ラノベ以上に徹底して文体がない(形式を問わない)ケータイ小説に対して表現論をガチで施すことのばかばかしさを考えてみればいい*3。これに比べれば、ライトノベルをはじめサブカルチャー(オタクでもいいけど)のジャンル形態はまだまだ市場原理に乗り切っていないと言えるし、逆に言えば、表現論なり物語論(主題論)をしたいという欲望がちょっとでもあるということは、市場とかコミュニケーションには還元しきれないようなものがそこにはあるということではないのか?
だから要は、なんでもいいのだ(笑)、自分の批評が何を切り落として、何に基づいて実践しているのか、という方法論の意識さえあれば。それが批評に求められるコミュニケーションの作法でしょう?
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ところで、黒瀬氏のアニメ論は、消費分析と表現論を接合する重要な部分で一つの逆説を披露する。見る者が萌えキャラと成立させる逆遠近法的な関係*4においては、キャラの眼差しには見る者は目を合わせられないのに、「見られている」と感じる逆説を。

しかし、厳密に言えば、目が合わない、視線が交錯しないにもかかわらず、キャラクターから「見られている」と感じることには疑問が残る。このことはイコンやモザイク画についても言えるであろう。逆遠近法的表象の目を見ることは、「見られている」ことを「知る」ことでしかない。そこに「見られている」という経験が見出されるためには、まずは視線を欲望すること、キャラクターから「見られたい」という欲望が発動することによってはじめて可能になるのである。キャラクターアニメにおける逆遠近法的表現が、遠近法のように幾何学的な厳密さを持たない以上、キャラクターと私たちが逆遠近法的関係にあることを示すためには、キャラクターの視線を欲望させるような表現について分析するしかない。「キャラクターが、見ている。」(P456-7)

黒瀬氏はこの逆説を、欲望の原因(萌えの欲望の調達)を知るためには欲望の結果(萌えの表現)を知るしかない、という「鶏か卵か」式のトートロジーによって説明している。ここには飛躍がある。深淵をまたぐ飛躍が。
くり返せば、ここが彼の消費分析と表現論の蝶番に当たるポイントなのだが、この飛躍はしかしなんら貶められるべきものではない。逆接を前にしていささか迂遠な言い回しを展開する彼の論証の手続きはむしろ誠実すぎるくらいなのだ。
テクスト分析の場合は、作品の「無意識」(隠れた欲望)を外から抽き出すという口実があるので、この不安定なトートロジーは見えにくい。見なくて済む。そこでは批評家が好きなように表現論を組織できる。分析対象を解釈できる。分析対象との解離を非難されても、開き直れる。その通り! 作品の「無意識」とやらは俺の欲望だよと。
しかし、社会学的消費分析に準拠した場合、欲望(萌えという消費性向)はすでに目に見えるものである。だからそこに表現論を継ぎ足した場合、作品から抽出する表現の仕組みは、欲望をなぞることでしかない。その結果、表現論は消費分析との関係においてトートロジーに陥る。
ただし、社会学的消費分析に限定するなら、この不安定なトートロジーは避けられる。消費分析の前では、なぜこの作品をキャラに萌えずに見てはいけないのか(他の消費形態はありえないのか)という、作品の「無意識」への問いは禁じ手とされるからだ。通常の社会学的消費分析の場合は、欲望はすでにあったものとされるので、この禁じ手のルールに従順である。その上で、各作品を素材にしつつ、キャラの自律化とキャラ萌えというコミュニケーション様式に対する緻密な社会学的考察が施されるだろう。
しかし(それで満足か?)、見る側が主体的に欲望を組織する遠近法に対して黒瀬氏が提示する、視線が合わないのに「見られている」と感じる(欲望を吸い上げられる)見る者の、キャラとの逆遠近法的な関係は、欲望(キャラに「見られている」と感じる=萌え)は成立しないかもしれないというところを起点にしており、黒瀬氏はそこから表現論を組織しているのである(その結果があの不安定なトートロジーに逡巡しながらの飛躍である、と僕はテクスト分析するだろう)。
ここから見えてくるものは、彼の表現論は消費分析(キャラ萌えというコミュニケーション形態)を説明するものではなく、あくまでも(キャラに萌える)批評家としての彼が説明しうる、説明関係にあると想定(信仰?)した上でなされたものである、ということだ*5
表現論は消費分析の根拠ではないし、消費分析は表現論の根拠ではない。
急いで付け加えれば僕は彼の文章が粗雑だといいたいのではない。彼の消費分析から表現論への論証過程は十分すぎるほどの妥当性があり、多くから理解されるだろう。アニメ論のエポック・メイカーとなりうる力もあるだろう。しかしあの深淵と飛躍が理解されていないと、彼の成果は再び物語論と消費分析の技術に転用されることになるはずだ*6
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純文学をやっていてよかったかもと一瞬思えることは(99%は割りを食ったと思うのだけど)、いかなる方法論にも根拠がない、という至極当たり前のことにさらされることである。しかし「萌え」とか「セカイ系」という消費性向が当然のように批評の根拠・フックにできてしまうサブカルチャー批評を読んでいると、意外にこの純文学的前提は理解されないのかもしれないなどと思う。
僕の感覚だと、自分の読みを手がかりにしながら、ある方法論を元手に書きはじめても、これは胡散臭いなあとたちまち底が割れる。批評なのにメタ視点に立てない情けなさ。
その底を見えなくし、飛躍を飛躍と感じさせなくするには、それ相応に説得的なレトリックや問題設定、マジックワードを仕掛けるなり、商業的な手管(マーケティング)やパフォーマンスでパッケージするなり、いろいろするわけだが、それはまあいい。
驚くべきことは、僕たちは作品から複雑性を抽き出したり、政治を読み込んだり、消費形態の陰画を読んだり、感情を投影したり、自由自在に読み方を切り替えられるということである。
もっかコミュニケーション分析の批評が流行っているのだとすれば、むしろ批評のコミュニケーション、コミュニカティブな批評とは何かと考えてみる。

*1:山城むつみ鎌田哲哉大杉重男といった批評家がこの時期に出てきた。彼らは、テクスト分析を器用にこなしながら政治的メッセージも織り込んでくる批評を組織するのだけれど、なぜか「恐いなあ」と感じていた。すごく複雑な議論を展開するのだけれど、小説を楽しく読んでいないなあと。

*2:ただし彼の批評は、文芸誌の構造改革を狙った「早稲田文学」での各種試みをはじめ、川上未映子らをメジャー文壇に押し上げる編集人としての能力とパフォーマンスをひっくるめた創作だということは注意しておいていい。

*3:[以下、2008年5月18日注記]ちなみに、ケータイ小説分析は『恋空』が話題になったときにブログ界隈で一時期はやったけれど、そのときの反応の仕方は、一方で「脊髄反応的なプロット展開があるのみでくだらない」と一蹴するものがあり、もう一方で消費・コミュニケーション分析の素材として扱うものがあった(もちろん、主人公の人間関係に感情移入する膨大な印象批評がもう一方であるのだが)。それに対して表現論を組織するものもいくつか見たが、真面目に理論的なメタ分析を施すほど滑稽な感じがしてくるのだった。このような状況をブレークスルーすることができるとすれば、たとえばラノベを例にしていえば東浩紀的に愛着をもって読み込んでいる、というようなことが最低条件となるだろうけれど、そもそもケータイ小説というジャンルに表現論なり物語論主題論を施す土壌があるかは、少なくとも現時点では「ない」といっておく。J=ジャンク文学は中原昌也にあったのではなく、とりあえずここにあるのだった(ついでに言っておくと、僕はケータイ小説を貶めているのではない。むしろ僕の方法論の限界をケータイ小説は指し示しているということだ)。

*4:[以下、2008年5月19日注記]黒瀬氏によると、遠近法は、超越的な消失点と重なる見る者の視点が、画面に描かれた空間を外部から統御する。それによって自然主義的なリアリティーが得られる。逆遠近法では、画面に描かれた図像が超越的な視点となり、見る者の空間を組織する。言い換えれば、遠近法空間のキャラクターは画面のフレーム内に収められているが、キャラクターそのものがフレームの役割を果たし、与えられたフレームから自律化すると、見る者との逆遠近法的な関係が成立する。

*5:[以下、2008年5月18日注記]黒瀬氏も多くを参照している伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』もこの不安定さのなかで論証を進めていた。伊藤はキャラクター消費の社会学的考察を踏まえ、手塚治虫の「地底国の怪人」(1948)の表現方法に注目し、キャラの自律化とキャラ萌えの発生(およびその隠蔽)過程を考古学的に証明したのだった。

*6:あるいは、アニメ批評のフィールドに表現論の時代がやってくるかもしれない(ないけど)。他愛のない表現の細部の解釈に、こぞってこだわる表現論の時代が。