感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

桜庭一樹、擬態する作家


桜庭一樹の作品は、文学史における過去の作品から引用、模倣、擬態するところから成り立っていることは、よく指摘されるところであり*1、また自身による解説もある。
とはいえ、過去の作品からの引用や模倣・擬態は、過去の作品が読まれた文脈を意図的にズラし、リスペクトなり批判もしくはバカにする知的営為(いわゆるオマージュだのパロディだの本歌取り)に結実しがちなこと、物語の円滑な展開に釘をさすメタフィクショナルな物語批判に結実しがちなことはいまや周知のことだが、彼女の駆使する引用だの模倣術は、そのような意図のもとになされてはいない、ということは注意すべきである。これに関してはすでに十分な考察および指摘があるし(飯田一史論文)、なによりそれは彼女の読者の実感としてあるだろう。
桜庭一樹は、私たちに文学史の教養をひけらかし、押し付ける読みを強要しないし、彼女の作品を読む楽しみにおいてはそのような必要を感じない。彼女は単に物語を作動させるために、過去の作品からの引用と模倣をくり返すのである。だから、彼女の作品に拍手をおくる場合、何かに似ていること、あるいは何かから意図してズラしていることに向けられるべきではない。
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ということは、もちろん、彼女が最近ライトノベルから純文学へと作風を変えたと見なして批判なり絶賛することも慎むべきである。
桜庭一樹からそのような変化を見ることが妥当なものだとしても*2、彼女にとっての変化は、何かから別の何かに移行した結果ではなく、何かを模倣し擬態した結果であり、したがって彼女のキャリアは擬態の連続であることは注意しておいていい*3
確かに、変化の過渡期とされる『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(2004)や『少女には向かない職業』(2005)などは、純文学的志向とラノベ的志向の、ジャンル間のギャップなりエッジを効果的に利用した作風に仕上がっており(平板なキャラなのに残酷な内面をもっているとか、ミステリープロットによるエンターテイメント志向なのに現代社会をリアルに写し出している社会派志向であるとか等々)、画期的な作品として両ジャンルから人気が高いが、それも擬態の結果にすぎない。
つまり、純文学への成長を意図したトレーニング期間といったものでないし、かつての佐藤友哉舞城王太郎が試みたような、ジャンルの錯綜とか撹乱を知的に目指したものではない、ということだ。彼女にとっては純文学も書けるし、ライトノベルも書ける、といった程度にすぎない。
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以上の考察に関連して、桜庭一樹の物語の説話構造に言及しておきたい。桜庭的な説話構造に関しては、「貴種流離譚」とか「ビルドゥングスロマン」(の失敗形態)であるとかいう指摘がある。それはいずれも貴重な指摘であり、確かに彼女の作品は、どれもこれもそのような説話構造のヴァリエーションだといえる。彼女の作品では、子供(少女)の成長と閉塞感からの脱出が重ねられて、宿命的に演じられるのだが、それは必ず失敗し、断念されるのである。
しかし、何かから何かへの移行とか変化に注目するよりも*4、何かに「なる」こと、模倣・擬態することにこそ注意したい。
桜庭一樹のデザインする物語は、ライトノベルに属するものも、純文学に属するものも、エンターテイメントに機能するものも、純文学的考察に適うものも、要するにいかなる作品においても、ミステリーやサスペンス、SFの物語設定を必ず導入して形成されている。そしてそこで彼女がほとんどの作品で活用している設定が、「なりすまし」(AがBになり代わる*5)であり、「ダブル」(AとBの類似関係)であり、「同一性の誤解」(AがBだと誤認される)であること*6は注意されていいはずだ。
ネタバレになるので一々指摘しないが(注にネタバレ列挙しました*7)、陰に陽に、細部に枢要部に、これら擬態的物語設定が、桜庭一樹作品を支えている。もちろんそれは直近の直木賞受賞作品『私の男』(2007)にも顕著である。そこでは、二重三重の親子の「なりすまし」(および「同一性の誤解」)が物語に悲劇をもたらしていたはずだ。
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そこでの成長や移行劇(の失敗・断念)といったものは、むしろ擬態の結果であり、そのヴァリエーションなのである。従来の成長譚・移行譚は擬態(イニシエーションにおける変身など)を手段とするものだが、桜庭一樹の物語は擬態の各種設定がまずあって、移行や成長、すなわち物語の展開が流れだす、と言い換えてもいい。
それを傍証すべく、物語の叙述のレベルをみてみるなら、たとえば『私の男』のように、時系列を逆にさかのぼっていく語り方は、「どのように変化したか」より、「どのように擬態したか」に重きを置いたゆえのものであり、『私の男』や『赤×ピンク』や『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(あるいは時間操作SF『ブルースカイ』をくわえてもいい)のように、叙述の視点を章ごとに変える試みも同様の理由による(「なりすまし」や「同一性の誤解」が効果的に演出されるだろう)。
また、『青年のための読書クラブ』や『赤朽葉家の伝説』の、伝聞に基づく叙述も同様であり、とりわけ伝聞は叙述の擬態として、物語るべき過去の擬態として――物語が正確に届けられるかどうかにたえずおびえながら――物語全体を方向付けていたはずである*8
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桜庭一樹の作品は基本的に「私」視点に基づいており、ときに私小説といわれることもあるが、さほどに一枚岩ではなく、そういった単純なものではないことは、ここで確認しておきたい。
擬態する作家、桜庭一樹の物語世界は、作品や文体の成り立ちのレベルから、物語設定のレベルから、叙述のレベルから、非同期的にいくつものレベルを通して擬態を演じることから成り立っている。

*1:たとえば『少女には向かない職業』の「解説」(杉江松恋)、『探偵小説のクリティカル・ターン』所収の論文「ほんとうの出雲――桜庭一樹論」(飯田一史)など。

*2:ただし、シリーズ化された『GOSICK』(2003)でラノベの人気を博すのと、ラノベ文脈には還元できない『赤×ピンク』(2003)や『砂糖菓子』(2004)が発表されるのとはほぼ踵を重ねている。

*3:ここでいう変化は、別々の意味体系を前提したものであり、変化における意味体系AからBへ(たとえば子供から大人へ、コミュニティーAからBへ)の移動には批判なり教訓めいたメタメッセージがともなうが、それは擬態的移動には無縁である。擬態には意味などないからだ。それがそこにあるから、それに「なる」のである。自他ともに「読書の虫」と認める彼女の、古今東西ジャンルを問わない、無方向・全方向的な読書傾向(『桜庭一樹日記』(2006)『桜庭一樹読書日記』(2007)など)を見ればそれは自明である。

*4:80年代の小説における物語の説話構造を分析した蓮實重彦『小説から遠く離れて』によって知られる通り、とりわけ「世界の終わり」を背景にして仮設された、変化や移行劇(の失敗・断念)はきわめて80年代的な物語設定である。いずれにせよ、彼女にとって、変化・移行による何かの達成だの達成の無限延期といった設定は無意味である。彼女の物語における変化や移行(の断念)が宿命論的な色彩を帯びるのも、それが選び抜かれた類のものではなく、選択の余地のない半ば不可避的な模倣・擬態であるからである。

*5:Bがそもそも存在しない対象・属性も含む。

*6:桜庭作品に散見される、故意の言い落としの、事後的な穴埋め作業も一連の擬態的設定に含まれるだろう。穴埋め作業を遂行する者は、故意に言い落とした者にできる限り近付く必要があるからである。

*7:【ネタバレ注意!】たとえば、『少女には向かない職業』では、主人公・大西葵にとって殺人のパートナー、宮下静香は、他人の家の娘に「なりすまし」て巨額の財産を得る計画に乗ったため、主人公とともにやむない殺人事件に関与し、悲劇的シチュエーションに巻き込まれた。『赤×ピンク』では、「覆面」女子プロレスラーのまゆ(1章)とミーコ(2章)が、家族や他人に期待されるキャラクターを演じる(「なりすまし」)人生を送ることに疑問を抱きながら中々やめられないことがプロットの中核を担っている。また、3章目の主人公、皐月も、性同一性障害ゆえに性を二重に「なりすまし」て(身近な地域と家族に対しては、偽りの性になり、そこから逃げてきた匿名的な都会では、自然な性に「なる」)生きることがテーマになっていた。『少女七竈と七人の可愛そうな大人』は、二人の男女が「似すぎ」ていることの悲劇であり、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は、私は人魚に「なる」という狂言癖のある女の子が本当の姿を「誤認」され続けることの悲劇だった。『ブルースカイ』は、中世の町で他人に「なりすまし」ながらひっそりと生き延びる女の子の話からはじまり、時空をこえて救世主(と「誤認」され)に「なる」よう強いられる女の子が主役の作品。全編通して伝聞によって女系の先祖に「なる」ことがもくろまれる『赤朽葉家の伝説』でも、作中、見応えのある「なりすまし」が披露されるし、同じく伝聞形式の『青年のための読書クラブ』では、全5章のうち、「なりすまし」に入るプロットが採用されている話が3章、1章は「類似」と「誤認」、もう1章が、目立たない作中人物が実は物語を統御する語り手だったという、「なりすまし」のヴァリエーションである。ライトノベル作品でも、たとえば『ゴシック』のシリーズ1作目をみてみると、大々的な「なりすまし」が謎解きの中心として仕掛けられていたはずだ。[以上、2008年5月15日注記]

*8:語り手の瞳子は祖母・万葉の語った(故意の言い落としも含む)物語にどこまで迫れるか。