感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「夜スペ中止」の訴えは悪平等?

民間の企業出身者(藤原和博氏)が校長を務めていた東京都杉並区立の和田中学校で、今年1月から「夜スペシャル(夜スペ)」という有料の授業が始まりました。学習塾の講師が教壇に立ち、今まで公立学校では対応しにくかった成績上位層の生徒に向けた授業を提供するものです。
この「夜スペ」について、当初は問題があるのではないかとしていた東京都の教育委員会も「違法ではない」と判断、最終的にはゴーサインを出しました。ところが、杉並区の住民が3月末に、「夜スペは公共施設の目的外使用にあたる」として、正式実施の中止を求める仮処分を東京地裁に申請し、議論が再燃しました。http://news.goo.ne.jp/article/hatake/life/hatake-20080421-01.html

公立学校が教育格差を助長するのはよろしくないからって裁判に訴えるのは勇み足だよなあ。批判したい気持ちは理解したいけれど、いまや「平等」を安易に盾にするのはどの分野でも自殺行為。公的機関でさえ、市場原理主義には勝てない。とくに教育界では、ゆとり教育が槍玉に挙げられたところだし、「学力向上」が公共性があるという理由で都教育委員会からも「夜スペ」はゴーサインが出たところなのだから(ところで教育の公共性って「教育を受ける機会均等」じゃなかったっけ?)。
僕は、「夜スペ」の試みはまあそれなりに理解も評価もできるし、抜け駆けというかうまくやったなあと賞賛もできるけれど、私立がろくに機能してなかった地方出身の学生をすごした身としては、地域内・地域間の地道なネゴシエーションとか地域格差とかを二の次にする*1一公立学校の「英断」はあまり気持ちの良いものではない。単純に。仕方がない、と言われてもね。お前らも作ればいいじゃんと言われたってね、無理っす。か弱い市民は、状況を待つことしかできないから。じゃあ黙ってろよ、と言われたら、まあ黙るしかないのかなあ。。。
「地方出身の学生をすごした身」とか言いましたが、むろん自分が学生の当時なんて、大人たちがいろいろ画策していることが、自分にとって都合のいいものか悪いものかなんて分からなかったわけだけど。当事者である学生にとってそんなこといいわるいなんてわかりゃしない。
そもそも、学校教育における成績の問題で「学生にとって」とか「学生本位で」とか口実にしている議論は基本的に信用できない。ゆとりとか学力向上って、けっきょく生産性(国力)の問題だから、そういう口実は欺瞞のようにしか聞こえないし。
「夜スペ」批判側が学力偏向とか格差助長とかいうのは批判としてまったく有効ではないのは念頭に置いておくべきだけれど、肯定側のよく使う論法が、学力が他の能力(音楽とかスポーツとか)と差別されるべきではないことくらい分かっている――だから学力向上「も」奨励したって悪くはないじゃないか――という形になるのは、批判側のように「学生に優しい多様性」を前提にしているようで、生産性の方に議論をショートカットしていることは理解すべきだろう*2
それは子供のための議論ではありえない。生産性向上のために子供を方向付けることであり、その範囲内での幸福追求を保証するということじゃないですか。
もちろん僕はアナーキストでも超リッチでもない、しがない一国民なのでそれを否定しない。でもまあみんなでよってたかって言うようなことだとは思えない。僕が教えている子供たちも、世の中いまや市場原理主義的な発想じゃなきゃだめだってことくらいよく分かっているし。
要は、和田中に「夜スペ」先にやられて悔しいところ(公立)は、潰しにかかるよりも追随すればいいのではないでしょうか。市場の原理に従って。サピックス以外の塾と協賛で。それで塾さえ見放すような学校は滅んでもらって。
僕がとりあえず気になってるのは(いちおう色々やってる教師なので)、「土曜寺小屋」の学生ボランティアと称される教師とか、塾よりも格安で提供される「夜スペ」で働いてる講師はどういう条件で働いてるんだろうなあということだけど、どうなのかなあ?

*1:「「夜スペ」はいつ考案したのか」というインタビュアーの問いに対し、藤原氏いわく、「実は11月中旬、サピックスから区内の全中学校に届いたダイレクトメールがきっかけ。「放課後に講師を派遣します」という内容で、すぐに電話した。いい話は、最初のお客になることが重要だ。翌日に担当者が来て説明したが、向こうは塾を開いていない夕方を狙って授業をする、という営業戦略だったんだな。僕は言った。「放課後は生徒が忙しいから、塾を開いている夜間に授業してくれ。それなら受ける」。向こうも必死だ。「分かりました」と、その場で条件をのませた。」http://mainichi.jp/life/edu/news/20071224ddm004100018000c.html

*2:この「も」は、僕には、小泉純一郎元首相の論法を思い出させる。彼は就任演説で、ダーウィンを引き合いに出し、これからの世の中をサバイブするためには、腕力でも知力でもなく、変化に柔軟であることだと述べた。いうまでもなく、腕力と知力と変化への柔軟性を並列させることはうそ臭くて、位相が違うものを強引に並べてる。つまり、時代の変化の対応のために腕力が重要な時代もあれば、知力が重要な状況もある、ということなのであり、現代はとくに資本の多寡が変化への対応の鍵を握る、ということでしょう(議員だったら、元首相のように世襲であるほど優位でしょうし)。学力向上「も」、と言ってしまうのも、これと似た響きを感じるのだった。