感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

データベース的、郵便的

イーディさんこんにチは。コメントありがとう。講義のためにいろいろ図像を集めていたのですが、たまたま「モンドリアン」のイメージ検索をしたら、下記の連鎖の通り、とんでもないことになっていたわけです。グーグル検索さまさまですね。これはほんの一部ですよ。
イヴ・サンローランモンドリアンルックはファッション史にも刻まれるほどのもののようですが、貴方がお持ちだというアイシャドウのはちょっとばかり地味ですよね。連鎖においてみると、ようやくモンドリアン風の図が浮かんでくるといった感じ。今度お会いするときは、そのアイシャドウで登場してください。きっとモンドリアンのような瞳になっていますよ! 
とにもかくにも、こんなふうに、我々の知らないところにもこっそりモンドリアンは潜んでいるようです。地になり、図になりながら世界のいたるところに憑依していく形態連鎖。決してツリー状にはならない、この連鎖を積み重ねていくうちに僕の頭を不意によぎったものがありまして、ご存知だと思いますが、それは、榎本俊二の『ゴールデンラッキー』の「ニヤリ」でした。
この「ニヤリ」(正式名称は「インベーダー」)という不条理キャラは、4コママンガ『ゴールデンラッキー』のシリーズものなのですが、その4コママンガの展開のなかで、通常のキャラに憑依したり、虚実の境を越え、地となり図となりながら様々な事物に憑依し、世界(4コマの流れ)を彼色に染めたところで「ニヤリ」とほくそえみ、オチをつけるものです。
グーグル検索から見えてくる「モンドリアン」連鎖にも同じような感覚に襲われます。知らぬ間に、ある図像・形態に憑依され、一つの集団というか連鎖(ジャンルの垣根を無効化する「モンドリアン」というカテゴリー連鎖)の中に取り込まれているという感覚。
図像の側からしてみれば、誰かの認識枠組みに憑依するたびに、「ニヤリ」としているはずなのです。これはデータベース的キャラ・図像管理とは別のキャラ・図像、たとえばエクリチュールデリダ)とでもいうべきものでしょう*1
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ところで、東浩紀氏は、キャラなりエクリチュールの問題を、(メタフィクショナルなプレイヤー視点における)データベース管理・データベース消費の次元(比喩的に言えばコンピュータ上のGUI環境)にもっていって理解しようとしました。これは、彼による、データベース管理・消費の倫理的な批判も含めて今日的に重要な営為だと思います。
だけれど、メタレベルの「私」(自意識)とセットになったデータベース的な管理と消費を批判するには、東氏が試みたように「(選択肢の無限連鎖を)選択する不自由な主体の審級」とか、あるいは「決断主義」を持ち出すよりも(それだけだと、けっきょく形而上学的な「私」の固有性を温存させることになりかねない)、主体の地となり図となり憑依・連鎖する表現のレベルにも注目する必要がありそうです。そういえば、このレベルを東氏はかつて「郵便的」といっていたのではなかったでしょうか。
エクリチュールという問題系の議論に限って言えば、それを管理する主体とセットになったデータベースに回収するのではなく、そこからこぼれ落ち、横断するものとしてエクリチュールを積極的にとらえる必要があるし、デリダがかつて試みた衒学的なアプローチ*2ではなく、より感情と連携するかたちで大胆にこのようなエクリチュールに応接した、すこぶる元気のいい表現活動が最近現われてきているような気がします。
いずれにせよ、憑依するたびに「ニヤリ」とほくそえむ「モンドリアン」連鎖の意義は、管理する主体を介さないレベルで、むしろ、周囲の環境と関わる主体の認識なりコミュニケーションの枠組みを規定するところにあるでしょう。いつの間にか我々は「モンドリアン」のように世界を見ているし、「ポンパ」(『アサッテの人』)と呟きながら世界とコミュニケーションしている、ということです。
そして、現在のコンピュータとネット環境は、キャラ・図像のデータベース的な管理・消費を円滑に行わしめるものであると同時に、「郵便的」なキャラ・図像の流れや痕跡を追い(それを再帰的にデータベースに回収することもできるでしょう)、世界認識なりコミュニケーションの枠組みを新たに構築する――たとえば諏訪哲史のアサッテ語しかり、古川日出男のグーグル的地図作成や金原ひとみの「彼依存型私語り」の工学的調整弁もこの流れや痕跡に注目した物語の可能性を示しているように思う――ためにも有効なものになりつつあるのではないでしょうか。僕の「モンドリアン」検索の結果はそれを証明してくれているように思います。
それではまた、モンドリアンのアイシャドウで!

*1:エクリチュールの定義は、Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%ABと、東浩紀氏のエッセイhttp://www.hirokiazuma.com/texts/ecriture.htmlを参照してください。書かれたもの、書き言葉という意味の「エクリチュール」とは、「パロール」(話し言葉)に対する概念であり、音声中心主義の形而上学システムを批判するという理論的位置付けがなされています。とはいえ、とりわけデリダエクリチュール理解は、パロールとどちらが優位かといった問題に回収されるものではなく、そのようなシンボリックな二項関係からこぼれ落ち、支える審級として把握されています。

*2:デリダには脱構築という有名な批判的手法がありますが、それによって、マネのリアリズムとザオ・ウーキーのモダニズム、具象と抽象の間で両義的なマティスの批評的意義(エクリチュール的な画風?)を摘出することができるでしょう。むろん脱構築をするまでもなく、デュシャンレディメイド現代アートの一つの方向を指し示すことになった、「メッセージを織り込んだメディアとしてイメージを造形する美術作品」の様態は、メタ言語(メッセージ)と絵、シンボルとイメージの間で両義的なそのエクリチュール的なスタンスにおいて、脱構築そのものだともいえます。我々は、デュシャンの「泉」の体現したイメージの余白に、ウォーホールポップアートのイメージの余白に様々な言葉を読み取ることができます。しかしその試みは、データベース的な管理に批判的であれ、むしろ批判的であるほど衒学的なものになりがちであり、データベースを補強するような閉じた物語を紡ぐことになりかねません。そこでは、我々は、「泉」に襲われることも、シルクスクリーンの「キャンベルスープ缶」の連鎖に巻き込まれることもないでしょう。