感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

古川日出男的地図作成術――来るべき古川論のために

ある意味承前*1
古川日出男の作品には、頻繁に地図が参照され、地名が記述される。しかし古川的地図は、その土地固有の風土をもたない。物語の背景として記述される地図・地名には、作中人物がかつて生活してきた記憶や痕跡をとどめないし、今後も生きるべき参照枠として固有の付加価値を持たない。それが古川的地図。
ここでおさらいをしておくと、そのような土地固有の風土を最終的に無効なものとして処分したのは、文学史上、後藤明生の「団地」と中上健次の「路地」だとされる。そしてそれ以降、そのような更地化した地図の上に、架空の物語を注入し、記号論的な都市空間やテーマパークを演出する試みがいくつかなされてきたのだった(村上春樹の「ジェイズバー」「神戸」から島田雅彦の「郊外」「ロココ町」など)。
しかし古川的地図に記述される地名はそのどれでもなく、無機質なものだ。作中人物が動く線と線を結ぶ交点として、あるいはエピソードとエピソードを繋ぐ交点として機能するにすぎない。しばしば物語上のある種のシンボルとして、ランドマークとして機能しはするが、作中人物がそこで行い、みまわれるアクション以上の意味を持たない。
戦後史および戦後文学史の虚構性の総決算後に開拓された島田的な「シムシティ」が、テーマパーク的に細部を全体的なテーマによって覆い尽くす動機のもとにデザインされたものだとすれば(中心を持たない空虚な都市から皇室の戦後史へ、空間軸から時間軸に問題関心が変わってもその記号論的全体性の傾向は変わらない)、古川的地図は、そのような全体性を持たないのである。
各種建物や交通網、イベントなど諸点・諸層をハイパーリンクした、いわばグーグルマップ的地図によって作図される。そこでは、作中人物は、物語の一部としての各ポイントをなぞるのではなく、各ポイントをたどりつつ物語を繋いでいく。エピソードを繋ぎ、物語を生成していく。
西荻北なら西荻北的――さらに細かくググる西友から商店街に伸び、もっとググれば犬や猫がたむろする西荻北的――エピソードを(『サウンドトラック』)、目黒・品川区間ならそれ的なエピソードを(『LOVE』)引き出し、ときに改変・誇張をくわえながら、物語に投げ入れた作中人物の動線にしたがって物語を生成していく。
以上のことを北田暁大東浩紀的に言えば(『東京から考える』)、「セゾン・グループ」的作図から「国道16号線」的作図への転換*2、といったところか。

おれはきみのことを知っている。/きみの名前はカナシーという。椎名可奈、それが中学時代からシーカナ(椎・可奈)と呼ばれるようになって、東京に来てからカナシーになった。東京に来てからは、二回だけしか、生まれ育った土地に戻っていない。(中略)おれはここまで、きみの胸の奥について語った。おれはきみのハートについて語った。おれはここから、その一日について語る。おれたちがからみあった、一日だ。まず、その日の昼間だ。カナシーは目黒にいる。正確には目黒区の、下目黒一丁目にいる。そこに会社があるのだ。JRの(あるいは東急目黒線の)目黒駅から、西南方向に進むと、行人坂って坂がある。それを下る。じきに結婚式場と披露宴会場、ホテル、レストラン、美術館なんかがいっしょになった建物の敷地が現われて、その敷地内に、タワーがある。高さ一〇〇メートルちょっとのオフィス・ビルがある。テナントは外資系企業が大半で、変わったところではスポーツ・ジムや、有名チェーンのコンビニも入っている。そのタワーに、カナシーは月に二十一、二日、平均して通う。カナシーの勤め先も外資系だ。(中略)正午きっかりにカナシーは会社を出た。そのタワーを出た。(『LOVE』6頁、8頁)
いま、あたしは物語を区切った。あたしたちの物語を、いったん、割いた。つづけて語ろうかと思ったけれど、考えてみればつぎの出会いは、それまでの出会いとは違うから。そして、五番めの場所は、まるっきりの手付かずの場所とは違うから。/つまり、こうゆうことだ。/水曜日の夕方に、ジャキはその彼女と再会した。場所は、品川区のK品川X丁目Y番地、つまりジャキの家族が暮らしている都営団地の、敷地前だった。(同上116頁)
きみは天王洲で、鯨塚という言葉と、その鯨塚の位置も、手に入れている。そして携える。/いまは途上のきみの居場所に、ここで語るための視線をむける。あたしたちの物語の着地点はもう、そこまで来ていて、だからあたしは再度いろいろと奔放に、つまり自分勝手に物語る。たとえば、白猫。山辺麻衣佳はこの木曜日の午後七時十一分に、一匹の白猫に遭遇して、そこから導かれた。同じ頃あいに、誰かは白猫に出会った?(同上175頁)

じつは小説上におけるこのような地名・地図の記法は、以前から漠然とあった。たとえば、ファウスト系とかメフィスト系として一時期くくられてきた作家の、土地の記述の仕方が以前から気になっていたのだった。舞城王太郎西東京(『阿修羅ガール』の調布など)、佐藤友哉の北海道/西東京*3。それら作品に刻まれた地名は、物語の展開にさして貢献しないし、物語の有機的連関に還元されない。無味乾燥な土地・地名の記述の仕方。
そしてそれはまた、私小説的・エッセイ的な地図でもあった。つまり、おそらく彼らが実際に通うなり居住するなりしたことがあるのだろうと感じさせ、彼らの生活圏をなぞっているような感覚をもよおすという意味で私小説的・エッセイ的な地図記法といえるのだ。
それは、物語空間を自立した記号論的体系として構築する島田・奥泉らの世代が物語に土地を還元させる方法*4とは違い、あまりに素朴に見える*5
しかしこのような無機質・即物的な地図記法にリアリティーを感じ、物語を生成させる交点として積極的に利用したのが古川だった。
そしてこの古川においては、きわめて方法論的ゆえに、作家個人にまつわる私小説的・エッセイ的なニュアンスは消え、あくまでも作中人物個々人の動線を繋ぐ交点として利用されている。
注意すべきは、古川の地図記法は、たとえば『サブカルチャー文学論』の大塚英志氏が村上春樹高橋源一郎に見出した「謎本」的地図作成法(と「偽史」「年代記」的歴史記述)とは位相を異にするということだ。とりあえず、「謎本」については大塚氏はこのように説明している。

そもそも「謎本」というのは、虚構の中の世界を整合性という秩序からなる情報空間として見なす、という前提から成り立つ「お遊び」である。(中略)それは先に触れた「食べる」という個人的体験がレシピとして記述される世界像である。言い換えれば世界が体系、すなわちコードとして記述可能なものとして意識されているともいえる。そこでは常に体験は一度、情報へと還元され、記述される。(中略)村上春樹が固有名詞を用いる時は作中人物の「体験」や「感覚」といったもののもたらす、リアリティを情報へと書き換えるためである。だから妹の恋人への嫌悪は、フリオ・イグレシアスへの嫌悪によって説明される。こういった手法が可能なのは、ぼくたちの「体験」が否応なく「メディア体験」化しつつある、という事態があるからであり、村上春樹は「体験」を情報化することで受け手に容易にリアリティを喚起させられることを知っている。(『サブカルチャー文学論』132頁、149頁)

むろん、土地なり都市とそれにまつわる体験を記号に還元し、そのような記号・情報の束として物語の時空を組織する点ではどちらも同じである。
しかし、後者の「謎本」的地図作成法は全体を記号として相対化し、読者に包括的なメタ視点(たとえ幻想であれ、あるいは無限後退するものであれ)を提供するものであった*6。これは島田的「シムシティ」の文脈にあるものだ。だが古川にはそのような全体性の確保はない。包括的な視点から全体を相対化するメタ的傾向もない。そのような意味で、ほとんど衝動的に気分なり直感なりにしたがって土地を命名し、地名地名の交点を結んでいく、そんな印象がある。
あるいは、こうも言えるだろう。都市体験を記号化し情報に還元するものの、最終的には隠喩の地位(「フリオ・イグレシアス」=「嫌悪の対象」、「渋谷」=「コギャルの町」…)を確保した「謎本」的想像力に対して、古川はそれらをより即物的・換喩的に利用する、と(「コギャルの町」もよくググれば猫がたむろしている)。「フリオ」という記号が、物語展開上の「嫌悪」を表わす手段として物語の外から持ち込まれているとすれば、古川の記号化した地名は何をも表わさず、作中人物を繋ぎ、前後のエピソードを繋ぐ機能を果たすのみ。
いかにも無根拠で脆弱な感じがするが、この印象とは裏腹に、古川のいささか恣意的でもある記述は、一見不快な、ある種の神がかり的傲慢さに満ちていることも実感としてある*7。このあたりはまた別途議論しなければならない。
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また以上とは別に、ポスト島田的地図記法として、舞城の福井・西暁町と阿部の山形・神町の地図記法が挙げられるだろう。これは、大塚英志氏(『サブカルチャー文学論』)が村上龍において見出した「世界設定」とニュアンスが近い。「世界設定」とは、物語の無数のヴァリエーションをはぐくむマトリックスとして機能するものだった。
しかし、舞城や阿部の、サーガともいわれる地図・地誌的想像力は、「世界設定」が前提するような、単純に虚構的なものではない。虚構としてメタレベルに確保されたものではない。
阿部の「日付」の問題*8にも見られる通り、虚構を前提した想像力の無節操さを制限する役割など、いくつかの意図が、彼らの地名選択・地図作成の背景にはあるはずだ。これもまた別途議論する必要がある。
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以前、西尾維新の『不気味で素朴な囲われた世界』1900円を買ったのだけど、もうすでにここで笑っている人もいるはずで、そう、まったく同じ本が講談社ノベルスから同時出版されているらしく、その値段がななんと1900円の半額だとか。なんてこった。ハードカバーだから1900円? ありえない。意味不明。西尾大好きならたまらないのかもしれないけれど、イラストないぶん安くてもいいくらいじゃん。下調べしないのが悪いといわれればそれまでだけどさ。そんなの信用なくすっちゅうねん。こんな読者もいるっちゅうねん。安月給の1900円という重さをご存知か。もう買われんよ*9
あと、諏訪哲史の「りすん」がケータイ小説を踏まえているという見解があって、それはその通りだと思うけれど、ケータイ小説というよりむしろラノベ文脈と重ね合わせた方がいいかも。言葉遊びといい、兄妹(姉弟)の会話といい、西尾維新などを容易に想起させる。じじつ、ラノベをいくつか読んで批判的になった旨を諏訪氏自身告白している。
「りすん」については、前回と前々回でレヴューをしたが(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080215)、ラノベなりケータイ小説をどのレベルで取り込み、批判しているかは個別に論じられなければならない。

*1:今回のエッセイを読む前に、「現代批評の一文(2)」http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080201という文章を読んでいただくと、僕がこれを書いた文脈がわかりやすくなると思います。ここでは、その文章の、古川に関する注(注8に当たる)を抜粋しておきます。「古川には語るべき自明な物語はない。その上で物語を語ろうとする。どうするか。まず古川は、歴史上の年譜的事実(『ロックンロール七部作』『ベルカ、吠えないのか?』など)やグーグルマップ的な地図上の地名や建造物、それらに生息する生物(『サウンドトラック』『LOVE』など)を点在・並列させる。それらはいずれも断片的なものであるが、そこを起点にして、作中人物を投げ入れ、彼らの動きによって線を引き、物語を生成させる。まるでそれは、聖者の歩みによって人々との契約と物語を生成する聖書のようだ。以上の通り、古川が手がける作品の多くは、物語が自律した完結形態をとらない。ゆかしい伝統や物語に裏付けられていない、即物的な年譜や地理を積極的に利用する。叙述も完結性を放棄する。どうするか。作中人物や読者に向けて直接対話形式で物語る叙述=語り手により物語が進むのである(対話といっても、一方通行的な命令形をとる場合もあるし、またしばしば古川作品に現われる「−(し)て。」という連用止めや、短文で切り刻み説明をちくいち更新する反復話法(「伐られて積まれてただ放置されていた。かつての植樹団体の名をとって「ライオン桜の墓碑」と、それは呼ばれた。新見附橋の土手のそれは。」『サウンドトラック』237頁)も対話的な叙述になるべく貢献するだろう)。小説というジャンルは、普通は回想形式をとるべきものだが、古川の場合、奇妙に予言的形態(あるいは行為遂行的)をとるのも、このためである(他にも、新奇な名前・あだ名を命名したり、過去回想せずひたすら次の一手のために思案する作中人物を登場させたりするなど、理由は挙げられるが)。たとえ回想シーンであっても、あからさまに語り手が現前化したりするゆえに、対話的・命令的に作用するだろう。いうまでもなくかの聖書もつねに聞き手/読み手を意識したものであり、そのつど聖者が起こす奇蹟を、敬虔な従者・信者にならしめるべく聞き手/読み手に示していく構成をとっている。」

*2:もちろん、世の中は、「16号線」的な、プラクティカルというか「動物的」な都市環境――ロードサイドに並ぶジャスコユニクロ、マック、TSUTAYAといった、個性はないがそれなりに趣味と実益を満足させる各種店舗によって消費行動を制限され、また消費者もそれで満足するような「16号線」的都市環境――だけに覆われたわけではない。固有の風土にも、虚構的な物語都市空間にも回収されずに、それらの間隙を縫って形成されるようなエスニックスポットや、特定の趣味や世代によって区画された区域などが牽制しあい、モザイク状に都市(とくに東京とその周辺)は再編されており、古川の地図・地名への注目も、それらの動きにのっとったものなのだ。

*3:前期阿部和重の渋谷は即物的な面もあるが、まだ劇場的・テーマパーク的な趣がある。

*4:村上春樹―島田的物語にあっては、具体的な地名が記されていても、それは他の地名と代替可能である。当の土地そのものよりも、物語がその土地に与えた役割・機能・記号論的位置づけの方が重要ということだ。というのもそれは物語構造の一項として記号ベースで自立しているからで、外部にある実際の土地とは切り離されており、物語を読む上で実際の土地を参照する必要を感じさせない。このような地図作成が可能となる想像力は、日本全国が虚構化・郊外化したという合意に基づいている。

*5:その私小説的・エッセイ的素朴さは、彼らの描写する物語世界が島田世代(ミステリー文脈でいえば新本格世代)を増して徹底した虚構性に準じているがゆえに、逆に際立つのだ。むろんそれは単なる「私探し」的な素朴さ(本当の私は虚構の外のどこかにあるはず!)に回帰するものではない。彼らは、物語世界をそれ自体で自律した虚構空間として構築する必要を感じないほど、自分の履歴および生活圏さえも、情報なりイメージの断片として(データベースに)記入・登録されていることを、当たり前の環境として受け取っているようだ。[以上は2008年2月25日注記]

*6:[以下は2008年2月24日注記]「謎本」「偽史」的記法に関して、araignetさんがデータベース消費として解釈してくれました(コメント欄参照)。その通りだと思います。ここでは、東京なら東京の全体性を記号論的な観点から、均質な情報として把握する欲望が介在しています。いわば「ぴあ」的な欲望ですね。大塚氏が村上春樹高橋源一郎の作品に見られる特徴として挙げていますが、面白いことに、彼らの小説やエッセイを通して彼らの履歴や住所・立ち回り先等をトレースできる、というのだそうです(『サブカルチャー文学論』170頁など)。それが偽史なり虚偽の情報だったとしても、真偽の問題とは関係なく、彼らの作品は、読者をして作品内部の内容を情報に還元し、年譜なり地図を作成させる欲望を喚起する、データベース的な媒体として機能するのである。最近は、「ぴあ」的情報消費は減衰し、相対的に持ち上がってきた「東京(他各地域)ウォーカー」の16号線的な情報消費を軸に、消費性向(「R25」やら)と生活形態(「ガテン」やら)にあわせて細分化する無数のフリーペーパーが、本屋や駅、商店街など人が動く線にしたがって散在する状況といえる。

*7:対談などを読んでいると、けっこう構造改革節の小泉的だったりする。むろんそこから遠く離れる彼もいる。古川体験は、悦楽と不快の間でゆさぶられるものなのだ。

*8:確か蓮實重彦との対話だったが、サーガ化・シリーズ化において現実の「日付」を採用することは、シリーズ中の新たな作品を作るたびに足かせになるはずだ。わざわざそんなことをせずに、虚構ゆえの節操のない物語作成を楽しめばいいと思いがちだが、無節操な世の中には奇跡は起こりにくいものなのだ。

*9:大人気なかったと反省してます。ようは面白ければいいんです、三度の飯食うより面白ければその程度の身銭など切って吐いて捨ててもいいんでした。こころざしとしては。[以上は2008年2月25日注記]