感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「りとぅん」注解

承前*1
前回、「りすん」と比べて前作の『アサッテの人』をじゃっかん否定的に説明したが、もちろんそんなことはない。議論の必要上、そのような説明をしたにすぎない。前作と本作の対比で、前作が否定されるべきではないのだ。
僕が言いたかったのは、本作「りすん」と比べて前作に反アサッテ的側面が見える角度があるということである。逆に言えば、見方・比較の仕方によっては、本作の方が反アサッテ的に見える場合もあるだろう。このことは、本作「りすん」で、前作との関係を徹底して自註・自解してみせる諏訪哲史氏には自明である。
重要なのは、アサッテを到来させるべく、前作が文字の記述から音声的側面を炙り出そうとしたとすれば、本作は音声のやり取りから文字的側面を炙り出そうとしている、ということであり、この二作を鏡のように突き合せてみると、音と文字の間でくるくる回るように、叙述にいかなる根拠も置かない諏訪氏の実にメタフィクション批判的な姿勢にほかならない。
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このような諏訪氏の姿勢は、前回も引用した、唐突に漢字が多用されるラストシーンにも見られる。漢字が溢れるように多用されるこのラストの一節に突き当たって、読者は、それまで逸脱しながらも快調に読み飛ばしてきた読書行為を決定的に躓かせざるをえないだろう。

『朝子、あれ、あんな人も』/ホントだ、道端で床屋さん開いて。…上、ほら、看板だらけ…中国照相館? …北京音像書店? …わかった! 王府井! そうでしょ、お兄ちゃん…あれ…ちょっと、置いてかないで、お兄ちゃんってば、…でも…わあー、いろーんな看板…あれ、なんて読むの? …健華皮貨商店… …全聚徳?… 華夏工芸品店… 北京画店… 百貨大楼… …友誼照相館… 承古斎… 東安市場… 東来順… 珠宝翠鐘…外文書店 …清華園… 翠華楼…翠華?/『重離照南陸/鳴鳥声相聞/秋草雖未黄/融風久巳分…』/…お兄ちゃん、ヘンなの。なんか、読めないこと言ってる。……ちょっと……、お兄ちゃんってば、意味解んないよー…!『天容自永固/彭殤非等倫』(後略)

文字が音声の再現装置として機能すべく文法やパンクチュエーションなどの制度が考案され、私たちは日々それにのっとって――ということはそれらの慣用もふくめた諸制度を一々意識せずに――コミュニケーションをしているわけだが、このラストはそういった無意識的なコミュニケーションの制度性が収拾の余地なくあらわにされる(むろんこれは全編通してボディブロー的になされていることではあるが)*2
しかしここで注意すべきは、諏訪氏がここで漢字を多用するのは、漢字=物質的・概念的と仮名=音声的というまあわかりやすい対比の原理によって、音声中心の会話を脱臼させた、という試み(凡庸なエクリチュール論理解)をしたわけではないということだ。だから諏訪氏は、漢字の多用の後、ただちに、平仮名に開いた文章を過剰に並べる、という暴挙にも打って出るだろう。

……あれ、ああ、いた。…お兄ちゃん……ん?   だれ、それ。誰とおしゃべりしてんの?   え?/『きょうぺいらんちゅんたぽんて、とんふぁしゃんめい……』/『んんー! かちょきちゅらまにい。りんしゅうらんそはび。つーらすこーかしこみもおおすー』/『いいーしい、まおあっ! たらそーみん、あちりぱっはしいーあ? あぼきゃあ?』(後略)

いうまでもなく、(一見音声に忠実に見える)平仮名も過剰に多用されれば、たちまち読書行為は失調させられるほかない。諏訪氏がもくろむアサッテ語にとって重要なのは、あくまでも言語使用における効用・効果・意味伝達の問題なのであり、その限りで漢字と仮名、音声と文字の対立は本質的なものではない。アサッテ的効果をもくろむ効用の問題として、漢字と仮名、文字と音声、それらのアンサンブルによって構成された日本語の言語体系を最大限に利用しているのである。
彼が自身の前作『アサッテの人』を引用するのも以上のような試みと関連するのであり、「りすん」における前作の引用は、単なるパロディーとかメタフィクションのための衒学的な試みではなく、本作との関係で、音声と文字の対比から相互批判・相互参照の関係に置くためである。本作は前作の乗り越えではない。音声と文字のどちらに優劣を置くか、といったようなことと、二作の関係は無縁である。
いかに意味を伝達するか、いかなる効果をもたらすかという効用の問題は、なにより文脈(表現する文脈、発話される文脈)が意識されていなければならないわけだが、自作の連係で独自の文脈を形成しながら最新作にとって効果的な表現を繰り出すべく作られたのが本作の「りすん」であり、いうまでもなくその効果はアサッテ的なものでなければならない。前作を踏み台にするような効果を期待する試みは反アサッテ的なのである。
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ただ、こういった形式的な分析ばかりしていても、「りすん」の一面しか伝わらない。本作は物語と感情移入のレベルも軽んじられるべきではないのだ。白血病という、物語にとっては「紋切型」の病を病んだ妹とその兄が織り成す、会話を軸にした物語の悲喜劇と、避けても迫ってくる「紋切型」を見据えてアサッテ的表現を組織する形式の悲喜劇が――彼らの発話内容から発話の組織の仕方にかけて――複雑にからまりあって形を成した「りすん」は、結果的に、大いに感情移入できる物語消費に貢献し、アサッテ的な方角へ小説形式の可能性を新たに切り出すものでもある。
だからこそ、「りすん」の物語と感情移入のレベルを明らかにするために、前回レヴューでは、形式のレベルに触れざるをえなかったのだ。一つは、全編を通しての、言葉の効用の問題。もう一つは、本作の最も心揺さぶられるクライマックスであろう、兄妹が恐る恐る見せてくれた、文字を介した音声のやり取りという問題であった。そして後者の問題が意識化されているからこそ、全編を通して言葉が効用の問題として運営される、ということが導き出されるのである。
紋切型を避けるべく繰り出す言葉のやり取りは、母が死んだ病魔の紋切型に飲まれながら避けようとする兄妹の運命にもれなく重なる。白血病による死という物語に抗うべく、母の死の運命的な反復を避けるべく、むろんその抵抗と逃避も紋切型の物語に回収される可能性にも怯えながら、妹の固有の生を演出する会話を兄妹は際限なく繰り返すのであり、二人の父母がついに実現させなかった*3性的な関係さえ結ぶほどの熱く固く官能的な関係を育んでいくのだった。
「りすん」の、兄妹が応酬しあう歌声や会話を読み、聴くだけでも十分に楽しい。しかし諏訪氏は快感原則に従っているだけではなく、小説という形式に対してきわめてシビアな「道徳と理智の批判」(横光)にものっとっているのであり、その緊張感が感動的なのだ*4

*1:http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080215

*2:ここでは、カギ括弧が閉じられないことによって(最初の「だけがある)、地の文と会話を区分けする小説の制度も乱す。この制度壊乱は、単なる形式的な遊戯ではない。妹の生き死にとそれに関する希望という物語内容のテーマにも不可分にかかわるものである。

*3:二人の父母が一緒になったときはすでにそれぞれに連れ子がいて、それが朝子とその兄であり、血縁関係はない。二人の父母は愛し合っていたわけではなく、形式的なものであった。

*4:「ハトポッポ批評通信」の青木純一氏が「りすん」について新たな「純粋小説」(横光利一)の試みであると言っている(http://archive.mag2.com/0000206311/20080210070000000.html)。当の「りすん」にも横光「純粋小説論」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/2152_6546.html)中のトリッキーな概念「4人称」への言及があるが、僕も青木氏の指摘になるほどと思った(「純粋小説論」についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sz9/20070803)。横光は、衰弱しつつある純文学の形式を賦活すべく通俗小説の要素を注入することを提言する。通俗小説の重要な要素としては、偶然性と、それに基づく感傷性があげられる。それが紋切型的に利用されることがままあり(男女の楽しいひと時に、とつぜん白血病をもたらし、悲劇を演出する等々)、格式ばった純文学サイドは忌避しがちなのだが、横光は、そこに可能性を見出していたのである。言い換えれば、読者を見込んだ物語消費と感情移入のレベルの操作は、表現形式の可能性を理智的かつ道徳的に追求する上で容易に否定されるべきではなく、むしろ不可欠であり、また後者があって前者の効果も絶大だ、ということである。とはいえ、当時最新の学説、相対性理論の成果や自意識の限界を明らかにした哲学上の成果を織り込んでいる横光の「4人称」なり「偶然性」(−「感傷性」)概念は、物語のプロット上にのみ還元されるべきものではない。それこそ、文学の衰弱に道を開く、物語の紋切型にしか貢献しないだろう。それを避けるためには、形式的なレベル、叙述のレベルからも「偶然性」の導入がもくろまれている必要がある。