感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

りとぅん

1980年代*1に骨髄癌で死んだ母と同じ病にかかり、その「死に至る病」の反復におびえる朝子。自分の母は、白血病という、世間的に「紋切型」の死を遂げたのだった。ひょっとするとこの私も、母の反復を運命的に生かされているのではないか。彼女はそのような不安のもと、(自身も出生後4年間いた)中国を出自とする母の履歴を調査し追わずにいられない。
諏訪哲史の最新作「りすん」(「群像」3月号)を、とりあえずそのような――「紋切型」の物語批判的な――物語として要約することは可能だが、より形式的にみると、前作『アサッテの人』をふんだんに引用してみせるこの作品は、前作のテーマを正しく引き継いだ、メタフィクション(の作為性)批判の書でもあることは注意していい*2
むろん前作と同様、単に外部からメタフィクションを批判するのではなく、表現の作為なりメタフィクションは避けられないというスタンスからなされる、きわめて内在的な批判である(作為から逃れるべく繰り出されるアサッテ語ほどしばしば台詞じみて聞こえるものはない)。
前作と比べて本作がどのような点で性格を異にしているのか、すなわち本作が書かれる必然性はどの点にあるのかといった問いは、本作「りすん」の中で自註されているので、ここでは反復を避けるべく語らない。
ここで特筆すべきは、本作は全編通して朝子とその兄を軸にした会話によって構成されているということに尽きる。それは開巻から一目瞭然だ。

「しぇけなべいべな」/「しぇけなべいべ」/「つぃっつぁんしゃー」/「つぃつぁんしゃ」/「かもんかもんかもんかもべいべな」/「かもなべ」/「かもなうぇぎのな」/「うぇぎのな」/「おつぃすぃるが」(後略)

このようにカギ括弧が紙面を覆い尽くし*3、地の文は一切ない。意味の定着と伝達よりも音声の遊戯がなにより優先される。そんな兄妹の会話の連携にかかれば、あら不思議、どんなに自明で紋切型の言葉も、いつのまにか意味を剥奪され、新たな文(脈)に接合されることによって次々と多義的な言葉に変換されていく。

漢詩だよな。それも、ある程度長いやつ…。長い漢詩といえば、あれだ、玄宗楊貴妃が出てくる、あれ、えと…あ、長恨歌。/天に在りては比翼の鳥となり、/地に在りては連理の枝とならん/これがさ、まあ長いんだ。白楽天白居易だな、はっきょい」/「さすが、現役文学部だね。ふうん。…で、はっきょいって、なに、こう、こうこう、こう『発狂い』って、書くの?」/「書かない。すこぶる正常。…って、だいいち、お前、そんな名前の人間がいるか。形容詞か。中国人なのにひらがなまで一文字混じってんじゃんか」/「じゃ、『いよー、ノコッタ!』っていう、あっち?」/「中国じゃ大相撲やってないの。それに、よおく考えてみ、人名だぞ、人名。固有名詞。お前の、それじゃ掛け声だろうが」/「はっきょい、ね。ふーん。…なんかさ、『はっきょぉーい、ぁはっきょ』、とかって、らっきょみたいにそこら売り歩いてそう」/「あの…お前な」/「ええと、あの、『うりうりが、うりうりにきて、うりうりのこし、うりうりかえる、うりうりのこえ』って昔からよく言うじゃんか。ほら、あれだよ。四文字熟語のさ、『らっきょ・うりうり』」(後略)

『アサッテの人』では、「ポンパ」といえば即行アサッテ語と解釈される危険性があったが、本作では、「ポンパ」であれ使いようによっては紋切型になることもあり、逆に、どんなに紋切型であっても、文脈しだいでアサッテ的に響く使い方があるという、言葉の効用の問題に焦点が当てられるようになったのである。
そう。言葉のアサッテ化をもくろむ作中人物(主人公「私」の叔父)の音声が、叙述の地の文に(叔父の日記において、はたまた「私」の小説において)とり込まれ、文字として半ば規律化されるほかなかった『アサッテの人』に対して、作中人物の音声(のキャッチボール)が地の文を飲み込み、いかなる書き言葉も音声として発話される本作「りすん」(Listen!)にあってこそ、かかる効用の問題としてアサッテ語は活きてくるのである、とひとまずいえるだろうか。
しかし、そんな兄妹のアサッテ的な会話にもやってくる。あの不安が。発しては消える音声のやり取りでさえ、すでに書かれた文字(と文法)に規定されたものであり、あざとい作為性を免れていないのではないか、という不安が。その不安は、もちろん、アサッテ語を――自明なものではなく――効用の問題として会話のやり取りをしていた当初から二人を突き動かしていたもののはずだが、とりわけ二人の会話が盗聴され書き留められているということが当の二人に気付かれるときに、明確になるだろう*4
注意すべきは、この不安は、妹がわが身に感じる母の死の反復に対してのものと重なるだろう、ということだ。しかし朝子の母にはなくて、朝子にあるものがある。それは、アサッテ的会話を交わす兄の存在であり、その兄との会話にほかならない。
だから、全編を通して朝子は今度こそ母の反復を免れるのではないかという期待がひしひしと読者に感じられるのだ。寡黙な母のもとには、ついに、そしてやはりゴドー(God)は、待てどもこなかった。しかし朝子のもとにはくるかもしれない。やってきて、紋切型で運命的な反復を脱し、自分の生を生きるきっかけがつかめるかもしれない。兄との尽きない会話によって。音と音を触れ合わす楽しい――血が繋がっていないぶん性的でもある――二人の会話によって。
しかし会話だけでは足りない。そうだ。会話には、つねに得体の知れない何ものかがある。意図したはずの意味が剥奪され、多方向=多義的に表情を変えるあの幽霊のような、二人が見て見ぬ振りをしてきた地の文には比較的際立って見える、書かれた文字としてのモメントがあるのである*5。だから、なのだ。それに触れる不安に突き動かされるように、兄がみずから(妹の制止を振り切り)文字を書き込む一瞬が、本作にたった一シーンあるのである。そしてそれは、予期的な未来形(むろんそれは未だ意味が吹き込まれない形態)で書き込まれる、聴け、ゴドーよ、来たれ、と*6
とはいえ、その書き文字も地の文に書かれたものとしては表記されず、ただちに妹によって音声化される(カギ括弧にくくられる)、という形でのみ示されるのだが、この文字を介した二人の会話のやり取りこそ、言葉によるコミュニケーションのアサッテ的奇跡をあらわにし、引き寄せるモメントであり(いかなるコミュニケーションもこのような奇跡が潜んでいるものなのだ…)、読者は不意を撃たれ、涙しながら、朝子にきっとGodたるゴドーが現われることを確信するだろう。
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のちに、彼女の骨髄型と近似する提供者が現われ、手術するに至る朝子が、病室の無菌・無重力空間で(過去にまで遡る)夢を見るシーンを読み、そして聴きながら、私たち読者は、音声とも文字とも記号とも判別がつかない彼女の繰り出す言葉*7に様々な意味を付与し、思いをはせるだろう。
カギ括弧でついに閉じられない、このラストシーンは、地の文なのか会話なのか。文字か音声か。誰の人称(語り手? 作中人物の彼女?)のもとにあるのか。むろんそのような問いはすでに無意味だ。彼女のもとに訪れるゴドーが、彼女に生を吹き込む神の使者であるのか、死をもたらす死神であるのかを問うのと同様に、無意味で紋切型に堕ちる問いだ。しかし、そこ、この「いま、ここ」こそ、あなた方が望んだあのアサッテの世界であることは、間違いない。*8

*1:文学の世界では、思えばメタフィクションが流行していた時代だ。

*2:『アサッテの人』について詳しくは、http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070612http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070925

*3:最後のたった一箇所を除いてなのだが、そのことについては最後にふれる。ところで、「しぇけな」云々の冒頭引用は、なんのことやら度肝を抜かれるなり呆れるなりしたかもしれないが、読んでいくときちんと感情移入できる仕組みになっている。「りすん」はあざとい作為性に対する批評意識は明確であり、エンターテイメントとしても優れたものであることを注記しておく。

*4:会話は終始、朝子の病室でなされる。その隣の病床に、前作『アサッテの人』の作家とおぼしき人が出入りするという、サスペンス的にも非常にわくわくする展開。彼の名は、作中でも示唆される通り「ゴドー」と音が重なる「後堂」。果たして盗聴の仕業は彼なのか!?

*5:こういう議論(いわゆるエクリチュール論とか)に馴染みのない人は、自然に流れる会話のやり取りには、一見見えない形で様々な障害物がある、ということだけでも確認しておいてください。それをここでは(音声との対比で)文字と読んでいます。会話のやり取りのたびにその障害物は乗り越えられているのだが、日常ではそれには気付かない。

*6:もちろん、「聴け、ゴドーよ、来たれ」とは書かれていません。そういう意味に取れる文章が書き込まれるわけですが、ここはなかなかの読みどころで、ネタバレ的なシーンゆえ、引用しません。

*7:漢字が多用されるここで、彼女が中国に出自を持つ必然性がぐっとクローズアップされるだろう。朝子は漢字仮名アンサンブルの日本語という、音と文字の間で曖昧な言語体系を体現している。

*8:それにしても、「群像」3月号に本作とともに載った、諏訪哲史氏の川上未映子評には参りました。退場の仕方に乾杯! あわせて読むことをお勧めします。ちなみに参考資料、「「アサッテの人」執筆前夜」(諏訪哲史×谷川渥「群像」2007・9月号)「一撃のアサッテを、世界に見舞う」(諏訪哲史ロング・インタビュー「文学界」2007・9月号)「「付加価値」よりも「実質価値」の作家をめざして」(清水義範諏訪哲史「すばる」2008・1月号)。あと、諏訪氏主催の同人誌「ナハト」のバックナンバーほしい…。