感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

現代批評の一分(2)

純文学をしていると、「東浩紀は文学をわかっちゃいない」という物言いをする人にしばしば出会う。口にしなくとも、彼の話を話題にすると、「ラノベのあれでしょ」的な我関せずの(まあそれはそれで妥当性のある)反応をして話は先に進まない。
今月号の「新潮」にて「小説と評論の環境問題」と題する討論の模様が掲載されていて、高橋源一郎田中和生にくわえ、東浩紀が参加しているのだが、東氏に挑みかかる田中氏の発言からは、そのような純文学サイドの苛立ちを感じ取れた。ライトノベルを評価することはべつにかまわないが、純文学を軽視しすぎているという苛立ちだ。
その軽視は、たとえば、東氏が純文学の定義を「自然主義的リアリズム」として一括するところに求められる。僕としては、東氏のそのような定義を、べつに大文字の文学とか純文学に崇高な(ジャンルの存立)根拠を見出しているわけではなく、単に事実問題として粗雑だと思っている。
たとえば、心理学・精神分析の症候理解を定義するに当たって、外因性や心因性、内因性など様々な原因の可能性を模索してきたジャンルの伝統があるのに、それを無視し、脳や神経系といった外在的な要因しか配慮しない症候理解(精神障害は投薬やホルモン注入で完治する!)があるとすれば、心理学・精神分析の研究者の多くはそれを粗雑だと思うだろう。
あるいは日本の美術史について語る場合、フェノロサの古典美学なり、その後に出てくる自然主義的な美学で一括させて、村上隆らの登場によりサブカルの虚構性に影響を受けた、これまでにない美学が登場したという見取り図を立てられても、ちょっと待ってくれという批判を多くの美術史家はしたくなるだろう。その批判は正当なものである。
しかしそれをそのまま東氏に向けるのは筋違いである。彼は純文学には自然主義的リアリズムしかないと(ジャンル実在論的に)言っているのではなく、「自然主義的リアリズム」をその一モードとして、「ゲーム的リアリズム」、「まんが・アニメ的リアリズム」という三つのモードで網をかけることが文学を定義し、見通す上で望ましい、と言っているにすぎない。だから東氏は逆に、純文学(花袋や春樹など)にも「ゲーム的リアリズム」や「まんが・アニメ的リアリズム」の要素はあるし、適用可能だと言うことができるのである。
そしてこの視点を彼に与えたのが、美少女ゲームライトノベルだったわけだ。東氏はこのジャンルを文学ジャンルの(とりわけ自分にとっての)症候的な特異点と見ているわけで(それを彼の文壇上の政治性と見る必要はない)、だから東浩紀の評価を通して美少女ゲームラノベそれ自体に何か特権的なものを見出してしまった者は、彼の(レ)トリックに囚われていることを示している*1。むろんこのような事態は、ラノベ批判者、ラノベフォビアにも言える。
くり返せば、東氏が純文学=自然主義的リアリズムとして、様々な純文学の作家・作品(によって構成される文学史)の評価を切り縮めていることは、彼が純文学を貶めているからではない。それは彼の批評を成立させるための(レ)トリックであり、単に経済性(そこまで言及するのはコスト的に無駄だ)に準拠した一つの方便である。
だから田中氏のようにこの点で東氏を批判するのは、議論の流れ上仕方なかった面があるとはいえ、東氏の(レ)トリックに囚われすぎたことによる。そしてこのような視角から純文学を擁護したら、東氏から党派性を指摘されるのは仕方がないかなとも思う。田中氏自身は純文学もエンターテイメント(ラノベを含む)も差別なく文学として包括する意思を明かしてはいるのだが、東氏の、大塚英志氏の議論をふまえて仮構された「ゲーム的リアリズム」と「自然主義的リアリズム」の二分法に囚われてしまったのだ*2
けっきょく東氏を批判するのであれば、彼の文学に対する(レ)トリックというか網掛けの仕方では(あるテーマにおいては)不十分であることを証明するなり、別の網掛けを提示するなりするしかない。
僕は、東浩紀のとりわけ『ゲーム的リアリズムの誕生』に関して、純文学評価にも従来とは違う視点を提供するものだと思いながら(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070406)、純文学のみならず文学の評価に際して応用範囲が狭く、不十分であると思っていた(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070626)。この思いは、「新潮」の討論で、「キャラクターズ」(東浩紀桜坂洋)をめぐっての評価が、キャラのデータベース消費と私小説(的演出)の連結でなされているところを読みながら、強くしたのだった。

東「(前略)確かに、相手から自分がどう見えるか、しかも、相手がどう見ているかが可視的な場合、それらとの関係においてさらに「この僕」をどう演出するかと無限背進的に考えていくという点では、評論も小説も似たようなものですから。」高橋「僕は「キャラクターズ」を三回、読みました。あえて乱暴な言い方をすれば、これは私小説としても読めますね。」東「そうですね。」

キャラクター小説と私小説の違いを、「テクストの向こう側に、作者だけではなくキャラクターのデータベースがある」ことと、「最終的な紐づけ地点が作者」にしかないこととする東氏の理解に従えば、「キャラクターズ」はキャラのデータベース消費(「東浩紀」をネタにするウェブ)の環境を前提にして書かれた「私小説」と言うことができる。別言すると(東氏が「キャラクターズ」にこめた批評性を抜いて別言すると)、純文学の伝統である「私小説」はキャラのデータベース消費として再評価できるし、そうやって生き延びる、ということでもある。
東氏は「ゲーム的リアリズム」を定義するに当たってキャラのデータベース消費にくわえ、そのようなデータベース消費を支えるプレイヤー視点という概念を提示していた*3。この、ゲームプレイから援用されたプレイヤー視点なるものは、いくらでもリセット可能な(可能世界化の)性質上、メタ的な立場を保証されないし、各消費・各プレイにしたがって複数(人格)化するということは、東氏によって説明されている。
しかし、そのような、データベースへ再帰する消費と解釈の「無限背進的」な連鎖において浮かんでくるのは、ゆるぎのない固有名の虚像/巨像ではないか。たとえば「キャラクターズ」において、東浩紀は様々な「東浩紀」に分岐し、物語構造のレベルにおいてもI・S・Rと分散する過程をたどるのだが、それを読みながら感じるのは、「東浩紀」にこだわるきわめて神経症的な手つきである。桜坂洋という別人格の作家と組むのも、彼がキャラとして活きてこない以上、その印象を補強するにすぎない*4
もちろんこれは、東氏自身が望んでいたことであろう*5。しかし、これが文学の見通しをよくする批評の視点だとは思えないし、それを実現した「キャラクターズ」は読んでいてただ息苦しい*6
ここで、東氏の「ゲーム的リアリズム」を構成するキャラのデータベース消費とプレイヤー視点のアンサンブルに対して、それを引き継ぎながら別のコードを提示しているエッセイを紹介したい(http://d.hatena.ne.jp/araignet/20080119「オタクでない僕によるオタク第四世代論」)。このエッセイの議論は、直接的には「オタク」の二次創作を軸にしてその歴史的変遷を記述したものである。そこでは、「エヴァンゲリオン」以降セカイ系に至る「オタク第三世代」は東氏的な生産−消費のサイクルを前提にするが、いまや「ニコニコ動画」を主戦場にして「第四世代」が形成されつつあると言う。
ここで注目すべきはこの「第四世代」の生産−消費の仕方である。それは、アイマスMADに象徴されるように、データベースというメタレベルを必ずしも介さない生産−消費の仕方である。そこでは、各ジャンルごとに規定されがちなデータベースや諸コードの調理の仕方の訓練を受ける必要などなく、音や言葉や物といった単純な素材をひたすら享楽に準じる形で隣接させることが目指される。知的教養(第一世代第二世代)も、「KY」にたえず怯えるキャラ立ち(第三世代)も一切関係ない。
思えば、キャラ萌え・キャラ立ちが説明される際にも、東氏や斉藤環氏は「メトニミー」でそれを説明したと記憶するが(いわゆる統合的な「人格」が「メタファー」に対して)、「第四世代」のメトニミーの徹底振りを見ると、キャラ消費の文脈は最終的にメタファーの軸に収斂するものだったと考えざるをえないほどだ。ここではいわゆる「ネタ的消費」も、ネタを馬鹿にするメタ視点の確保に奉仕されるというよりも、ネタへの応接・隣接・接続のみが目指されているというほかない*7
僕はこのエッセイを読んだとき、純文学の、たとえば川上未映子の仕事をはじめ(川上については前回の日記)、古川日出男*8福永信横田創中原昌也らの仕事を整理する社会学的見通しと文芸批評の言葉をつかんだなあと感じた。
恐らく現代文学を論じるうえで、データベースの組み換え・解釈ゲームの傾向とともに、ひたすら隣接するものとの同期を目指す傾向があることをおさえておくことは見通しのよさを確保すると思う。たとえば、データベース消費の視角が、エンターテイメントの物語設定(SFやミステリなど)と「私小説」的キャラ立ち*9のラインを捕捉するとすれば(ここでは「大きな物語」亡き後「小さな物語」が無数に生産されることが保証される)、隣接する物の享楽的消費の視角は、文体や語法、叙述のレベルといったより形式的な側面が捉えられるだろう(物語批判・非物語の文脈)。一作品の中でも、これらは交錯するはずだ。

*1:それは批評を営むに当たって重要な作法の一つではある。単なる文学好きは小説作品から素直に入ったのだろうけれど、批評を営む文学好きはえてして作品よりもそれを扱った批評家にアディクトしたことが、文学好きの原因だったりするものだ。だが、その上で批評をするためには、自分が何者かの(レ)トリックに囚われていることを自覚していなければならない。

*2:僕としては、東浩紀から文芸批評が得る点は、社会学的見地と文芸批評のフレームを交互し、ときとしてどっちがどっちか分からなくなるほど往還させるその緻密さと手際のよさにあると考えている。

*3:哲学的に言えば、超越論的統覚のようなポジション。

*4:大塚英志氏の「記号でも血を流す痛みが感受されなければならない」とする「まんが・アニメ的リアリズム」の倫理を否定しつつも、データベース上の記号特有の可能世界にふさわしい倫理を定義すべく「選択することの痛み」を、文芸批評の言葉として作品を評価せずにはいられない東氏の手続きは、良くも悪くも、やはり、人格をキャラとして分散させながらも、どこかで最終的な審級を信じているように見える。

*5:複数のキャラが結果的にある統一的な人格像を結んだり、記号的なキャラに愛着を感じてしまう不思議な逆説をリアルと感受する心性を問題にする東氏は、キャラの複数性を強調する点で大塚氏と別れるが、この逆説において主体の再起性(再統一)を確保する点では、大塚氏の逆説的な記号理解(いわゆる「半透明性」)と意外に近い。

*6:キャラとしての「東浩紀」の横滑りよりも、「君はそう思ったかもしれないけど、実はこうかも、、いやいや実は」という東浩紀の声がひたすら聞こえるのである。評価の優劣はつけないが、これを前回の川上未映子評価http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080125と比べてほしい。二人とも「私」にこだわるが、「キャラクターズ」は東浩紀というコンテクスト(東浩紀のデータベース)をそれなりに理解していなければ読者になれないが、川上未映子はそのようなコンテクストの前提を必要としないという意味で基本的に読者を選ばない。

*7:むろんそれは、「ニコニコ動画」やアイマスといった道具が、メタ視点を確保させない、あるいはその確保の不可能性を可視化する技術的側面を持っているところが大きいのだが。

*8:[以下は2008年2月12日注記]古川には語るべき自明な物語はない。その上で物語を語ろうとする。どうするか。まず古川は、歴史上の年譜的事実(『ロックンロール七部作』『ベルカ、吠えないのか?』など)やグーグルマップ的な地図上の地名や建造物、それらに生息する生物(『サウンドトラック』『LOVE』など)を点在・並列させる。それらはいずれも断片的なものであるが、そこを起点にして、作中人物を投げ入れ、彼らの動きによって線を引き、物語を生成させる。まるでそれは、聖者の歩みによって人々との契約と物語を生成する聖書のようだ。以上の通り、古川が手がける作品の多くは、物語が自律した完結形態をとらない。ゆかしい伝統や物語に裏付けられていない、即物的な年譜や地理を積極的に利用する。叙述も完結性を放棄する。どうするか。作中人物や読者に向けて直接対話形式で物語る叙述=語り手により物語が進むのである(対話といっても、一方通行的な命令形をとる場合もあるし、またしばしば古川作品に現われる「−(し)て。」という連用止めや、短文で切り刻み説明をちくいち更新する反復話法(「伐られて積まれてただ放置されていた。かつての植樹団体の名をとって「ライオン桜の墓碑」と、それは呼ばれた。新見附橋の土手のそれは。」『サウンドトラック』237頁)も対話的な叙述になるべく貢献するだろう)。小説というジャンルは、普通は回想形式をとるべきものだが、古川の場合、奇妙に予言的形態(あるいは行為遂行的)をとるのも、このためである(他にも、新奇な名前・あだ名を命名したり、過去回想せずひたすら次の一手のために思案する作中人物を登場させたりするなど、理由は挙げられるが)。たとえ回想シーンであっても、あからさまに語り手が現前化したりするゆえに、対話的・命令的に作用するだろう。いうまでもなくかの聖書もつねに聞き手/読み手を意識したものであり、そのつど聖者が起こす奇蹟を、敬虔な従者・信者にならしめるべく聞き手/読み手に示していく構成をとっている。

*9:むろん「私小説」的じゃなくてもいいのだが。