感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

夕方の光と蛍光灯の光が交差する湯気のなかで顔以外の全部を鏡に映してみること/形而上の誘惑と形而中の反映/川上未映子『乳と卵』

今回『乳と卵』で芥川賞を受賞した川上未映子の文章には、叙述のあいまあいまに、「あいだ」や「狭間」や「隙間」といった言葉が間隙を縫うようにしばしば現れてきて、そこに立ち止まって注入される言葉の数々は渦を巻きながら叙述を滞留させつつ、途切れる間際に叙述をつなげていく。
こんなことを書くと、川上氏のことを凡庸な構造主義や関係主義者のように言っているようだけれど、それは誤解だ。彼女は、あるものとあるものの間に注意を向けるのではなく、あるものに「あいだ」や「隙間」や「狭間」を見出すことに長けているのである。どういうことか?
たとえば、川上未映子はとりわけ「私」について考察する文章で知られているが、彼女にとっては、この「私」は社会的関係の中に生きており、その一項にすぎない、とか、この「私」と「あなた」は相対的な関係にある、というのでは足りない。この「私」を(社会的な関係の中において)「あなた」と相対的にとらえたとき――超越的な冷めた視点に立って「私」をみたとき――、その相対化に還元できない何ものかがたえず見出され、その不意討ちに常時不安を抱えているというのが川上未映子の文章の震える佇まいの要因なのである。
じゃあ、そんな相対化の作為的な作業(「私」について考えること)なんかわざわざせずに、気楽に生きていけばいいじゃないか、と上から目線の標準語で言いたくもなるのだが、わざわざじゃなくてどうしてもそれをしてしまうのだ、自分の体の一部でありながら勝手にやってくる生理のように、とでもいいたげに「私」について言葉を繰り出してやまない彼女の文章にはユーモラスな表情が宿り、それが、相対化の冷徹さの中に思わぬ魅力が光るゆえんなのである*1
しばしば肯定的かつ否定的に評価される、河内弁ベースの彼女のブロークンな口語体は、そのような思考−書記の過程の魅力を端的に体現しているといっていい。

ずっと昔にあたしがロボコンに入って運転して、お金入れたら動くねんけど、そこには小さい窓があって、そこからあたしはお母さんとおばあちゃんを見てたけど、あっちからはその窓が黒く見えるからあっちからはあたしの顔は見えへんくて、それがすごい不思議やったことを思い出す。いま、お母さんとおばあちゃんには、ロボコンしか見えてないねん。あっちからはロボコンやねんな。でも中身は、ほんまはあたしが入ってる。その日は一日不思議な感じやったのを、覚えてる。あたしの手は動く、足も動く、動かしかたなんかわかってないのに、色々なところが動かせることは不思議。あたしはいつのまにか知らんまにあたしの体のなかにあって、その体があたしの知らんところでどんどんどんどん変わっていく。こんな変わっていくことをどうでもいいことやとも思いたい、大人になることは厭なこと、それでも気分が暗くなる。どんどんどんどん変わっていく。過ぎていく。それがゆううつで、なんでかものすごく暗い。でもその暗さは厭、気分が厭、厭厭が目にどんどんたまっていって、目をあけてたくない。あけていたくない、から、あけてられない、になりそうでこわい。目がすごくくるしい。

ただし、彼女の文章の魅力が、以上のように、「私」とは何たるものかという問いに駆動される相対化の作業とそのズッコケという垂直的な運動にのみあると考えるのは早計であろう。
「私」とその私を相対化する「私」の関係性だけが肝心なら、なんとやらの実存哲学やら心理学の本を読んでいればいいわけで、だから川上未映子の作家たるゆえんは、そんな「私」と「私」の「あいだ」、あるいはその濃度さ、つまり考察と書記の相対化の過程においてたえず生み落とし、分岐し、更新される「私」――「私」1、「私」2、「私」3…――の表情の変化が刻々とどめられているところ(「わたくし率」)なのである*2
だから川上未映子の「私」は私私私といくら連呼してもジコチューの私語りには決してならない。むろん、ズッコケぶくみのアイロニカルなジコチューにも陥らない。「形而上でも形而下でもない、形而中のことを書いてゆきたい」(http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20070910bk03.htm)というのはこの意味である。
「私」はこの「私」をついにとらえることはできないが、その痕跡が「私」の様々な表情となって魅惑し、ときに不安にさせる。痕跡。そう、記憶であれ記録であれ、「私」にとって痕跡として機能するものは、思考−書記の失策としてありながら、さらなる思考−書記の営為を喚起するものである。
この意味で『乳と卵』の、何ごとも書いて記録にとどめる娘の緑子は主人公かつ話者である「わたし」(夏子?)の一面であり、もっといえば、この作品の登場人物、緑子と巻子と夏子は無数の卵子としてたえず更新される「私」の一面をそれぞれになっているといえるかもしれない。
このような思考−書記にもとづく相対化の過程は、「私」の周辺のみならず、「私」にまつわる「男」と「女」、「大人」と「子供」、「音声」と「文字」のあいだでも演じられるだろう。だから、音声をになう母の巻子(あるいは、元夫の影をちらつかせながら意味をになう巻子と音声をになう「わたし」)と文字をになう緑子の関係に、どちらが大人らしいか子供らしいかを割り振ることに最終的には意味がないように、川上未映子の文章をそのブロークンな口語体ゆえに感性的とか女性的とかいうことはほとんど意味がない。
ただし、そうはいっても――「私」は「私」である必要はない、といっても、この歯が痛む「私」はいったいなんなのやら、という問いの瞬間は私に遠慮することなく必ずやってくるし、「女」は「女」である必要はないといっても、不意に初潮が襲い掛かり、胸のふくらみを気にする自分らはなんなのか、という問いは消せない。
川上氏はこの汲めども尽きない問いを、たえずズッコケる相対化の作業において、テニヲハと指示語を複雑微妙に駆使する口語体に結実させていくのである。彼女の口語体採用は、単に作為的なものではなく、作品の性質上不可欠なのであった。テニヲハと指示語でかそけくも大胆に切り結ばれる文章は、何かにとり憑かれ、みずから何かに執着しながら分散する「私」たちの息づく世界を体現するだろう。
『わたくし率 イン 歯ー、または世界』のラストはじゃっかんメタフィクションの作為を垣間見せるものだという指摘があったし(夢オチ?)、そういう意味では『乳と卵』のラストもまた、書記行為に自閉していた一人の女の子の、発話に至るビルドゥングスロマンめいた決着をみているが、そのような形而上への誘惑と同時に、親子が卵にまみれるどたばたシーンを、言葉でなんとか切り取っていく「わたし」の叙述を読んでいく過程はそんな疑いも杞憂のものにしてくれる。
そこには、親子の相克を冷徹な視線でとらえる「わたし」と、思わず巻き込まれて不甲斐ない「わたし」とが同居しているのが見える。叙述からうかがえる。そこで読者は、思わず涙ではらっとさせられつつも笑いを吹いてしまう自分の、泣き笑いのような、わけの分からない立場に追いやられていることに気付くはずだ。

わたしは風呂場に行って服を脱いで、パンツについたナプキンを剥がしてじっと見た、血はほとんどついてなく、ティッシュにくるんでから、新しいのを装着してすぐにはけるようにしてバスタオルのうえに置き、浴室に入って熱い湯を浴びた。湯は丸いようさんの穴から傘を思い切り開いたように飛び出して、冷たくなった足の指が鳴るようにじんじんとして、肩がびりびりと内側から破れるようにしびれて、太股と両腕に大きな粒の鳥肌がたった。目のまえの鏡はどんなに湯気がたっても曇らない施しがされてあるので、ここではいつでもくっきりと自分の体の全体が見えるのやった。/わたしは背筋を伸ばして、顎を引いて、まっすぐに立ち、少し動いて顔以外の全部を鏡に映してみた。瞬きもせずにじっと見た。真ん中には、胸があった。巻子のものとそれほど変わらぬちょっとした膨らみがそこにあって、先には茶色く粒だった乳首があって、泣き笑いのようだった、低い腰は鈍くまるく、臍のまわりにはそれを囲むように肉がついて、横に何本もゆるい線が入り渦巻いていた。夕方の光と蛍光灯の光が交差する湯気のなか、どこから来てどこに行くのかわからぬこれは、わたしを入れたままわたしに見られて、切り取られた鏡の中で、ぼんやりといつまでも浮かんでいるようだった。

川上未映子は「顔」をとらえない*3。「私」の自己同一性を保証するような意味での「顔」を*4。その代わりに、何ものかに囚われ、熟視すればするほど(わが身とともに)わけの分からないものに変容していく過程を不安ながら楽しんでいる*5。顔といえばいえる、泣き笑いのようなそれは不意に襲う、「私」を。
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*1:相対化の作業をたえず躓かせ、なおかつそそのかし駆動するもの。それが彼女にとってときには「歯」(『わたくし率 イン 歯ー、または世界』)であり、「乳」(『乳と卵』)であったりするわけだが。

*2:ここは視覚以外にも聴覚や触覚がフル稼働し、「歯」や「乳」「胸」がいろいろな表情を見せるところでもある。

*3:固有名がない、と言い換えてもいい。したがって、登場人物がすべて「私」の一面かもしれないという点も考慮し、川上作品を「脳内世界」だとする評価は半ば当たっている。たとえば埴谷雄高の『死霊』もまたそうだったというような意味で。しかしそのような評価が否定的である必要はない。そもそも自分の作品を「脳内世界」として自覚的に仮構しているのは作家本人であり、その中で「私」と言葉を純粋培養しているわけだから。

*4:以下は、2008年1月27日注記。「化女系文子」のdbpwriterさんの文章(http://d.hatena.ne.jp/dbpwriter/20080126)を読ませていただいて川上未映子の「顔」についてもう一度ゆっくり考えてみることができたのだけど、川上氏の顔のなさについては、じじつ非常に慎重であるぶん、むしろ彼女は人いち倍顔なるものに執着している人だろうとは想像するわけです。活字のみならず、ジャケ写やメディアの露出の仕方なんかをうかがう限り。でもそれは、顔になにか自分の正体というか本質的なものを見出そうというよりも、見え方・見せ方・映り方に顔の本質を見出しているという感じがします。こんなふうにつねに核心的なものから逃れて、歯やら乳やら髪(『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』「ちょっきん、なー」)やら細部にこだわる彼女の手つきなのですが、彼女の秀でてるところはそれがいっしゅんフェティスズムに流れるようでいて、そのような最終的にはジコチュー的な滞留にはとどまらないセンスにあるのだと思います。それもこれも、名前(未映子)からも想起できる通り、見えなかったもの・見せられなかったもの・映らなかったもの・見捨てられたものたちにも常時神経を研ぎ澄まし、言葉を繰り出そうとする姿勢にあるんでしょう。

*5:たとえば「わたしはそれを思いながら行き来する女々の体を追ってると、よくあるあの、漢字などの、書き過ぎ・見過ぎなどで突如襲われる未視感というのか、ひらがななどでも、「い」を書き続け・見続けたりすると、ある点において「これ、ほんまに、いぃ?」と定点決まり切らぬようになってしまうあの感じ」、「その改めて感」。

*6:以下は、2008年2月29日注記。条さんの「乳と卵」評(http://d.hatena.ne.jp/inhero/20080227)で、僕の「乳と卵」評への鋭い指摘をいただいたのですが、コメント欄がないようですので、ここに注釈という形で載せておきます。条さん、ありがとう。それから、来春から進学されるようですね。悪夢の大学生活へようこそ(笑)。くだんの川上評について詳しくフォローしていただきましたが、鋭い指摘です。要するに、「川上未映子はジコチューの私語りを逃れつつ、私の脳内世界で完結している(他者を導入しない)」という矛盾を、僕の批評から読み取られたわけですよね。自意識過剰の私語りを逃れつつも脳内世界、ってどういうことだよ、と。核心的なところだと思います。僕が先ずなぜ川上氏の文章を脳内世界であると言ったのか、ということですが、まず第一に、非常にくだらない話だけれど、なんというか政治的な意図がありました。川上氏の文章を脳内世界とか私語りに終始しているという形で批判する向きがあって、それに対しては、そうではないと否定するよりも、その通り!That's Right! ととりあえず言ってしまう方が(ジジェク的なアイロニカルなふるまい)効果的だと踏んだからです。正論でありながら内容空疎な言説には、まずはアイロニカルに挑むべきでしょう。条さんもご存知の通り、いまや、他者が描けていないとか私語りにすぎないという批判には効果が期待できません。それでもなおそうしたいなら、その他者なり私をはっきり定義しなければならないわけです。逆に言えば、川上氏の「私」とその脳内世界がすごいというなら、どうすごいのかを分析、記述する必要がある。それが僕の川上評の出発点でした。ところで条さんが、金原ひとみに比して川上未映子の「私」の性質を分析しているところは、ふむふむなるほどと思いました。金原が、「彼」(ら)との関係、つまりある社会性の中で「私」を表現しようとする結果、「私語り」「私小説」(といってもきわめて凶暴な)になってしまうとすれば――作品の中で金原本人と特定できそうなフラグをいたるところに立てるのは、じっさい社会の中の私を意識しているがゆえと言えるでしょう――、川上の「私」はそういう社会性とは切れているがゆえに、作家にまでたどれそうな自意識がむしろ希薄だ、と。つまり、ブロークンな口語体ゆえ自意識過剰な私語りになりそうなものなのに、そうはならない理由を、「私」(の欲望なり意向)が相対化される社会の広がり、社会的関係の不在に条さんは求められています。僕も多分似たような考えを持っていました。具体的に注目したいのは、彼女の論理性です。じっさい、彼女は崩しまくった口語体を駆使するのですが、叙述の構成と作中人物の関係はきわめてロジカルであり、それ自体で完結し、閉じている。社会性、環境的要因をとりあえず排除した、菌種の純粋培養実験場みたいな印象です(最近「もやしもん」が自分の中で流行してるだけに)。ここが、従来のブロークンな口語体を駆使する「私小説」作家(庄司薫から町田康まで)とは彼女が異なる決定的な点だと思います。僕がイメージしていたのは、カントとフロイトの思考の枠組みでした。ご承知の通りカントは「私」というものを定義すべく、哲学データベースから借用した理性や悟性、構想力とか物自体とかいった抽象的な概念を、単独のボディーを構成する諸器官のように組み合わせて、みずからの思考過程を組織したのでした。フロイトもそうですよね(エス・自我・超自我など)。もちろん彼らの作品は社会からの影響を受けている。むしろ誰よりも。きわめて抽象的な思考過程ゆえ、作品上では社会からのインプットは見えにくいんだけれども、「果たして自分の哲学は実践で使えるのか」、「自分の理論は臨床で使えるのか」、という問いを通してたえず彼らは自作(一作で完結してはいる)を更新していったわけです。その作品の系譜――たとえばカントは三批判のリレー、フロイトは快感原則から死の欲動の発見へ――を通して、僕らはいまでも、社会の中を生きた彼らを追うことができるんだと思います。川上氏もそのような作家だと思うし、ブロークンな口語体は飽きられやすいのですが、以上の理由から彼女には飽きが来ないだろうと憶測してもいます(文体改変も当然ありうるでしょう)。作中人物の緑子とか巻子は「私」を構成する、相互に自立した諸器官みたいなイメージですね。そんでもって、川上氏の作品(上の「私」)と社会を繋ぐものは何かと言えば、カントにとっては自分の「理性」、フロイトにとっては「ヒステリー」だったとすると、まさしく「身体」と「女性性」ということになるのだと思います。そういえば条さんがしばしばレヴューされるデヴィッド・リンチもあれは脳内世界感ただよっていますよね。まとめてみると、川上未映子の小説中の「私」の過剰で複雑な動きには論理式が介在していると、だから自意識としては響かないというまあけっこう平凡な見解なんだけれども、その動きと論理式を、テマティスム(というのはいささか失礼なんですが)を軸に的確にとらえているエッセイhttp://d.hatena.ne.jp/araignet/20080219がありますので、ぜひご一読を。それから、もちろんラブコールはできる限り承っております。