感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

年初めホラー談義

承前*1
われらがJホラーは、清水崇呪怨」(1999)において新たな段階に入ることになった*2。Jホラー特有の、あの、環境に溶け込んだような曖昧な存在。一瞬見えたかと思うと、たちまちかき消え、目を見開いていないと逃してしまう何ものか。この蜃気楼のような幽霊を巧みに見せるJホラーの文法に疑問を抱いた清水は、Jホラーに身体性の回復を試みた*3。それが形象化されたのが、あの2階(あるいは天井)からずり落ちてくる幽霊(伽椰子)シーンである。
しかし、清水監督の果敢な挑戦にもかかわらず、「呪怨」シリーズでほんとに怖かったのは、身体をともなった幽霊ではなく、やはりJホラーの従来の文法通りに処理された、環境化した幽霊の方だったはずだ。
これを失敗と位置付けるなら(むろん「呪怨」シリーズはホラーとして怖いし、画期的な作品であることは間違いないが)、その理由は、「(身体を喪失した)観念的な幽霊」と「身体的な幽霊」という二分法を意識しすぎた点に求められるかもしれない*4。従来のJホラーの文法を「観念的な幽霊」とみなし、それを仮想敵とした上で「身体的な幽霊」に新たな可能性を見出す、という図式に短絡的な誤りはなかったかどうか考えてみたい。
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実は、Jホラーで重要なファクターは、「環境化した観念的な幽霊」だけではない。それとともに重要なのが、「感染」であることは、Jホラーファンにとっては常識であろう。この線は外せない。
そもそもJホラーの素材の源泉である、古くから伝わる怪談話(「耳袋」「新耳袋」など)で重要なファクターは「呪い」であった。「呪い」はいうまでもなく「感染」である。
そしてJホラーでこの「感染」を物語のプロットに巧みに利用したのが中田秀夫の「女優霊」(96)「リング」(98)であり、ここにおいてJホラーは一つの達成にいたったのだった。
感染といってもただの感染ではない。周知の通りJホラーが注目したのは「メディアを介した感染」であった。それは「女優霊」や「リング」のようにヴィデオ(記録媒体)の場合もあるし、「着信アリ」のように携帯電話(コミュニケーションツール)の場合もある。仰々しくメディアを使わなくとも、「トイレの花子さん」のように、「口コミ」(都市伝説、怪談話の口承)といったわりと古典的な感染経路も活用されるだろう。
前回のエッセイで私はこう述べた。Jホラー特有の「環境化した観念的な幽霊」は、視聴者(見るもの)とその環境(見えるもの、見せるもの)との関係を原理的に問うところから形象化されたものだと。ホラーにありがちな、見世物的な怖さではなく、視聴者を巻き込む怖さである。そして「メディアを介した感染」もまた視聴者を巻き込む怖さにほかならない。映画(ヴィデオ)作品を見るということもメディア体験であるのだから、作品内で広がるメディアを介した感染は視聴者の恐怖にも忍び寄るのである。
ここでハリウッド・ホラーを振り返っておこう。そこにも感染の怖さはもちろんある。それを最初に大々的にやってのけたのが、ジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(1968)以降のゾンビものだろう。しかし、ロメロ印のゾンビは「感染」云々よりもやはりその宿主(群れるゾンビ)が重要だった(その亜流のゾンビ作品、「バタリアン」なども)。そこでは、死体が目覚める原因も、たとえば惑星爆発による宇宙線放射能の漏出とか軍部のガス兵器汚染とかかなりいい加減で*5、感染の恐怖自体には重きを置かれているとはいえない。
ただし、90年代以降は状況が変わる。かなりの致死率を誇るウィルスや生物種間の境界を横断するウィルスの発見などの影響もあってだろう(むろんここにはワールドワイドに横断するコンピューターウィルスもふくまれる)、とりわけ「ウィルスによる感染」がクローズアップされ、(感染によって狂う)宿主が演じる恐怖にも増して感染源と感染経路、つまり感染そのものに恐怖が求められるようになった(「アウトブレイク」「ミミック」「バイオハザード」、イギリス発だが「28日後...」などなど)。Jホラーの「メディアを介した感染」と「環境化した幽霊」の採用もこの文脈にある。
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様々なメディアを介して流通し、感染する幽霊*6。それを擬態するように、Jホラー作品の流通の仕方も、口コミが鍵を握るのだと(むろんそこにはケータイなどのコミュニケーションツールが介在する)、小中千昭は指摘する。巨額な資本を投じ、派手な広告を打ち出すトップダウン方式ではない*7。作品自体が幽霊のように伝播し、伝わり方に従って見え様も変化する。「リングっていうの怖いらしいよ」「あのシーンの、あれ見えた?」「なんか聞こえなかった?」「あれってわざと? それとも本物?」…。
そう。Jホラーの「メディアを介した感染」により「環境化した幽霊」は、視聴者(のメディア体験)を介して作品にも宿り、流通する*8
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以上の考察から見えてくるのは、Jホラーは「環境化した幽霊」という線に、「メディアを介した感染」という線が不可分に連絡しあい、ジャンル固有の文脈を育んでいる、ということだ。
このうち、短編なら「環境化した幽霊」だけで十分いけるだろうが、長編にする場合は、「メディアを介した感染」というプロットがより重要になってくる。これを「リング」シリーズ以降、巧みに活用したのが「着信アリ」シリーズだった。
それをあまり重要視しない場合は、「環境化した幽霊」だけではいずれ飽きが来るし、えてして単調になるゆえ、清水崇の「呪怨」「輪廻」のように、物語プロットの構造が複雑化する方向に向かうだろう。幽霊に身体性を回復する試みは、恐らくこの文脈にある。「呪怨」がまさにそうだったし、「輪廻」にはゾンビ的な群れる(しかしかなりペラい)身体が登場したのだった。
ただし、いまや「メディアを介した感染」にも問題がある。むろんケータイをはじめ様々なメディア・ツールは多くのホラー作品において要所要所の恐怖シーンを盛り立ててはいる。しかし、口コミ的に広がる幽霊(およびその作品)は、「環境化」とあいまってあまりにも貧弱であるという印象をぬぐえない。だから不必要にビビらせる効果音を立てて、そのイメージ上の貧弱さを隠蔽しようとする作品が後を絶たない*9
したがって、清水監督が危惧する通り、身体性の回復が求められる理由はあるといえる。そしてその成功例(成功というのはむろん「怖い」ということ)はすでにいくつかある。まずは、雨宮慶太の「カタカタ」(2006、「コワイ女」所収)。顔付き身体をともなった幽霊とゾンビ的群れる(しかしかなりペラい)身体の採用といい、複雑な物語プロットといい、これは清水崇の意図していたことを、怖い作品として見事に形象化したJホラーといえる。

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次に、黒沢清「叫」(2006)。幽霊に、その演じ手の固有名(葉月里緒奈)を冠さなければならないと思わせるホラーはそうそうない。クリストファー・リーフランケンシュタインのクリーチャー、ドラキュラ役)以来とでも言いたくなる意味でも、顔付き身体を回復した幽霊といえる。むろんその身体は、Jホラー文脈において回復したものである以上、クラシックモンスターのようにイメージの中の何ものかではなく、イメージそのもの(の何ものか)であるといわねばならない。しかし、従来のJホラーの幽霊のように、イメージの戯れのみによる恐怖ではなく、身体をともなった顕現・動きがある。それがいままでにない怖さを演出している。
ここで葉月里緒奈は、呪いのために復活する幽霊の役をこなすと同時に、役者としての復活も果たすわけだが、そういう意味でも、葉月幽霊はイメージ(観念)と身体の間を過剰に生きているといえよう。Jホラーの匿名性幽霊とはわけが違うのだ。
これがなぜ怖いのかは、いくつか理由を求めることができるだろう。とくに「呪怨」との関係では、杉田俊介氏(http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070804)の的確な批評がある。私の今回のエッセイの文脈で言えることは、葉月幽霊も従来のJホラーの文法にのっとり感染/呪いの線は重要だが、この場合、感染の経路からつねに逸脱・過剰を生きるところが葉月幽霊の顔付き身体性を担保している、ということである。
ここで再度確認しておこう。Jホラーは、「メディアを介した感染」により「環境化した幽霊」が怖さを演出した。しかしこの幽霊は、実は、見る側の欲望にしたがって見られたものにすぎない。何もないはずの環境に、「思わず」あるいは「積極的に」何ものかを見てしまう(そうして自分勝手に不安になる)我々の欲望、だ。
だからこの欲望を徹底させていけば、洗練しはするが、いずれ口コミ的に流通する貧弱な幽霊しかイメージされなくなってしまうだろう(Jホラーの衰弱)。「呪怨」もこのラインに半ばしたがっていたため、いくら身体性を補足・強調しても、見る側の欲望によって喚起されるイメージ(「環境化した幽霊」)の付属物でしかなかったとはいえまいか。
「叫」はそうではない。というか黒沢清のホラーはおよそそういうところがあるのだが、何ものかを見る側(役所広司)の欲望・論理よりも、どう見たって、現れ動く幽霊の論理にしたがって恐怖シーンを撮っている、怖がらせようとしている、ということである。それが作品によっては、思わずギャグになりかねない場合もあるのだが、「叫」は葉月幽霊の採用とともに奇跡的な怖さを実現している。
いずれにせよ、黒沢清のホラーは、見る側の恐怖のみならず、怖がらせる主体の享楽それ自体に従順であるかのようなのだ。「リング」も「呪怨」も、幽霊は単なる悲劇(的なイメージ)のヨリシロでしかない。だから見る側はその悲劇を生んだ背景をたどりながら、見るべきものを見ていく。このとき、幽霊の呪縛も解放も見る側の論理である。
他方、黒沢の幽霊は、物語上悲劇的なプロットを利用しはするものの、その動き・現れ方にたえず逸脱・過剰を抱えている。それは、黒沢が幽霊の側からも怖さを組織し感受しようとしているからである*10。黒沢にとっては、幽霊は見えてしまう何ものかではない。そこにいるのである。
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あるはずのない何かを見てしまうことの恐怖、それが次々と感染することの恐怖はもちろん重要だ。しかし、けっきょくのところ何も見えないこと、感染しないこともまた恐怖であり、何も見せてくれないこと、環境が感染のメディアになってくれないことも恐怖である。
ハリウッドホラーにおいて、覚醒あるのみで何ものをも幻視せず、何ものにも感染しないサイコパス・モンスター(レクター博士たち)が屹立していることを、われらがJホラーは忘れてはなるまい*11。黒沢もまた、「キュア」(1997)でそのようなモンスターを形象化している。この系譜あっての「叫」なのだ。
むろん、ロメロ印のゾンビも、怖がらせる複数主体の享楽を起点にして造形されたのであり(そこでは、ゾンビに食われかけた人間、ゾンビに食われたがまだぎりぎり人間である人間などもふくめて濃度差のある複数主体が欲望の線を不定に追いやるのだが)、感染の主導権はゾンビの手中、見る側の欲望はそれに圧倒される立場にあったはずなのである。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sz9/20071231

*2:それが言いすぎなら、入ったことが誰の目にも明らかになった、と言い換えてもいい。

*3:幽霊の身体は、なにも「呪怨」に限らず、「女優霊」や「リング」の貞子の頃からすでに作品中に形象化されていたのだとすれば、こう言い直してもいい。「呪怨」において回復が試みられたのは、幽霊の「顔」(をふくめた全体像)である、と。

*4:清水監督自身、「呪怨」制作において従来のJホラーに対する対抗意識があったことを語っている。そのあたりについては、http://d.hatena.ne.jp/sz9/20050725

*5:外部的汚染に基づく感染は「ゴジラ」から「パトレイバー 廃棄物13号」「グエムル」にいたる伝統的プロットで、こういった理由付けが採用される場合は感染云々より感染によって化けたモンスターに焦点が当たる。

*6:メディアを介したイメージやフレーズの感染による物語の構成という点では、「キュア」「ケイゾク「アンフェア」の流れが重要。

*7:むろん最近では、インターネットやケータイの展開によって、消費者があたかも自生的に流通経路を作り出しているかのように大規模資本が操作することもより容易になっているわけだが。

*8:この様態を目聡く利用したJホラー作品が秋元康三池崇史の「着信アリ」(2004)。

*9:この点で「着信アリ」の流行の後は、ケータイ小説的な口コミ・ホラーを有象無象に生み出し続けるしかないのかもしれない。作品の質(が口コミを生み、市場を開く)よりも、口コミが作品の流通を支えるようになったらジャンルは終わる。

*10:文芸批評家の倉数茂氏は、「叫」に夢幻能との類縁性を見出している。葉月幽霊の形象化はまさに夢幻能を思わせるところがあるが、ワキとシテの主体が拮抗し相互転換する構造を持つ点(ワキが存在する現実世界は、シテが司る夢幻の世界に飲み込まれる)、まさに「叫」構想の源泉になっていると言える。ちなみに、夢幻能を作品構想の源泉にした作家として重要なのは谷崎潤一郎であることはしばしば指摘される。たとえば「蘆刈」。

*11:この意味で、斉藤環が、レクター博士の続編で博士に過去のトラウマを付与したことを失敗と見ていることは、適切である。レクター博士は、いかなる視線も欲望もつねに弾き飛ばす存在であったはずだ。