感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

フィクションの強さ、フィクションのラビリンス

ギレルモ・デル・トロパンズ・ラビリンス』に関する文章の最後が分かりにくいという指摘をいただきました。拙筆ゆえ仕方がないのにくわえ、極度にネタバレを恐れてしまったところにもその原因があるのかもしれません。書き直しました(「話を戻そう」以下)。じゃっかんネタバレ的文章になっているので、未見の方は地雷を踏まぬよう気をつけて。

フィクションの強さといえば、子供が夢見るファンタジーのように、何もかもが思い通りになり、自由自在に編集したり加工できたりするところにあるのだと、私たちは思いがちだけれども、恐らくそれはそのほんの一面しかとらえていない。時の米国大統領のような権力者がとても強く、また脆くもあるのは、世界をフィクションのそのような強さにおいてしか掌握しようとしていないからだ。
他方、私たちがよく理解していながらしばしば忘れがちになるフィクションの強さとは、至極当たり前のことだけれども、だれの手にも自由にならない、ということに尽きる。
その意味で、たとえば舞城王太郎の、パフォーマティブなジャンルの撹乱と、文体上のフリー・フォーム/フリー・スタイルは、ジャンルの垣根を越えて肯定されねばならないし、あらゆるルールやジャンルからフィクションを解放しようと宣言する古川日出男の「フィクションゼロ宣言」(『フィクションゼロ/ナラティブゼロ』)と最近の作品も肯定されねばならない*1
このことは映画にもいえる。たとえば、思い通りに資本を投下し、豪華なキャストを散りばめてみたり、デジタル技術をふんだんに駆使した映画作品が、観る者の期待以上のものではなく、上映時間の間だけの夢しか与えてくれないのは、フィクションの強さの一面しかとらえていないからである。身分相応に俺たちはフィクションでしかないと思っているから、現実世界との割り切り方がまあ潔いといえば潔いのだが、この現実もフィクション(の原則)によって世界が構成されている以上、映画がそこから自身のフィクションを撤退させる、というような決断はいうまでもなく弱気だし、欺瞞に満ちている。それは、文学に向けて古川が投げかけた指摘でもある。
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パンズ・ラビリンス オリジナル・サウンドトラック
先日観に行った、ギレルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』も、デジタル技術を思う存分に投下して作られたリアル・ファンタジーだった*2。これまでホラーとSFで培った彼の作品設計と技量がデジタル技術によって十全に実現されている、見事なエンターテイメントといっていいと思う。
物語は、絵本の中のファンタジーが大好きな一人の少女を軸にして、二つのパートが折り重なるように展開していく。一つは、彼女がそのつど与えられた試練の数々――「パンズ・ラビリンス」――を、ゲーム感覚で乗り越えながら、最終的にはプリンセスとして承認されるべく夢の王国に辿り着く――はたして辿り着けるかどうか!?――という筋をもつファンタジーパート。
そしてもう一つは、彼女が実際にいる現実世界のパート。時は1944年、内戦後のスペインの山奥を舞台に、フランコ圧政下においてゲリラが散発的に抵抗をくり返す。少女の母は夫を亡くし、圧制側の権力者に嫁ぎ直すのだが、圧制側とそのテリトリーに潜むゲリラとの間で翻弄される少女は、ふとしたきっかけで妖精と出会い、その妖精に導かれたファンタジーパートに脱出口を見出そうと、与えられた試練を受け入れるのだった。
デル・トロが自分の頭に描いた世界を実現すべくデジタル技術を快く受け入れるように、彼女に与えられた試練はどれも悩むまでもないほど他愛のないものだが、卓抜な演出とデジタル技術の効果で要所要所に見せ場を作り出し、飽きさせるところがない。
ただ、そのために、現実世界のパートにおける各種シーン、とりわけ、恐らく過去にもそのような事実があったのだろう各種凄惨な暴力シーンが、まるでホラーやファンタジー映画のシーンを観ているような印象を、私たちに与えるのである。現実世界のパートである以上、現実に起こったこと、現実に起こっていることのように表現しなければならないはずなのに、それはファンタジーパートと変わらない表現なのだ。
そこには境目がない。フィクションの被膜が何重にも覆っている。しかし、そういうフィクションのラビリンス(の試練)に、デル・トロは単に無自覚なのではなく、引き受けているように見える。だからこそ、何もかもが思い通りになることを愉しんでいるデル・トロに重なるように、何もかもが思い通りになることに痛みを感じ取れるデル・トロが、私には見えたのである*3
物語に戻ろう。終盤、少女は二つのパートの岐路に立たされて、ある拒否の身振りを見せる。その身振りは、物語の上ではきわめてヒューマニズムの、ええ話的なものとして解釈されうるだろうし、その身振りがもたらす結末はエンターテイメントという括りの中では、ハッピーエンドとしても、バッドエンドとしても受け取れるものだろう。
ハッピーエンドとして受け入れたなら、その人にとっては、やっぱファンタジーっていいよねってことなのだろうし、バッドエンドとして受け取ったなら、けっきょく子供のファンタジーは早晩打ち破られるわけで、現実の重さをこの子もようやく知ったのね、ということなのだろう。
とにかく、私が観ていた映画館の中で、他の人たちも各人なりの物語展開とエンディングを思い描いているのだろうなあと思えるようなラストの仕掛けになっていて、しかしそれはメタフィクションとか可能世界とかいったようなものではなく、各人なりに思い入れながら楽しめる作品になっていることは間違いない。ちなみに私は、ラストで嗚咽が止まらず周囲に迷惑をかけた。
話を戻そう。重要なのは、現実かフィクションかでも、リアリズムかファンタジーかでも、覚醒か夢かでもない。少女はどちらを選択したのか、ではないし、どちらの原則に敗れたのか(従ったのか)、でもない。
いかなる現実もフィクションのラビリンスとして受け入れたデル・トロにとって、問題はフィクションに如何に折り目を入れるかであり、対比をするならその上でなされねばならない。
そう、この映画の対比で重要なのは、一人の少女が二つの世界(パート)を股にかけるに及んで、これから生きようとする世界の人々から向けられた拍手喝采と、彼女が生きようとした(のに果たせなかった)世界にほんの少しほころびを入れる一輪の花との対比である。
ただしこのさい、現在形の「生きようとする」と過去形の「生きようとした」は逆でもいい。この作品では、フィクションの要諦通り人の生き死に――彼女が死んだのか生きているのか、生まれ変わったのか等々――はたいした問題ではないからだ。それに、彼女がどの世界からどの世界に移行したのかもどうでもいいことである。
重要なのは、彼女の身振りの二重性である。つまり彼女が世界に関わった一つの身振りが、一面では拍手喝采として受け入れられ、別の面では何をももたらさなかった、ということだ。しかしそこには何もないのではない。誰からも見向きもされないにせよ、一輪の花が咲いている。そしてこの花と喝采の間に、フィクションのラビリンスは、私たちの現実としてあるのである。
フィクションのラビリンス? そう。彼女の残した花を受け取りし者は、直接そこから、喝采を受けた彼女を知ることはできないが、その痛々しい花に何かを感じ取ることができるかもしれないし、彼女に喝采を贈った者は、傷だらけの彼女が残した花を見ることはないにせよ、その匂いをかろうじて嗅ぐことができるかもしれない。この二重性が、一人の少女を通してデル・トロがみずからのフィクションに入れた折り目であり、その、だれの手にも自由にならないフィクションの二重性のことを、フィクションのラビリンスということにしよう*4
私はデル・トロの咲かした花に拍手を贈りたい。フィクションのラビリンスに翻弄され続けた一人の少女に向けて、だれにも理解されなくても、映画だけは君がしたことを全て観てきたし、忘れないでいるよ、というように、最後に拍手と花を贈ったあなたに*5

*1:むろんそれらのパフォーマンスなり宣言が、作家の都合のよさとしてしか、個別作品に結実していないのであれば、ブッシュや小泉程度の――振り返ればセンセーショナルではあったとはいえ、実質的な評価においては――短命の作家に終わるはずだ。僕個人としては、両人ともそんな心配はないと思っているけれども。

*2:僕なりの位置づけとしては、ティム・バートン大林宣彦を足して二で割って余りがある感じ。『嵐が丘』と『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』と『血ぬられた墓標』と『タクシー・ドライバー』が好きだという素敵な作家。

*3:古川日出男の最近の作品にも、このような二重の古川が私には見えるのだが、それはまた後日に話そうと思う。

*4:私たちはフィクションを思う存分自由にはできないし、むしろ翻弄されるのがオチだが、一輪の花にも人を動かす力があり、拍手喝采には踏みにじられた無数の犠牲があることを、フィクションを通して伝え、知ることができる。折り重なりながらも、しかし不可逆的に交わることがない二つのパートは、この一輪の花と拍手喝采の関係の比喩である。デル・トロは、この重なりつつ交わらない両者の関係を、単なるイメージとしてではなく、二つのパートを使って物語に構造化している。端的にいって、私たちは、『パンズ・ラビリンス』というフィクションを、どちらかのパートを主軸にしながら辿ることで一喜一憂することができるが、それはどちらかを犠牲にした上で成り立つものだ。

*5:できれば、このエントリーも見てください。http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071014。それからもちろん、『パンズ・ラビリンス』を!