感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

80年代文学史論 第2回――庄司薫論(2)

承前http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070922
自分を取り巻く世界に向けて不平不満をぶつけていた薫。そんな彼に対して、世界の中から痛み――これはオマエの痛みだ!――を告げに到来した女の子。
かくして分裂の痛みを引き受けることになった薫は、女の子の買い物にしばし付き合う。二人で銀ぶらしながら、薫の足を踏んで申し訳ない気持ちでいる女の子をなだめる薫だが、なだめられているのはむしろ薫である。個人が世界の中で生きることの分裂・矛盾した痛みを告げ知らせた女の子は、薫にとって世界との接点をギリギリとりもつ女の子でもあるわけだ。赤頭巾ちゃんは実は狼でもあったのである*1
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『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969)で庄司薫氏が問題にしたこと。それは、60年代的な価値と70年代的な価値の関係、言い換えれば、集団の中において個人を位置づけることで世界がまるく収まった時代(連帯主義)と、そのような世界から個人が離脱する時代(個人主義)の関係であり、その二つの関係の分化および前者から後者への移行が問題であった。

白鳥の歌なんか聞こえない (中公文庫)

白鳥の歌なんか聞こえない (中公文庫)

三作目『白鳥の歌なんか聞えない』(1971)では、この問題意識は移動している。つまりここで問題になっているのは、上記の「移行」は何が原因なのか、である。つまり、まるく収まっていたはずの世界から個人の離脱・乖離は何故起こったか、が問題になっているのだ。
何が原因か。薫君が見出す答えは、ずばり、メディアであり情報である。世界と個人の間をメディアが媒介し、ぶ厚い情報空間が形成される、ということである。それは個人が世界にまるく収まる関係を決定的に阻害する。
例証。『赤頭巾』のラストで薫の飼い犬・ドンは死んでしまったことが語られるが、『白鳥の歌』ではその代行(「ドンの身代わり」)として、薫のガールフレンド由美ちゃんから「犬の縫いぐるみ」が贈られる。現物の、イメージとしての消費。あるいはまた、薫の姉が連れてきた息子は、日々テレビを見るのにいそがしいと薫に囁く。さらに、かつて薫に、内に抱えた矛盾を気づかせた小林は小林で、「駆け落ち」のイメージに引きずられ――みずから「阿波踊り」に乗りかかるように!――、じっさいに女の子との駆け落ちを試み、予期した通り無様に失敗する。そんな些細なエピソードを読むにつけ、薫の身の回りにはメディアが深く差し込まれ、情報なりイメージを辿ってしか世界に関われない有様を、読者は感じないわけにいかない。
極めつけは、本作の後半。そこで薫は死にかけた老人の邸に入るのだが、その一角を占める膨大な量の蔵書、一生を費やしてもとうてい読み尽くせない量を誇る図書室――村上春樹的な図書館――に閉じこもる。というより、彼はそこに追い込まれているのである。彼より先にその邸に入り浸るようになった由美の後を追い、次第に衰弱していくように見える彼女を助け出すべく薫は邸に乗り込んだのだが、彼はそこで目も眩むばかりの情報の壁に取り巻かれ、死を思う。彼はそれに誘惑されながら、必死で抗おうとするのである。

そうなんだ。この闇の中の巨大な影のような「敵」は、なによりもこの、ぼくたちの心の中の最も柔かくやさしいなにかを、ぼくたちの心の中のいちばん深いところでふるえているような人々へのやさしい気づかいを、まるで人質のようにつかまえようとしてくるのだ。この目に見えぬ卑怯未練な「敵」は、かならず死んでいくはかない存在としての人間、かならず滅びてゆくこの世界へのぼくたちのひそやかな心づかいを、まるで弱みのようにつかまえて身動きのとれぬ罠の中へひきずりこもうとしてくるのだ。しかもこの「敵」は、ぼくたちがそれを非難し否定することが、まるでぼくたちの中の人間らしさやさしさを捨てることを意味するような、巧妙なカラクリをもって迫ってくる。まるでぼくたちがこうして頑張って一生懸命生きていくことが、それ自体醜いことだとでもいうように、まるで死んでいくこと滅んでいくことこそすべての感動の源だとでもいうように、ぼくたちの中の最も柔かくやさしくひそやかな心の動きを、がんじがらめにしてとりこにし、その力を奪い、ぼくたちを弱々しくふるえるちっぽけな存在にしてしまおうとするのだ。でも、そうだ、でも負けるものか。なにが沈んでいく夕日だ、なにが白鳥の歌だ。さっさと沈んじゃえ、さっさと死んでしまえ……。

ここで重要なのは、この名指しがたい「敵」なるものであり、「死の影」である。これが薫にとって、深くメディアに規定された情報空間の比喩として機能しているのだ。
むろん情報がどうしたとかメディアがどうだとか作中で具体的に語られることはない。しかしここで薫は、世界と「ぼく」を乖離させる深い谷間のような深淵に取り囲まれているのであり*2、そこで彼が一々見せる体験の仕方がメディア体験(の萌芽)というほかないものなのである。それは次回作『ぼくの大好きな青髭』(1977)ではっきりするだろう。
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世界の中に自己を固定することはできない。そうである以上、世界の事物の意味を特定することもできない。庄司氏のエッセイ『狼なんかこわくない』(1971)にも、それを示す事例がある。そう。たとえば、将来の可能性のある若者が、それを限定された大人に対して軽蔑や嘲笑をするのと、それをあえて包み隠しやさしいいたわりを示すのとでは、「どっちがより残酷か?」という○×式の問いを庄司氏は立ててみせる。
最初の説明は、後者の方が前者よりも「むしろ明らかに高度な残酷さを持っている」というものだ。しかし彼はさらに、このいたわりは「人間関係におけるぼくたちのごく自然な気持を、形にしやすく組織化した「生活の知恵」」ともいい、とはいうものの、そのように「形式化された「知的フィクション」に共通する或るうさんくささいやったらしさ」を即座に嗅ぎ取り、「偽善的で欺瞞的なもの」でもありうると言い直すことになる*3
けっきょく、確率的というか状況依存的にしか問えない意味決定に対してぼくたちは疑心暗鬼にならざるをえないのだけれど、どのような意味を読み取(られ)るのであれ、その残酷さを世界の責任にするのではなく、自分の中に見出し続けるしかないのだ、という試練を庄司薫は自分に課すのであった。それは『赤頭巾』であの矛盾・分裂をみずからに引き受けた以上、必然的な意思表明であろう。
このように、向き合う角度にしたがって事物の意味なり情報なりイメージなりが変わること――だからどの角度から掘り下げても真実の世界になど行き着かない事態を個々人が理解すること――が、庄司氏が四部作後半戦で問題にした情報空間云々であり、メディア体験の意味だったのである。最終作『青髭』はこのメディア体験がより深化した形で物語を規定することになる。以下、それについての解説。
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ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

『ぼくの大好きな青髭』は、麦わら帽子に細縁サングラスをかけて、昆虫網をかかえつつ鼻の下に怪しい八の字型の付け髭をした薫が、この仮装を街中(新宿!)の見知らぬ人間がどのように受け止めるかと、周囲のまなざしを過剰に意識するシーンからはじまる。イメージを駆使し、イメージに翻弄される薫。
そしてさらに、この物語を駆動する最初の出来事、息子(薫の知人)の自殺未遂を知らせにくる母もまた、事の重大さとは無関係に、自分をどのように「見せる」かにいそしむのであり、薫もその母のイメージに翻弄されるのである。「自分が新珠三千代かなんかで今テレビに映ってるところです、と自分で思ってる、っていうのが第三者にすぐ分るようなそんな感じ」。
ところで、この物語は、薫の知人の謎めいた自殺未遂をめぐって、薫はじめ周りの者が解釈合戦をすることが主筋となっており、その解釈につぐ解釈はことごとくはずれながらも、物語が進むごとに事件の全貌らしきものは現れるのだが、それにしたがって薫は、自分が深くからんでいたと思われた事件から決定的に弾き出されていくことを思い知ることになるのである。
そしてこの物語の見所の一つはといえば、薫が出会う作中人物が玉葱の皮状に、いわば剥いても剥いても的に折り重なった相関関係図を描いているところである。つまりこんな感じ。謎の核心にある「他者救済」のために若者が組織したグループは、その「他者救済」が失敗に終わることを見込んで組織された「他者救済」のグループにとり囲まれており、そのグループもまた別の「他者救済」のグループにとり囲まれ、その周りをさらに取り囲むようにまた別のグループがいる…、というようにメタレベルに向けて順繰りに繰り込まれるグループ相関図が最終的に描かれるのである。
どこにも行き着かず、進めば進むほど疎外感を味わうほかない世界。それはむろん、60年代的な連帯主義の機能不全の中で、なおもそれを夢見ようとして書きつがれた庄司氏の孤独な思考の過程を表わしているといえるかもしれない。
青髭』はその最後に、ふと、「そういったすべてがもし既成の結末の分ったプログラムとして提示されてしまうのだとしたら、そのあとに続くわれわれにはほんとうに何が残されているというのだろうか?」と薫に言わせている。「プログラム」の時代の到来? 「プログラム」とは、それに関わる個々人をして、何かに対して抵抗することも夢見ることもゆるさないものであろう。
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ここで再び前作に戻ろう。上記引用の通り、薫君は『白鳥』で「死の影」に飲み込まれそうになる。またしても薫君ピンチなのだが、このときもあの『赤頭巾』のときと同様、女の子に救われるのである。今回は、ガールフレンドの由美ちゃん。ただし救うとはいえ、このときの由美ちゃんも死を背景にして、薫にとっては両義的な存在である。赤頭巾ちゃんのごとく、狼のごとく。ピンチの救済者でありながら、ピンチを体現する両義的な彼女*4
このとき彼女は、死の不安と誘惑の中にあって、薫に対して愛撫と性交を求めているように薫は自分なりに受けとめるのだが、それを素直に受け入れることの愛の表明と愛するがゆえに拒否することの間で引き裂かれているようなのである*5
このような女の子を前にして薫は再び、自分を分離させるのであった。「でもその時ぼくは、確かにこのぼくがかすれた声で、だめだよ、と言っているのを耳にした」、「そして、え? ときき返す由美の微かな声が聞え、続いてまたぼくが、だめだよ、と乾いたでも静かな声で繰返しているのが分った」、「ぼくは突然(中略)ぼくが(中略)彼女を狂おしく抱きしめ襲うのを見たように思い」、「ぼくは(中略)繰返していたのだ」等々。
というように、このときも彼は、自分のピンチにおいて、『赤頭巾』と同様、自分を分裂させ、メタレベルの声を立てるのだが、むろんこの自己分裂の意味なり効果は『赤頭巾』のときとは異なるだろう*6。そしてこのような解決は次回作『青髭』ではとられない。その一つの理由は、仮装という形で、物語の冒頭から意図的に自己分裂が試みられているからである。『赤頭巾』でなかば偶然知った自己分裂は、すでに既知のものとなったいま、効果的な解決策にはならないということ*7
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くり返せば、『白鳥』において薫を襲った「死の影」とは、世界(と関わること)との間にメディアが介在し、情報空間に包囲されたことの比喩であった。しかし彼は、それに包囲されること、順応することを最後の最後で拒否したのである。むろん、次回作『青髭』を読んでも分かる通り、一個人が拒否しようとも、いやおうなく情報空間の包囲は浸透し、それこそがいまや現実世界であることを、庄司=薫は知っている。
しかし、ここで重要なのは、彼は四部作を通してそれに抵抗を示し続けた、ということである。
思えば、復帰第一作『赤頭巾』で連帯主義と個人主義の分裂に引き裂かれつつも(その分裂を内に抱えつつも)、後者に舵を切ったかにみえた庄司=薫であった。その一方で彼は、『白鳥』から『青髭』にかけて、現実世界が情報空間に包囲されることに順応しながら、最終的にその包囲を振り切ろうとしているようにみえる。連帯主義から個人主義へという価値観の変化においては後者につき、現実世界から情報空間へという環境設定の変化においては前者についているように見えるのだ。
この選択は、現在の我々にとっては、いくぶん奇妙に思える。我々にとっては、個人主義である以上、情報空間として環境を設定するのは当然だからだ。たとえば、思い出そう。『青髭』から数年後、村上春樹が『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』(1985)において、やはり逡巡を見せながらも、最終的に現実世界よりも虚構の世界(脳内情報空間)を選択――というか半ば宿命だったわけだが――したことを、我々は自然に思えるはずだ。
この選択と比べると、庄司=薫の選択は分かりにくい。恐らく、むしろ彼は終始選択できなかったのである。価値観の変化においても、環境設定の変化においても、彼はその矛盾・分裂を生きるほか物語を生産できなかったのであり、彼の文体(饒舌体)も有効だとは思えなかったのであろう。かくしてそのような矛盾・分裂が彼の物語にも文体にも導入できないことを彼に悟らしめたのが、80年代に突き進む状況だったのか、それとも彼の才能なり資質によるものだったのかは、いまの我々には知る由もない。

ぼくはますます深まる眠気の中で、万一眠りこんだ時、間違っても両側の二人とくに由美の膝に倒れこんだりしないよう、もたれかかった巨木の幹に頭と背中をしっかりと押しつけようと努めたけれど、どうやらそれを最後に気を失うように眠ってしまったものだった。気がつくと小林が、おい、素晴らしい夜明けだぞ、と言っていた。*8

*1:タイトル『赤頭巾ちゃん気をつけて』の「気をつけて」には二つの意味がある。ひとつは、赤頭巾ちゃんが(薫に)言う「気をつけて」であり、もう一つは、赤頭巾ちゃんに「気をつけて(ろ)」、である。そもそも、庄司薫の「赤」「黒」「白」「青」四部作のタイトルにある、「気をつけて」「さよなら」「聞えない」「ぼくの大好きな」は両義的であり、相反する意味が込められていることは、庄司氏の読者には既知であろう。彼は、このような両義性・矛盾・分裂からおのれの文体と物語を生み出していたのである。うがった見方をすれば、彼が作家をやめた年は1977・8年ごろと想定できるが、それはこの両義性・矛盾・分裂を自分の文体と物語に導入することができないと悟ったときだと推測できる。しばしば庄司氏との類似なり関連性を指摘される村上春樹が『風の歌を聴け』でデビューするのは1979年である。

*2:「世界の終り」の壁のような…。

*3:このような意味決定を絶えず引き剥がすロジックは『青髭』でしばしば登場することになる。

*4:赤頭巾ちゃんの/に「気をつけて!」。いずれにせよ、ここでも重要なのは、彼女のもたらす両義性は、彼自身が抱えた両義性に他ならず、彼女はそれを彼に示し、ともに生きようとしていることである。まあ基本的に男の子目線だから、女の子は怒らないでね。

*5:どういうことか。ここで薫は、情報空間の包囲――「死の影」に飲み込まれること――を受け入れるか否かを、由美(の誘い)によって問われているのである。つまりこの薫は、由美との愛撫と性交を、若気の至り的な(?)イメージとして消費せざるをえない(ことを知っている)が、愛するがこそそれに抗いたいと思っていて、しかし拒否したら愛を逃す、という両義性に引き裂かれている。まあ、へんな話、簡単に言っちゃえば、欲望に関わる両義性に、この薫は向き合っているわけだ。ここで由美ちゃんとやっちゃったら欲望は解消されちゃうし、やらなきゃやらないで、欲望は満たされない、と(いや、でもこの喩えはかなり嘘)。いずれにせよ、『赤頭巾』における実存的な両義性(世界かおのれか)とは違い、情報論的な両義性(イメージか否か)に変換している点に注意。

*6:二人の彼女をどのように受けとめるか。一方の『赤頭巾』の女の子がもたらした矛盾・分裂・両義性は、自分の内に引き受けることを素直に覚悟した薫だとすれば、『白鳥』の女の子=由美がもたらした矛盾・分裂・両義性に対しては、薫には態度未決定・煮え切らない部分があるというか、「情報空間の包囲に抗う」「イメージとして女の子を消費しない」という決断としてその両義性を引き受けた薫はどこかたぶらかしている部分がある。つまり、その決意を口実にして、由美・女の子とは一生交わらない、という作為が働いているようにも見える。言い換えれば、情報空間の包囲はすでに不可避であることを知っている薫にとっては、由美との関係において問われた両義性は、自分の都合のいいように解釈できる余地があるということだ。しかし『白鳥』の段階で、ここまで踏み込んで薫の意図を読み込むことはできないだろう。

*7:1980年代以降は、自己の多重人格化、自己の不在がクローズアップされるようになる。『赤頭巾』から『青髭』にかけて徹底される、メタレベルへの自己分裂には、自己(と世界の関係)を問う上で限界があることを、庄司薫氏は恐らくどこかで悟っていたように思う。2007年10月12日注記。

*8:文庫版あとがき(1980)