『アサッテの人』評評
- 作者: 諏訪哲史
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/07/21
- メディア: 単行本
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注目すべき批判のタイプは大まかに分けて二つある。いずれも本作をメタフィクションとか言語実験的/ポストモダン的な小説とみなした上でなされたもので、一つは、メタフィクションの稚拙さとあざとさ(いまさらメタフィクション!)を指摘したものであり、もう一つは、メタフィクションなのに読みやすい(不徹底ぶり)、という指摘であった*1。
『アサッテの人』に対してメタフィクションとか言語実験とかいう指摘はその通りで、本作は、自作の制作・編集過程を読者に示しながら物語が進行するという自己言及的な構成からなっており、その制作・編集過程において切り貼りされた複数の話の断片は、随時挿入される話者の注釈とともに、物語の円滑な流れに抵抗してみせる。図解を入れたり、タイポグラフィーを多用するあたりも、メタフィクション、言語実験という形容にふさわしいだろう。
『アサッテの人』はメタフィクションであり、言語実験が仕掛けられている。それは多くのコメントの指摘通りだ。そして、コメントが下した批判も恐らく当たっている。なるほど、と思う。
しかし、この小説がメタフィクション批判として制作されていることも、僕にとっては大きい。メタフィクションなり言語実験はいうまでもなく日常的なもの自明なものに対する批判(「アサッテ」的異化効果)から生まれたものだが、そこにはどうしようもなく「作為」がつきまとう。そしてこの「作為」(のあざとさ)に苛まれていたものこそ本作の話者であり、話者に本作を書かせた主人公の叔父(「アサッテの人」)であったはずだ。
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現代日本文学は、この「作為」にこれまで決着をつけることなく、戦いを避けてきたのではなかったか。メタフィクションなり言語実験的な書法は、あざとい「作為」として、「言葉遊び」として長らく葬られ、それに対して、反動とはいわないまでも、小説はやっぱり物語を語るべきであり、読者を感情移入させることが第一条件だ、という方向にここ十数年を明け渡していたのである(たぶんね)。この間、「作為」のあざとさなり「言葉遊び」の自閉性なりに向き合って小説を作っていた作家はどれほどいるだろうか*2。
最近は、エンターテイメント的なプロット・物語設定(記憶喪失でなんやらとか、携帯サイトで知り合った女性をなんやらとか、人の子を盗んでなんやらとか)を導入し、果敢に物語を組織する作家は純文学の内側周辺にますます増える傾向にある*3。むろん、メタフィクションなり言語実験を、その効果(「あざとい」とか「言葉遊びにすぎない」とかいう指摘)をあまり気にせず愚直に組織する作家もいる。多様な小説があるのは読者としてとても楽しい。
『アサッテの人』は正攻法のメタフィクションとしては失敗作なのかもしれない。あざとさにテレがあるぶん。しかしそのテレがあるぶん、本作はメタフィクションから距離が取れているのであり(その姿はメタフィクションサイズなり何らかの定型から見ればいくら無様であれ)、そこからもたらされるフィクションのリアリティー*4に僕は圧倒されたのだった*5。
*1:もちろんメタフィクションなり言語実験的側面の読みにくさを指摘するコメントもあったが、それはこのような性質を持つ小説には古くからついて回るものなので、ここではとりあえず問題にしない。
*3:『アサッテの人』の中でも、エレベーター会社の社員という設定と、エレベーターに出没する「チューリップ男」というキャラ設定は、けっこう人気がある。
*4:もちろんそれがあの「ポンパ」をはじめとするどもりの組織化であった。ドゥルーズにならえば、どもり・吃音というより言い間違い・失言というべきかもしれない、あれらナンセンスな言葉の組織化。これは物語を宙吊りにする点でメタフィクション的な側面を有するが、意味をすり抜けて知覚感覚に訴える効用上、いわばフィクション(形成)以前の側面がある。そしてこの吃音/失言の組織化の部分こそがフィクションを形成する核にほかならない。(2007年10月3日注記)
*5:このような、まあ奇妙な文脈に、一見タイプは違えども、川上未映子がいる。彼女の文体と構成の魅力については、http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070922の註5にじゃっかんの言及有り。とにもかくにも、「ポンパ」(『アサッテの人』)は「オッパッピー」(小島よしお)を用意した。(嘘)