感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

80年代文学史論 第1回――庄司薫論(1)

1980年代の文学を考えようと思ったのは、90年代から現在に至る文学の有様の一端を垣間見たいという思いからである。これはいずれ90年――95年? 00年?――代文学史論に引き継がれるものである。今回(および次回)はその前史として、庄司薫(1937年生)を取り上げる*1
彼は1958年の東大在学時に『喪失』という作品でデビューを果たしたが(そのときは本名「福田章二」名義)、それから約10年にわたる謎の休筆期間をあけてのち、1969年に『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞を受賞、がぜん注目を浴びることになった。タイトルから感じ取れるイメージからしても明らかな通り、わりあい古典的で硬質な文体にのっとったデビュー作に比して、「ブロークンな口語体」「饒舌体」といわれた69年作は*2、しばしばJ・D・サリンジャー野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(サリンジャー1951、野崎訳1964)の文体との類似点を指摘されるなど、当時の活性化する若者文化にふさわしい作品として位置づけられている。

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

物語内容は、特筆すべきドラマチックな展開があるわけではない。『ライ麦畑』の主人公・ホールデンと同様、自分を取り巻く社会――大人社会――に若者らしい不平不満をこぼしながら、それでも何か具体的な行動に出るわけではなく、それなりに平穏で退屈な日々を送る主人公の一日が、一人称「饒舌体」でもって活写された物語である。
主人公の名は筆名と同じ薫。日比谷高校の3年生で(庄司氏自身も日比谷出)、間近にひかえた受験では当然のごとく東大を志望し、まあ合格も間違いはないと自他共に認めていた矢先に、若者文化の象徴・1969年の東大紛争のあおりを受けて入学試験が中止された結果、やむなく断念することになる。とはいえ、薫自身はそれほど落ち込んでいるわけではなく、この際だからいっそのこと大学に進学することもやめちゃって、なんとかなるさの軽い乗りで生きることを決意する薫君だった。
ただし、その「饒舌体」の語りだけを見て薫君の乗りは――それまでの文学作品に比べたら――ずいぶん軽い、と評価するだけでは不十分だ。薫君の語りは、分裂に満ちているのである。社会的連帯への志向と個人的趣味にとどまる志向との分裂である。言い換えれば、彼は口をあけると、世界(大人社会)を変えるために「ぼくたち」頑張ろうよ、という心性を曝け出している部分があると思えば*3、他方で、ぼくたちには一人一人の生き様があるのであり、けっきょくそれが楽しければいいじゃん、という心性を曝け出している部分があるわけだ。物語の終始にわたって、足の指の爪がはがれた微妙な痛みにさいなまれるのは、この分裂の隠喩である(たぶんね)。
誰もひとのことを考えない社会でそれでいいわけ? っていう疑問に駆り立てられる薫君がいるとすれば、集団行動に対しては、きみたち自分の頭で考え行動しているのか、そもそも、いまさら繋がれる価値観なんてあるのか、っていう疑問に満たされている薫君がいる。連帯主義的な薫と功利主義的な薫。前者を60年代的な薫、後者を70年代的な薫、としよう。
いずれにせよ、両者は互いを牽制するように配分されながら、しかし『赤』の前半では、薫はみずからの矛盾をやりすごし、面と向かい合わない。けれども、彼の友人・小林の突然の介入と、それに続く長話を聞かされる段において、薫は自分の矛盾に向き合うことになる。
小林の話を短くまとめれば、「知性から感性の時代へ」、「体系的な知より、ばらばらに拡散した群集の「阿波踊り」(小林)が肯定される時代へ」という現状認識のもとに、「おれ」(小林)はそれでも後者には流されない、というものだった。
ここで注目すべきなのは、小林が「おれ」と「おまえ」の違いを執拗にくり返すことである。しかもこの単数人称は「おれたち」と「おまえたち」の複数人称ともくり返し切り離されて使用されることにより、それぞれが内包しあいながら分裂していることが強調されるのである。この分裂を認識しながら、あえて小林は分裂を知的に体系付ける時代への「逆行」を覚悟する、と薫を前にして宣言する。
かくして薫は、自分の中の矛盾・分裂に気づくのだが、すぐさまこの矛盾・分裂を、個々人の利害や快楽・趣味を優先しつつも集団でまとまりたがる「おまえたち」の責任にして隠蔽しようとするのである。自分の中にある矛盾を、「おまえたち」――若者であれ大人であれ自分を取り巻く世界の側――の責任にして、自分(「ぼく」)の矛盾を見ずに回避する薫。矛盾を曖昧にやり過ごしているのは――矛盾を曖昧にやり過ごしながら利己主義という不気味な価値観に世界を明け渡しているのは、「おまえたち」の方なのだ、と。いささか投げやりに。

ぼくは、いかにも粋にヘルメットをアミダにかぶったり、真赤なネッカチーフを首に巻いたりして、話しかける人々に意気揚々と何か答えているカッコいい彼らの前を、険しい気持で背を向けて通りすぎた。ぼくのなかには突然彼らに対する苛らだたしい反撥がわきあがってきた。彼らはほんとうに自分の頭で自分の胸ですべてを考えつくして決断したのだろうか。誰からの借物でもなく受売りでもない自分の考え、自分だけの考えで動いているのだろうか。

誰もひとのことなどほんとうに考えはしない、ましてやみんなを幸福にするにはどうしたらいいかなんて、いやそんなことを真面目に考える人間が世の中にいることさえ考えてもみないのだ。そしてそれは恐らくはごく当り前の自然のことなのだ。/ぼくは四丁目の三愛ビルの下でちょっと立ちどまり、(中略)それぞれ楽しそうにやっている姿が遠く遠く銀座のはずれまでつながっているのが見えた。(中略)このざわめきこの都市この社会この文明この世界、このぼくをとりまくすべてに対する抑えきれぬほどの憎悪が静かにしかし確実に目覚めてくるのが分った。(中略)何故なら、あんなにも素直に、あんなにも努力して何かを守り続けてきたぼくを、ののしり嘲りからかいおいつめそして足をひっぱり続けたのは、おまえたちなのだから。ぼくがこれからどうなろうと、何をしようと、どんなにダメになろうと、それはみんなみんなおまえたちのせいなのだから。

このとき薫は、街中を歩きまわりながら、これまでにない孤独な内省をくり返す。饒舌体のテンポを失い、かつての『喪失』の文体ほどではないまでも、60年代的な重さに支配されつつある。あるいはこの独りよがりなところからくる重さは、70年代的な軽さの半面ともいえるかもしれない。
しかしこれでこの物語は終わらない。事件、というよりほんのちょっとしたきっかけが起こった。重々しい内省を続ける中、赤頭巾ちゃん登場、小さな女の子にいきなり足の親指を踏まれるのである。
物語の終始にわたり足の親指の爪がはがれた微妙な痛みにおりにふれさいなまれるのは、薫の中の分裂・矛盾の隠喩として機能しているのだが*4(たぶんね)、内省する過程でも抑圧されていたこの痛みの存在がいきなり奮い立たされるわけである。「その時だった。右の方から何か黄色いものがかすめるように前を通りすぎたかと思ったとたんに、ぼくは左足のそれもまさに爪なしの親指そのものの上を誰かに地軸まで踏み抜かれて、それこそ声も出ず身動き一つできぬまま全身を硬ばらせて縮みあがっていた」。「ぼくは、ぼくがそのしびれたような感覚をそのままぼんやりと、でもできるだけ何気ないような足取りで右の方へ歩いていくのを知った」…。
ここで薫は、たんに痛がっているのではない点に注意しよう。「縮みあがっていた」、「ぼくは、ぼくが(中略)知った」、「痛みが(中略)分った」等々というように、自己を分裂させているその様が重要である。世界の中で痛みとともにある薫と、その外から痛みを孤独に眺める薫との分裂、である。
薫は、この痛みのもとで知るのである。自分ではなく世界の方が矛盾し分裂しているのだ、とか、世界と自分はそもそも分裂したものだ、とかいった自分に都合のいい解釈は当たらない、ということを。ここにおいて彼は、自分を取り巻く世界の中で生きる以上、彼にとっての60年代的な価値観と70年代的な価値観の矛盾を引き受けざるをえないことを、我々に示すだろう。
むろん、『赤』において庄司氏が、感性的な饒舌体――独りよがりなものの見方で世界を捻じ曲げるほどにブロークンな口語体――を語りの方法として採用した以上*5、いくら60年代的な価値観を語っても、70年代的な価値観の方に軸足を置いていることは明らかである。軸足は、語られる内容よりも、語る方法・様式の側にある。少なくとも、『喪失』から『赤』への文体の展開はそのように見るべきだ。
しかし、ここでより重要なのは、最後には明らかに共同性より利己的価値観の方に向かう薫ではあるが、その個人もけっきょく自分では思うようにならない側面があるということを、痛みとともに示している点であろう。
薫君は『赤』以降シリーズ化するが*6、キャラクターの魅力とあいまって同様にシリーズ化し、「饒舌体」で人気を博した橋本治の『桃尻娘』(1978)のあっけらかんとした軽さと比べたら、薫君の軽さはいかにも重い。(続く)

*1:庄司氏について、履歴など詳しくは、以下のサイトが参考になる。「時代の児の運命 作家「庄司薫」の時代」http://www.dozeu.net/people/syouji.html、「バクの飼主になろう」http://www.geocities.jp/bakukai2004/kaheya.html

*2:「その日、私といとこ達は啓子の大学合格祝いに集っていた。そして一通りのお祝いと昼食のあとで啓子の両親があっさり外出してしまってから、私たちは庭に出たのだった。今考えると、思わず睡くなるような暖かい日光に誘われて私達が庭に出てから啓子がメロンを持って現れる迄は、時間にして十五分位ではなかったろうか。」(『喪失』冒頭)、「ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず「ママ」が出てくるのだ。」(『赤頭巾ちゃん気をつけて』冒頭)

*3:宮台真司氏(『サブカルチャー解体神話』)によれば、1960年代以前の社会的連帯が主に経済格差に基づいていたとすれば、60年代以降のそれは世代によって規定される。そこでは大人社会が世界の中心となり、それに対して若者が世代間闘争を起こすという図式が成り立つ。当時の三島由紀夫が正しく見通していた通り、若者の連帯にとっては経済問題よりも文化、わけてもサブカルが鍵を握った。

*4:爪がめくれつつあるように、世界がめくれつつある。

*5:石川忠司氏は『現代小説のレッスン』で、「村上春樹から自己の肥大化=世界の内面化を受け継ぎ、阿部和重からペラい言語の夜郎自大性、およびペラさならではの痛快なドライブ感や饒舌な「勢い」を受け継いだ小説家が舞城王太郎である」(179頁)と指摘する。この発端に庄司薫氏の「饒舌体」を置くことは無理がないだろう。また、「自己の肥大化=世界の内面化」が目指されるブロークンな口語体・饒舌体は、橋本治町田康など散発的に登場して文学世界をにぎわしてきたが(それぞれの個性はまったく異なるにせよ)、石川氏の指摘通り舞城をはじめ佐藤友哉などライトノベルの周辺の作家においてこの傾向は一つの極限様式を生み出したといっていい。振り返れば、サリンジャーしかり、庄司薫村上春樹には、文体の採用において、既成の文学フォームに対する明確な抵抗の意志があったし、彼らの、一人称語りによる物語も主人公を取り巻く世界に対するなんらかの葛藤なり抵抗がこめられていた。村上春樹にはいくぶん諦念がかんじらるとしても。これに対して、ラノベ周辺の口語体は、良くも悪くも、しばしば自閉的脳内妄想が開陳され、それに対する開き直りが感じられる。デビュー作(『太陽の塔』)をサリンジャーライ麦畑』のパロディーから開始した森見登美彦の文体は、節度はあるものの、この近傍に属すだろう。以上の文脈は、野崎版サリンジャー=庄司以降の口語体・饒舌体のラインだけではなく、車谷長吉にまでおよぶ、日本古来(?)の私小説における自意識過剰な自己演出のラインも関わっているはずだ。ところで、河内弁・大阪弁を自在に(フィクティヴに)駆使する点で町田文体との類似がつとに指摘される川上未映子の『わたくし率イン歯ー、または世界』など諸作品の魅力は、諸方面から出されているが、ここで一つあげるなら、自己の肥大化によって内面化した世界の恣意的な捏造に親和性がある文体を駆使しながら、なおかつ、構成面で世界を構築しようとする意志に駆動されている点であろう。東浩紀(『ゲーム的リアリズムの誕生』)は、舞城=「フリーフォーム」と断定した石川を批判し、舞城には物語を複雑に構成する側面があるのだと指摘したが、舞城王太郎の魅力も、このあたりにあるのかもしれない。いわば作品世界を脱構築しながら、川上は叙述の構成面で、舞城は物語の構成面で再構築を試みていて、個性はそれぞれだが、自閉しきった内側から(作品世界の)矛盾・分裂を見つけ出し、というかある意味自分で作り出し、引き受けている二人の作家といえるのかもしれない。むろんそれは、あのとき薫君が向かい合った矛盾・分裂とは位相的にまったく異なる。とはいえ、一周まわって通じ合うようなところがあるだろう。その意味で、薫君の爪のめくれと痛みは、川上の奥歯の痛みと不在に置き換わる。(嘘)

*6:『さよなら怪傑黒頭巾』『白鳥の歌なんか聞えない』『ぼくの大好きな黒髭』の、「赤」「黒」「白」「青」の4部作。