感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

新聞切抜帖

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以下、読売新聞(2007年9月1日)から話題の記事、全文引用。
奈良県橿原市の妊娠中の女性(38)が相次いで病院に受け入れを断られ、死産した問題で、3度の受け入れ要請があった県立医大病院(橿原市)は31日、同病院のホームページ(HP)で消防とのやりとりなどの経緯や当直医の勤務状況などを公表、院長名で「誠に遺憾」とした上で、「当直医は過酷な勤務状況だった」とするコメントを掲載した。昨年8月、転院拒否のケースで死亡した同県三郷町の高崎実香さん(当時32歳)の遺族は「この1年、何も進んでいない。今後、どうするのかを真剣に考えてほしい」と訴えた。/HPには、当直日誌や当直医らから聞き取りした28日午後7時6分〜29日午前8時半の状況を分単位で記載。最初の受け入れ要請があった時、当直医が「お産の診察中で、後にしてほしい」と事務員に返答したことや、緊急入院の患者が相次いだ状況、当直医2人が一睡もせず引き続き業務に就いたことを説明している。/ 同病院によると、30、31日の2日間で、「どうして受け入れを断ったのか」など約50件の苦情が寄せられた。このため、病院管理課は「病院として見解を発表し、実態を分かってもらいたかった」としている。/実香さんの義父、憲治さん(53)は「こんな後ろ向きのことをして何になるのか。言い逃れでしかない。これでは実香が報われない」と話した。》

参考テキスト「「どこも満席」奈良の悲劇」http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20070901(「新小児科医のつぶやき」最近の医療問題を考える上で欠かせないサイト。)
要するに、この問題は、各種メディアが医療機関奈良県を批判して満足しているけれど、当の批判の的になっている奈良医大付属病院とか、奈良県とか、局所的に叩いても、効果は望めないということのようです。

僕はこれまで、大手スーパーを何社かアルバイトした経験がありまして。そのうちの一社は、人員削減による効率化を名目に正社員の割合を減らし、バイトの人員も極力とらない、という方針でやってましたけれども。ひどい話たとえばバイトが何人か減っても、それを補充する人員さえとってくれない時期が長期間にわたってあった。彼らの説明によると、これは支店の問題ではなく、赤字に苦しむ会社全体の方針だ、ということだった。それで僕の経験だけれども、そういう会社に限って、「優先事項は、お客様のために」ということを繰り返し社員に植え付ける。やれる環境を整えずに、理想論(というか端的に妄想)ばかり語りたがる。
でも、こういう会社はたいていだめ。与えられた労働量に対して人員が少ないと、まちがいなく職場環境がすさみ、働き手の関係もおうおうにしてゆがむ。それが結果して、売り場や顧客に対するサービスにも確実に反映されたものでした。
ちなみに、「与えられた労働量に対して人員が少ない」といま書いたけれど、これはギリギリセーフじゃだめ。つまり、最低1人(職場・店舗規模にもよるけど、だいたい5から7人のうち最低1人)が急な休みが入っても、他の社員でカバーできる状態でなければだめってこと。こんなことわざわざ注記するのもばかばかしいけど、この程度の職場環境を維持できてないところも普通にあるわけです。有給を含め休みがストレスなくとれないバイトを経験した方も、けっこういるんじゃないでしょうか。いつのまにか、残業が常態化してたりするしね。(正社員はそのぶん相対的に融通がきかないんだけど。とくに小売・飲食店関係は。でもいまやそういう職場はバイトが8割9割を占めるんで、まずはバイトの感情操作が重要だとは思います。正社員はそれなりに優遇されてますしね。えっ、そうでもないって?)
会社が赤字だからって、環境の余裕なりゆとりを削いでいく方向で効率化を図ろうとすると、まあまちがいなくしっぺ返しを食らうだろうなあと、このとき確実に僕は思ったものです。

最近の、「心の病」になった(らしい)朝青龍の話題とか見聞きしてると思うんだけれど、当の力士とか親方とか協会とかが賛否両論いわれてて、まあそりゃ各自にそれ相応の問題点はあるんだろうというのはわかるんですけどね。でも、そういう各論とは別に、なんかこの話題を取り上げているメディア全体の環境というか雰囲気が、なんとなく余裕ないなあ、息苦しいなあという気がしたりします。

合理化追求とか安全確保とか自己責任とか、ほとんど反論できない言葉が受け入れられることで、逆にそこから失われていくものがあるのではないか、ということだよね。むずかしい話だけれど。でも、誰かが朝っぱらから「ほっとけない!」とか連呼してて、いや、「ほっとけよ」とか思うときもある。

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毎日新聞からの全文引用。
精神科医香山リカ朝青龍騒動語るうちに…」2007年9月4日
朝青龍騒動に対する世間の関心はいまだに高いらしく、相撲界に詳しいわけでもない私のところにまで、雑誌や新聞から連日のようにコメント依頼がある。/「協会側の責任は」とか「親方の日ごろの指導は」などと発言しているうちに「精神科医であったはずの私はなぜ、毎日、相撲について語っているのだろう」と奇妙に感じられてきて、「これは夢か現実か」と疑わしくなってくる……。/こういった心理状態を、精神医学の世界では「離人症状」と呼ぶ。自分と世界とのあいだに膜があるように感じられたり、話している自分をもうひとりの自分がぼんやり見つめているような気になったりして、現実味というものが感じられなくなるのが、この離人症状の特徴。健康な人でも、ひどく疲れたときや二日酔いの朝には一過性で陥ることがあるが長く続くと「離人性障害」という診断名がついてしまう。/そして、この離人性障害は、朝青龍もそれだといわれる「解離性障害」の一種である。朝青龍解離性障害について語っているうちに、私自身が軽い解離性障害になってしまった、というのでは笑い話にもならない。/モンゴルで静養している朝青龍は、いったい今どんな気持ちなのだろう。おそらく、ついこのあいだ優勝して日本中からの喝采を浴びていた自分が、なぜモンゴルでひっそりと身を潜めているのか、と状況のあまりの激変ぶりに呆然としているのではないだろうか。/もし、日本にいたときの横綱が本当に解離性障害に陥っていたならば、環境が著しく変わってしまうのは、よい治療法とは言えないはずだ。とはいえ、日本にいたのでは落ち着いた環境でひと息つくこともできない。主治医としても苦渋の選択の結果が、帰国ということだったのではないか。/私は「朝青龍の騒動は、精神医療の次元で語るべき問題ではなかった」という立場だ。これまでは、そういった趣旨の発言をすると一般の人たちから「“心の病”に対して残酷なことを言うな」と抗議が殺到したのだが、今回は目立った批判はない。これは相手が日本の国技の横綱だからなのだろうか。それとも一般の人たちの中にも「なんでもかんでも“心の病”にしてしまうのは、やりすぎなのでは」という意識が芽生えてきた、ということなのだろうか。/何度も繰り返してきたが私は朝青龍ファンだ。だからこそ横綱には“心のケア”など早々に切り上げて元気よくモンゴルから戻り、潔く頭を下げて、また土俵に戻ってほしいと願っているのだ。》

最近の日本て(多分ここ10年くらい)、なんでもかんでも「心の病」にして納得してしまう趨勢があって、それに対して警鐘を鳴らす精神科医の発言は注目していいと思う。人間の言動ばかりか、社会の事象・事件に対してまでも平気で心理学や精神分析の言葉を使って理解してしまう僕たち。やれPTSDだ、やれトラウマだ、やれ癒しだ、やれ過去に遡れだ、やれ心を傷つけるな!だ、等々。
「心の病」はいまや切り札である。たとえば、中小企業で働いてるような人には信じられない話だろうけれど、大手の企業や公務員は(むろん全部とはいわないけれど)、「心の病」を口実にして比較的容易に長期休暇をとることが出来たりするし、企業側も口を出せない状況にある、という話をある医者(企業勤務)から聞いたことがある。しかしその一方で、本当に「心の病」から抜け出せずに苦しんでいる人も、実際に多くいる、ということも聞いた。

「心の病」はいろいろな種類があるけれど、たとえばここ数年話題のうつ病なんかは厄介で、その患者の環境が治癒の過程に大きく作用する。環境とは、家族とか職場とか医者とか、それに自分自身とか。つまり自分も分裂していて、「働かなきゃ」「働きたいのに…」、ってところのジレンマがあったりするんだよね。そこで余計こじらせたりする。家族や職場に理解がないともう最悪。精神疾患て具体的に患部があるわけじゃないから、とにかく休まなきゃいけないんだということが、周りにも、自分にも納得しがたいところがある。真面目な人ほど納得したがらない。
僕はひきこもりと拒食症で、うら若き(笑)20代を潰したが、家族が理解あったおかげで立ち直ることが出来ている。

僕も「朝青龍の騒動は、精神医療の次元で語るべき問題ではなかった」という立場に賛成だ。連日続く今回の報道を見ながら漠然と思ったことは、このおすもうさんはいろんな診断名を冠されたけれど、それらの診断名で実際に苦しんでいる人たちは、どうしたって目にしてしまうその報道――「心の病」はまあおいといて、とにかく出てきて話せ!――をどのように受け取っているのだろうか(たとえばうつ症状なんかは自責の強い人がなりやすいわけだよね)、ということだった。朝青龍当人が実際に「心の病」を患っているのか否か、とは別の次元で。

今回の一連の報道で感じたこと。それは、「心の病」が誰にでもわかるような形で流通している一方で(医学界内でしか理解されないよりも、それはそれでいいことだとは思う)、理解されているのはうわべだけ、印象だけじゃないか、ということだ。

べつに、メディアに携る人とか報道関係者は、「心の病」を患ってる人を傷つけるような発言は控えるべきだ、なんてことを言いたいのでは全然なくて。とにかく、当然のことながら重要なことは、いま朝青龍をめぐって語られている「心の病」はだれのものでもない、ということ。むろん彼のものでもない。彼の心は誰にだってわかりやしない。では、誰にもわからないはずの「心の内」「心の病」が各種メディアを通してじゃんじゃん飛び交うなかで、見えにくくなってしまっているものは何か?

朝青龍の一件の場合。規範に反することをしたなら、応分のペナルティーを課し、それを清算した後は「じゃあがんばってリスタートしてください」という、ただこれだけのシンプルな過程が辿れない僕たちの社会って、なんなんだろうなあと思う。
このとき、もし、「朝青龍がいけないんじゃん」「最初に手を出したんだぜ」「謝らないのはあいつだ」「被害者面するな」「あいつが俺たちの心を、社会を傷つけた!」というような言葉が――かりにそれが半ばは事実だとしても――先に浮かんだら、僕たちの負けなような気がするけどね。
むろん、一対一なり一対複数なり、誰かとのリアルな喧嘩だったら、どんどんそういうくだんない非難を浴びせかけて心理戦を掌握すべきなんだけど、メディア(あるいはシステム)に対する僕たちの喧嘩は、そうあってはならないはずだ。