感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

小田実追悼――原爆文学史試論

1945年の8月6日と9日に何がおこったのか知らない渋谷の学生たちへのインタビューからはじまるスティーヴン・オカザキドキュメンタリー映画ヒロシマナガサキ』は、原爆という出来事を、その基本の基本にたち返って検証しようというスタンスから作られた作品です。
当時の記録映像や存命被害者の証言、彼らの身体にいまだしも残る深い傷跡を90分見聞きすることは、圧倒的な事実を突きつけられているように感じました*1。いまだ原爆の負の側面を教育しないアメリカ、原爆の教育を怠りつつある日本には意義の多い作品であることは間違いありません*2
とはいえ、原爆教育の話をここでするつもりはありません。そういうことよりも、核というもの原爆というものは日本のアイデンティティーの重要な一部として、そろそろというか改めてというか何度も繰り返しというか、再認識した方がいいのではないかと思ったりします。たとえば、原爆をテーマにした小説は戦後連綿と書き継がれてきました。それだけで文学史が編めるテーマである以上、その文化におけるアイデンティティーとして認められないはずはありませんよね。
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ここで文学関連の原爆をテーマにした作品を挙げておきます。まず原爆体験者の文学的資料という点では、原民喜の『夏の花』(1948)や大田洋子の『屍の街』(1948)などは依然として意義深い仕事でしょう。8月6日と9日に何が起こったのかを銘記するために、私たちはこの作品に何度もたち返る必要があります。
井伏鱒二の『黒い雨』(1965)と大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』(1965)も貴重な資料ですよね。井伏本人は直接体験したわけではないので、ある罹災者の証言(重松静馬著『重松日記』)をもとにして彼なりに創作したものが本作です。だから、原爆という出来事に対しては間接的であらざるをえない。彼の原爆に対する倫理はおそらくこのようなものだったと思います。『黒い雨』が単なる原爆体験の物語ではなく、主人公・閑間(しずま)重松が日記を書きながらおのれの原爆体験を回想する、という設定のもとに物語をすすめているのは、この間接性を自覚しているがゆえでしょう(重松静馬を閑間重松に反転させるのも井伏らしいはぐらかしではないでしょうか)。
ここで井伏が重松の日記を通して明らかにしようとしたことは何でしょうか。それは、原爆投下後、爆心地(らしい方角)を目指しながら、いっこうに辿りつかずさ迷う彼らの行程でした。だから、あれほど長い叙述の中で、焼けただれ煤けて変わり果てた人々の描写は意外に少なく、あっても淡白なものです。
原爆をテーマにした作品といえば、何よりも、被害の凄惨な記述・描写に関心が注がれるものでしょう。原民喜や大田洋子はそうでした。しかし井伏作品においてむしろ目立つのは、どこにも辿りつかず、何も明らかにならないという、今風にいえば情報論的な問題のような気がします。
さ迷う主人公の周りには、変わり果てた風景よりも(もちろんこの部分の描写も重要なのでしょうけれども)、はっきりしない噂話や人づての伝聞、かろうじて記されたメッセージなどが取り囲んでおり、それらが物語の導線になっています。「みんな今日の爆撃のことについて話し、誰しも互に連関なく自分の見聞きしたことしか云わなかった。だから、みんなの話を綜合しても災害の全貌は知れないが、僕は記憶するままにその話をここに書きとめる」(『黒い雨』)。
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ここで大江健三郎について話します。大江氏は周知の通り、「核時代の想像力」というテーマのもと、原爆・核を素材にした創作やエッセイを、これまで多く世に送り出してきた作家です。『ヒロシマ・ノート』はその一つの結晶でしょう。
本作が発表された1960年前後はといいますと、1954年の第五福竜丸事件を受けて、国民的な規模で盛り上がりはじめた反核・反原爆の気運の渦中にありました。しかしその一方で、米英ソにくわえ中仏が立て続けに核所有を宣言し、これら核所有大国に翻弄されながら――62年にはキューバ危機もありましたが――日本の政党・政治家が政治的な駆け引きをくり返した時期でもあります。この時期、各政党・利益団体は、被害者をそっちのけに、反核・反原爆運動のヘゲモニー争いを演じたわけです。
『黒い雨』にもそのような状況に対する批判的な記述がありますが、『ヒロシマ・ノート』はその批判を基調としたドキュメントでした。そこで大江氏は彼独特の想像力とレトリックを使いながら、政治に奪われない形での個別の生と死を、被爆者・罹災者に見出しえないものかどうか、付与しえないものかどうかという思考を粘り強くしています。
その個別性追及は徹底したものです。というのも、たとえば「原爆死」や「原爆被害者」といった呼称も、個々人の個別性を損なう抽象的で政治的な見方として批判されるほかないからです*3。政治家の駆け引きでなくとも、原爆という括りでわかった気になることは、大江氏にとっては、原爆という出来事の核心からは程遠いアプローチの仕方でした。
いずれにせよ、原爆資料として見た場合、『黒い雨』も『ヒロシマ・ノート』も、原爆という出来事が以前にも増してリーズナブルに対象化されるようになりつつあった時代に対する、しかもそういう時代にふさわしい形での、それぞれの牽制球だったのではないかと僕は考えています。
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他方、核・原爆は、多種多様な形で物語の設定・素材・背景・ネタにされてきた、長い歴史があります(鉄腕アトムゴジラ以来?)。エンターテイメントとして消費されるものから、正面きって問題にされるものまで、原爆との距離のとり方は様々ありますが、注目すべきは1970年代後半くらいからの動向でしょう。
その頃から1980年代にかけて、ノストラダムス(!)に代表される世紀末的な観念がもてはやされるようになり、そのあおりを受けたのか、原爆・核は世紀末的なモードに物語を演出するために、物語の背景として採用されるのが目に付くようになります。たとえば『AKIRA』とか『北斗の拳』とか『風の谷のナウシカ』とか『幻魔大戦』とか、あるいは『エヴァンゲリオン』とかそういうのですね。
なんとなくイメージしてくれればいいし、ここではその程度の重要性しか原爆・核のイメージには役割を与えていないと考えていいと思います。第五福竜丸事件を受けて作られた『ゴジラ』が、今振り返れば、思いのほか原爆をめぐる社会派的な想像力によって支えられていたことを考えると、80年代の原爆はきわめて空疎なものでしょう。
ところで、僕の1980年代は小中高生として生活した時代です。誤解されたくはないのですが、当時の核・原爆をめぐるイメージは、子供ながらけっこう本気で恐れおののくものだったのと同時に、魅惑されるとまで言っていいものかは自信がないとはいえ、それに近い思いがあったと記憶します。だからこそ、物語のメインテーマでもなんでもないのに多くの作品がこぞって採用し、物語のリアリティーを保証するものとして機能したのではないでしょうか。
文学作品の中では、大江健三郎の「治療塔」シリーズ(『治療塔』1990『治療塔惑星』1991)が核・原爆を世紀末的な背景設定として採用していますよね。『ヒロシマ・ノート』の頃と比べると、反核としてはもちろん一貫している大江氏ですが、80年代的な「核時代の想像力」からどれくらい距離を取れていたかは、いささか疑問に思うところです*4
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そのようななかで注目したいのは、先ごろ惜しくも亡くなった小田実の『HIROSHIMA』(1981)でしょう。

Hiroshima (講談社文庫)

Hiroshima (講談社文庫)

『黒い雨』と『ヒロシマ・ノート』の時代から15年がたって発表されたこの作品は、よりいっそう原爆を対象化し相対化することができる時代に書かれたわけですが、そのある種時代的制約――出来事をめぐる記憶の相対化――に甘んじることなく、逆にそれを武器にして原爆を扱っています。それが小田実の徹底抗戦でした。
『HIROSHIMA』の叙述に見られる第一の特徴はといえば、複数の視点を錯綜させることでしょう。広島への原爆投下に至るまで、日本人やアメリカ人、それにネイティブアメリカン朝鮮人、はたまた日系アメリカ人といった、ときの戦時下にあって複数の利害がからむ人物が登場し関係するのですが、叙述はその時々に応じて焦点化人物を変えていきます。このように視点が入れ替わり、折り重なるなかで誰が被害者で誰が加害者かといった分節はほとんど機能しなくなる様――あるいは一人の人物のなかに複数の立場・視点が重なる様――を僕たちは目にすることになります。原爆という出来事を、冷ややかに対象化してとらえる視線をこの作品が武器にしているというのは、第一義的にこのような叙述において、にほかなりません。
かくして、アメリカと日本を楕円の二点のごとく主要な舞台にしながら、以上のように視点をぐるぐる回していく、ちょうどその臨界点で原爆投下(直後)のシーンに切り替わるんですね。つまり、加害/被害といった利害関係が錯綜し、もつれにもつれた叙述上の頂点に、原爆投下(直後)のシーンが配されているわけで、この構成はもちろん作家の明確な意図によるものでしょう。というのも、そこに描き出されるものは、被害者でも加害者でもなく、日本人とかアメリカ人とかいった指標さえ喪失しつつある、単なる何ものか、だからにほかなりません。
ここでは、凄惨な広島の描写は、何か積極的に名指すことのできない、単なる「もの」と化した人々が、粘っこく描き出されていくばかりなのです。「亡者は同じように燃えさかる火焔の対岸からだけ来ているのではなかった。その前方の亡者の列から思わず顔をそむけて後方をふり返った彼の両眼は彼の背後に切れ目なくつづく焼けただれた顔の、ずるむけにむけた皮膚の男とも女とも老人とも青年とも子供ともいや人間ともつかぬものの列を一瞬のうちに視界にとらえていた。いや、彼自身がまぎれもなくその亡者のひとりだった。そう思ったとたんに彼には亡者の列の一員となってよろめきながら歩く男とも女とも老人とも青年とも子供ともいや人間ともつかぬものに変り果てた自分の姿が明瞭に見えて来た。その自分がよろめきながら彼めがけて歩いて来るのだ。(亡者[ゴースト]が歩いて来る。)彼ははじめておびえた。おびえは自然にうめき声となって外に出た。」(『HIROSHIMA』)。
ここで注意したいことがあります。死人に口なしという感じで小田実には失礼な感想なのかもしれないのですが、ここで作家は、二度とあってはならない恐ろしいものを徹底して描写しながら、ほとんど享楽的といっていいほどその描写に我ながら魅惑されているようなのです。
「もの」と化した人々をまるでホラー映画に出てくるリビングデッドのように描写し、文字通り「亡者[ゴースト]」と形容しもするこの作家は、このときおそらく、「人間」の思考をみずから踏み外そうとしているのではないでしょうか。「人間」として原爆を批判しながら、「人間」を踏み外すこと。
そのような踏み外しは、原爆を落とす意思であり欲望――それは誰のものか?――だと、ひとまず言うことができると思います。しかし、小田実の踏み外しは、それと関わり(重なり)ながらも、まったく相反するものではないでしょうか。それを一言で言えば、原爆を落とされたものの側からにじみ出てくる意思であり、倫理です。少なくともそのようなものに対する期待が小田にはあります。
むろん、原爆を落とす側と落とされる側と*5にきっぱり分節することは、小田実の倫理に反するものです。ですから、そう易々と分けることはできないという認識を前提しつつも――どちらの側も、敵/味方というような分節をぐちゃぐちゃにすることに魅了されているという点では同じなのですから――、しかし、小田実の叙述は落とされる側からしか感じられないものを感じとろうとしていると、僕はそう思わずにいられないのです。
そして世紀末的な原爆のイメージに魅惑されることなど今の僕にとってはさすがに気が引けることですけれど、小田実の倫理はいまもって新しいとも思います*6
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『HIROSHIMA』のラストは、夢と現実を往復しながら――時制も第二次大戦からベトナム戦争まで自在に往復するのですが――、放射能によってダメージを食らった一つの(といってもところどころ断片化した)身体に、これまで登場した複数の人物が憑依し、次々と入れ替わり重なり合う叙述に移行していきます。瀕死寸前の身体のうえで、様々な分節や指標が入り乱れながら複数の意識が宿り、語らうのです。これは夢か現実か? もちろん小説です。
いったい彼はこの小説を通して何を感じようとしたのでしょうか。小田実がこの小説で駆使した「核時代の想像力」を僕たちなりに受け止めて、リサイクル可能なもの不能なものを、個別の文脈に応じて選り分けるのに魅了されてみるのも悪くないかもしれません。「アア、ソウダヨ、アンクル・チャック。ソレデ世界ノ順番ガ下カラ変ル。」(同上)*7

*1:この圧倒的に感じられた証言と映像の前では、原爆投下にかかわった元米軍兵士の証言はあまりにも貧弱に感じられ、仕方がないとはいえ、両者は均衡に欠けます。

*2:アメリカのケーブルテレビでも放映されているそうですね。

*3:むろん、原爆症として認定されなければならないという、生活上生存上の必要性はそれとは別の次元です。

*4:とはいえ重要な作品であることは間違いありません。とにかく今日論じたいのは小田実なので、ここでは評価は留保します。

*5:非常に微妙ですが、前者を、三島由紀夫の『美しい星』――地球外生物の立場から、地球人の核所有に至った狂気を批判する作品――にちなんで宇宙人的な「核時代の想像力」、後者をゴースト的な「核時代の想像力」と呼びたい気がします。ちなみに、この二分法は、「ユナイテッド93」を論じたときの理論的枠組みを意識したものです。http://d.hatena.ne.jp/sz9/20060821。「帝国」的な演出と「マルチチュード」的な演出の二分法、ですね。とはいえ、原爆被害と「9・11」テロの被害を混同するのを避けるために、両者は細部も文脈もまったく別のものであるということは付記しておきます。

*6:「希望は、戦争」という宣言ははたしてどちらでしょうか?

*7:どうでもいいことですが、古川日出男氏を読んでいると、ときおり小田実の文体を思い出したりします。あ、さらに、どうでもいい、というわけではないことですけれども、島田雅彦氏の新作『カオスの娘 シャーマン探偵ナルコ』を読んでいてこの作家の叙述はひそかに一葉−谷崎を導入しているんだなあと思わせてくれて満足しつつ、一瞬彼の嫌いな『海辺のカフカ』と思わせなくもない、とはいえもっと刺激に溢れた、読ませる物語を堪能しました。彼の「シャーマン探偵ナルコ」は是非シリーズ化し、初版文庫本で最低10巻は出してほしいです! ナルコ・サナダ・マリコ、みんなキャラ立ってるし。書名は「カオスの娘 シャーマン探偵ナルコ」というようなものではなく、「シャーマン探偵ナルコの憂鬱」とか「シャーマン探偵ナルコと賢者の石」とか、純文学の誇りを捨ててタイトルとサブタイトルを逆にする(逆にして角書きとタイトルにする)、ある意味勇気を必要としますが、目指すは大人のライトノベル!?