感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

モダニズム以降の表現の可能性

博士論文が審査を通過しました。タイトルは、『安吾戦争後史論 モダニズム以降の表現の可能性』です*1。興味のある方は、プロフィール欄のアドレスに連絡くだされば、データを送ります。
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ところで、僕が文学におけるモダニズムというときは、1920年代にマルクス主義横光利一らいわゆるモダニストが参戦した、形式主義文学論争が念頭にあります。
そこで論争の主軸になった横光が試みたことは、大きく二点あります。まずは、作家が文学形式(言語手段)を自明なものとして何かを表現する時代に別れを告げ、そのような自明性にいまだしがみついている既成の文壇を批判したことが第一点。表現なんてそれこそ読者の取りようによって異なった解釈をされてしまうのだから、自分の思う通りに表現するのではなく(表現形式を無視するのではなく)、表現形式に注目せよ、ということが第二点。
この認識のもとに、言葉を駆使した様々な形式的実験がなされるのです。それが具体的にどのように実現されたかは、たとえば、横光の初期短編時代の作品をはじめ、「機械」、そして「上海」に結実する当時の作品群を読めばいいし、横光と同僚だった川端康成の『浅草紅団』や「水晶幻想」などを読めばいいと思います。
とにかく、彼らがやったことは、作品の形式的側面を際立たせること、内容より形式を優先させることでした。だから物語を語ることは二の次、物語に感情移入させるなんて古臭くてダサい。むしろ、作家の表現したもの(物語)と読者との紐帯関係を積極的に切断すること――そもそも、自明に感じられてきた紐帯関係は虚構であり、亀裂が走っていることを示すこと――に重点がありました。
この傾向はもちろん、書き手も読者も教養のある者に限定されていた文学共同体が、大正期を通して浮上する大衆化の流れによって崩壊することと関連します。横光は言います。「同一物体である形式から発する内容と云ふものは、その同一物体を見る読者の数に従って、変化してゐる」(「文字について――形式とメカニズムについて――」1929年)。「作者はいかなる生活をしようとも、作品価値の決定の上には、何らの影響も与へない。影響を与へるものは、作品の外面形式であり、さうして、その外面形式の与へる幻想としての、内面形式の構成である」。
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僕が「モダニズム以降の表現の可能性」というときには、このようなモダニズムの経験が下地にあると考えてください。当時は、「文芸復興」と「日本回帰」「西洋近代の超克」が文化的な一大テーマになっている時期に当たります。文学史的にはとくに昭和8年が画期とされていますが(佐野・鍋山の転向声明、小林多喜二の獄中死など)、昭和10年・1935年に横光が「純粋小説論」を世に問うたことは銘記されるべきでしょう。
このエッセイには、主体を分裂に追い遣る自意識の問題、第四人称の問題などなど、いくつかの難問かつトリッキーな問題が説き起こされています。しかし、とりわけ僕が注目しているのは、純文学の衰弱という現状分析をした上で、エンターテイメントの手法に純文学復興(文芸復興)の可能性を見出している横光です。
じゃっかん僕の深読みが入りますが、ここで横光が指摘する純文学の衰弱とは、モダニズムがくり返した形式的実験が形式のための形式、芸術のための芸術という自家撞着に陥ったことの結果でした。じじつそのような批判が当時から、モダニズムに向けられています。モダニズムの当初は、読者――文学共同体とは無縁の大衆化した読者――の存在を意識したがゆえの、刺激的な形式的アプローチだったのに、いまや読者を無視した、形式のための形式的実験がなされている、と。
そのような文脈の中で横光が、ご都合主義的な設定(「偶然性」)の導入と物語への感情移入(「感傷性」)に、エンターテイメントの特性を見出し、それを純文学に取り込もうとした発想は、モダニズムからの(部分的な)転回とみることは、それほど難しいことではないと思います。
純文学の失調と文芸復興の気運は、マルクス主義陣営の弾圧や、自由な表現・出版が厳しくなるなど、外圧的な要因ももちろんあります。しかし、横光が示唆するような意味での、内在的な要因もあったわけですね。
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ここで注意したいのは、純文学か通俗小説(エンターテイメント)か、というロジックではなく、「純文学にして通俗小説」というロジックを横光が真正面から提唱したことでしょう。
川端は昭和8年に「末期の眼」というエッセイを発表しています。これは――表向きは洋画家・古賀春江の追悼文ですが――彼なりの文芸復興宣言の書に他なりません。川端はここで、古賀によるシュールレアリズムの絵を評価していますが、そのロジックはこうです。理知的にして感性的、日本的・東洋的にして西洋的、静的にして動的、等々というものです*2。相互に矛盾しかねない、複数の価値・意味を重ね合わせるロジック。これは一見奇妙なロジックですが、当時の流行だったと考えていいと思います。
たとえば、このようなロジックが前景化する文脈において、当時から今日に至るまで象徴的に取り沙汰されてきたのは、ナチスドイツから亡命がてら(昭和8年に日本インターナショナル建築会の招待により)来日した建築家ブルーノ・タウトでした。
彼は表現主義建築のオーガナイザーとしてキャリアをはじめながら、いわゆるモダニズム様式にも理解を示すアーティストでした。彼はそのような批評眼で、日本の伊勢神宮桂離宮をはじめ日本の伝統的な家屋を評価したのです。
むろん、タウトのようなモダニストの評価を皆が鵜呑みにしたわけではありません。とはいえ、この時期に、西洋の知性が苦労して実現したモダニズムの達成――ここにはモダニズムが試みた数々の形式的実験も含まれます――は、追いつき追い越すまでもなくわが日本ではすでに実現していた!――たとえば建築では、梁と柱だけの、構造が剥き出しのように見える木造家屋、絵画では、遠近法のない浮世絵・文人画、文学では俳句の精神など――というロジックは、かなり流通することになります。かくして、伝統的に日本の文化に培われ、私たちの感情に訴える様式が改めて見直されるわけです。
川端の「末期の眼」がまさにそうだし、横光も『旅愁』などでそのようなロジックを披露し、フォルマリストからナショナリストへの転向が目指されました。あげればキリがありませんが、谷崎の『陰影礼賛』他この時代の作品はそのような文脈で解釈されており、じじつ彼もこのロジックを踏襲しています。タウトの著作と同名のタイトルにした、安吾の「日本文化私観」はいうまでもありません。
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このようなロジックを、僕は多重視点とか多重フレームととりあえず読んでいるのですが、なにもこれは、ナショナリズムを肯定する政治的な言説としてのみ機能したものではありません。そこがモダニズム以降の表現の可能性として非常に面白いところなのです。
たとえば、民藝運動柳宗悦)の「用の美」という発想もこの多重フレームとして理解することができるでしょう。谷崎や時枝誠記の日本語論も、堀口捨己の茶の美学も「用の美」(経済性の美)が基調でしたね。用と美は、そもそも相反する価値観のはずなのですが。
ここでもう一度モダニズムについて検証しましょう。モダニズムの運動は、自分たちのジャンルにおける既成の美的観念・美的イメージを批判するべく、単なるジャンクでしかないようなものとして作品を作り上げたのでした。タイポグラフィーを駆使した萩原恭次郎らの詩作、新聞紙や鉄板・木屑や人毛などを使った村山知義らのコラージュ作品を見れば明らかだし、美術の制度性を問うたレディメイドという手法も実用品をあえて陳列したわけです。
文学に目を転じれば、川端の初期作品はどれも奇跡的に読みにくく、「水晶幻想」などは、テニヲハや接続詞――文章の通辞性を保障するもの――を省いた文章に、ほとんど単語を並べただけのジャンクな代物です(鏡台の前に座る婦人の心理は、おのれの内面に必然的なものとして宿るのではなく、光の加減によって移ろう鏡の上に外在化していました)。あれは川端の署名がなければ、誰もありがたがって読みはしないでしょう。合理性追求の視線から零れ落ちるジャンクなものにひたすら目を向けた今和次郎考現学をこれらの近傍にくわえてもいいかもしれません。
以上のように、いわば「美か用か」の論理でもって、美的なものを用(ジャンク)におとしめるということを、様々なジャンルでやっていたのがモダニズムの一側面でしょう。知的操作による形式的実験もこの過程の中で起こったわけで、だれもがこれまでにない、変わった形式を競い(「様々なる意匠」)、少しでも前衛的なメタレベルに立とうといろいろ試みていたわけです*3
本来は別々の文脈にあるべき記号、たとえば桜と死体を接合する梶井基次郎モンタージュ技法は、「檸檬」でも存分に発揮されるわけですが、あれは本屋の画集の上に載せたレモンを爆弾に見立てる、陰湿なテロルの想像力が注目を浴びてきたはずですが、しかし梶井の力点は恐らくそこにはありません。僕はこのように解釈しています。以前は、倦怠感に満ちた日常に対して、丸善で西洋の画集を開くことにリアリティーを感じられたのに、それもいまは飽きてしまった主人公が、新たにその画集の上へレモンを置くことにリアリティーを感じることを見出し、さらにそのレモンを爆弾にすりかえることにリアリティーを…等々と際限のないモンタージュによる現実の活性化に期待するほかないモダニズムの現在を、「檸檬」は体現しているのだと僕は考えているのです。
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こんなふうにAかBか、AよりもB、というロジックでやっていたのがモダニズムだとすれば、今度は、AもBも、AにしてBというロジックが現れることになりました。分析的なロジックから綜合的なロジックへの転回といってもいいかもしれません。したがってモダニズム以降の日本回帰のロジックは、西洋よりも日本、ではなくて、西洋にして日本、インターナショナルにしてローカルな文化、というものが注目されることになります*4
具体例を挙げます。鉄筋コンクリート造の西洋風建築物に和風の瓦屋根を載せる、いわゆる「帝冠様式」に日本的なものを見出す傾向が分析的なロジックだとすれば、日本の家屋をモダニズム様式と重ねて見るのは綜合的なロジックだということです。それが政治的に機能したり利用されたりするかどうかは、いまは問いません。
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横光の「純粋小説論」を、僕はこのような文脈において考えています。横光だけではありません。ときの文芸復興をこの文脈で考えたい。
文芸復興は、読者の知覚感覚を刺激すべく形式の知的操作に明け暮れたモダニズムを否定する意図があったのですが、それは単純な否定ではありませんでした*5モダニズムで明らかになった認識を踏まえたものです。踏まえた上での「復興」です。その「復興」とはすなわち「純文学にして通俗小説」、それを僕の理解で言い換えれば、知的操作を踏まえて感情移入をいかにもたらすか(物語の「復興」)、という問いに集約されるものなのですが、文学の中で試みられたのはおおむね三つのタイプがあったと考えています。つまり、モダニズム以降の表現の可能性の、三類型です。
一つ目は、リアリズムへの直接的な回帰です。リアリズムとはむろんモダニズムが否定した、表現に対する態度です。モダニズム以前に回帰したわけです。つまり煩わしい形式的手続きをショートカットし、自分の表現したいことを直接的に語るタイプ。
既成の「国語」との対決を云々し、モダニズムの前衛で活躍、「純粋小説論」でもあれほど複雑かつトリッキーな理論を構築した横光は、実作『旅愁』においてかなり単調な物語の叙法に落ち着きました。
ここで彼は古神道を軸にすえたナショナリズムを称揚します。この称揚のロジックは確かに、西洋より日本という前時代的なものではなく、西洋にして日本という、モダニズム以降のものではあります。しかし横光はこのとき、西洋にして日本――インターナショナルにしてローカル――の「日本っていいよね普遍的だよね」と言ってしまうわけです。
戦後横光はほとんど評価されなくなってしまいますが、『旅愁』に見られる直接的なロジックは、戦時下ゆえうわべでは評価されこそすれ、当時の読者の感情にも訴えるところはろくになかったと、僕は思っています*6。日本国民の戦意を上げるべく意図して描かれた戦争画には実はうんざりしていて、なんでもないような日本の風景画にほっとさせられたものだ、というような戦時期の感想を、誰だか忘れましたが、美術批評家の本で読んだことがありますけれども、『旅愁』も戦争画的なところがあります。
そこで二つ目のタイプなのですが、それがまさしく「なんでもないような」表現なのです。それを僕はイロニーの戦略と呼んでいます*7。代表者は川端です。彼の「末期の眼」で明らかですよね。彼は横光のように主観に還元した評価をいっさい下しません。西洋にして日本、でとどめます。そう、もうお分かりでしょう。イロニーの戦略は黙説法とも関連するロジックで、最終的な評価や解釈は受け手にゆだねる形で多重フレーム(を含んだ表現)を投げ出します*8
川端の実作『雪国』も似たようなものです。この作品はほとんど物語の筋らしい筋を持ちません*9。これはまあ、物語批判を徹底したモダニズムの功績だとはいえます。しかしだからといって、物語の展開を切断するというモダニズムの前衛的なメッセージも入っているわけではありません。物語を積極的に語らず、形式的な手続きも放棄すること。
それなのに(と言うべきでしょうか? それゆえに?)、このような作品が最初に本になったときは、モダニズムの頃に「三派鼎立」(小林秀雄「様々なる意匠」)として敵対しあった作家たちがこぞって賞賛しあうリーフレットが挟み込まれ、じじつ日本の風景の代名詞のように流通し、以降、川端は国民作家への道を歩みはじめます。
その理由を挙げることは簡単ではありません。僕なりに解釈すれば、やはりイロニーの戦略が有効だっただろうとは思われますが(いまや国民作家といってもよい村上春樹も黙説法を駆使する作家として批評されることがありますよね)、むろんそればかりではないでしょう。
この点に関わるかはわかりませんが、『雪国』を逐一読んでいくと、一つのイメージの連続に気づきます。白の面に赤が点描されるシーンがおりにふれ挟み込まれ、そのイメージがそのつど、現実と虚構の世界を行き来する物語の展開をそれとはなく規定しているように読めるのです。女の白い頬に赤が染まり、白縮を天干する雪の上に日が差し込み、天の川がさす雪景色に火事が起こり、等々。このイメージは僕の中ではあの日の丸と重なり、川端と同じくらい好きな藤島武二の「日の出」シリーズに重なります*10
藤島は明治の終わりから大正期をかけて多様な形式を描き分けた洋画家ですが、昭和のはじめに皇室から部屋の壁を飾る作品を依頼され、「日の出」のテーマに思い当たり、以来それをライフワークにします。この作品群を一言で言えば、形式も内容もない、に尽きます。つまり、大正期の彼の持ち味だった、際立った方法上のアプローチはいっさいなく、描かれたイメージ(日の出)も、日本の各地で描かれたわりには特徴がほとんどありません。どの作品も日の出と言えば日の出で、それ以上の固有性はない。作品を重ねるごとにそうなっていきます。茫洋とした風景の中に赤い点描。洋画の手法にして日本の風景。抽象的にして具象的な風景。
藤島は日本の各地で描いた、と先ほど言いました。じっさい彼は、かなり抽象的な作品に仕上がるというのに、老体に鞭打って被写体となる土地へ実地に出向きました。じじつ彼の口癖は「レアリスムにしてサンプリシテ」です。その手法を手にし、彼は日本の各地、そうして台湾、中国、モンゴルまで出向いて、同じ「日の出」というタイトルのもと似たような作品を生み出します。その一方で川端は、『雪国』を断片的に執筆している頃に、中国にまで出向き、戦局が怪しくなるまでとどまっていました。女と親しくなるべく越えていったあの「国境」はついついどこの国境なのだろうと勘繰ってしまうのはこのへんの事情を知っているからなのですが*11、どうやら僕はいつの間にか、川端と藤島をおそらく過剰な思い込みでもって政治的に裁断していました。しかし受け手を翻弄しながら過剰な読み込みを促すのは、アイロニカルに表現を組織する側にも原因があるとは思います。
ちなみに、物語にも形式的手続きにも愛想をつかした川端は、戦後になると、けっこうラノベ的というかエンターテイメントの設定を駆使した物語を作っているところが面白いんです。ある女から右腕を一夜借り受けて弄ぶ「片腕」とか、性的不能の老人が幼女を鑑賞するクラブに、性的不能と偽った男が潜入する話の『眠れる美女』なんてですね、自意識過剰な純文学ではもう生息できない島村のような人物が生き抜くにはふさわしい物語環境だとは言えそうです*12
最後は、三つ目のタイプです。安吾もここに部分的には位置づけられると考えていますが、とにかくこのタイプの要人は谷崎潤一郎です。彼らの方法を、僕はユーモアの戦略と呼んでいます。
イロニーの戦略もそうですが、彼らは、表現したい内容はそのまま伝わりっこないという、モダニズムで明らかになった認識を前提しています。これがリアリズム回帰のタイプと決定的に異なる点です。
表現したい物語内容はそのまま伝わらない。その認識を踏まえた上で物語を語り、あわよくば感情移入させるにはいかにするか、という問題意識はイロニーにもユーモアにも共通してあるものといえます。安吾の「無形の説話者」もそのような問いのもとに出てきているし、安吾の参照点だった横光の「第四人称」もこの問題意識に支えられたものだったわけですが*13、横光の実作は反動的なものになったことは、すでに指摘しました*14
谷崎は、安吾論の後に残された課題で、モダニズム以降の表現の可能性として最も重視したい作家です。とにかく彼が実作で試みたことは、複雑な形式的手続きを踏んで物語を導入する、ということです。いってみれば、谷崎こそ最も「純粋小説論」を正攻法で引き受けた作家じゃないか、という思いが僕にはあります。
1930年代以降の彼は物語にふんだんに多重フレームを仕掛けます。たとえば『細雪』を例にとります。あの物語は、表層的には、没落しつつある名家の美人四姉妹の話で、芦屋住まいで花見をしたり優雅なものですし、一般的なイメージはそこのところが主軸になりますが、別のフレームとして、きわめて不浄なプロットがちくいち挟み込まれています。物語冒頭からヴィタミン欠乏ゆえ「B足らん」なる注射を姉妹同士で打ちまくり、末女がフリーターもどきの男どもにだまされるかと思えば、三女はお見合いを何度もしてもうまくいかずに滞留する。一家そろって台風に続く洪水にしてやられ、そんななかで気力をなくしていく末女の妊娠と流産をへて、ラストは知る人ぞ知る、ようやく男と結ばれた三女の下痢でもって、結婚の不安(ただでは流れない)が暗示されて終わる、という不浄な面が多々あるフレームです。
さらに指摘すれば、彼らの周りには、ドイツ人一家やロシア人一家がとりまいていて、戦中戦後における谷崎の政治的なメッセージを読み込むこともでき、いわば政治的なフレームも重ねられています。視覚的な美的イメージのフレームと生理や身体に関わる不浄フレームと政治的なフレームという、都合三つのフレームによってこの大河ドラマは駆動しているのです。
細雪』はまた叙法にも特徴があります。ちょうど同じ時期に、谷崎訳を試みていた『源氏物語』の影響とよく言われますが、谷崎にとっては樋口一葉の叙法も無視できないものでしたでしょう。語り手を前景化しつつ、関係しあう作中人物のやり取りに応じて様々な視点に憑依する、という叙法です。この叙法のもとでは、意図的に長文にされたセンテンスの中で、視点が次々と移動し、重なり合い、変換されます。ただし、一葉の語り手よりも谷崎の語り手は、作中にべったりくっついているので、意外なほど語り手は意識されずに読めてしまいますよね。かなり複雑な人間関係のやり取り・時制の重なりも、読み手の時間軸の中で一気に読み畳んでいくことができるんです。
モダニズムの作家も当時、あえて語り手を前景化させたり(『浅草紅団』など)、句読点をはずした読みにくい長文にしたり(「機械」など)したものです。彼らは、効果としては物語(への没入)の切断のために、これらの方法を積極的に活用しましたが(たとえば横光の「機械」は、語る私と語られる私が等号で結べないこと、そういう哲学的・思弁的な理念を示すためにこの「新心理主義」とも言われる叙法が採用されたわけで、物語を語るために採用されたわけではありませんでした)、谷崎は同じような方法を使いながら、しかし効果は逆であり、別のところにあったのです。
これは『細雪』に限りませんが、同じ時期に書かれた物語『卍』『春琴抄』『蘆刈』『吉野葛』『盲目物語』などなどでは、意図的に句読点をはずし、漢字であるべき語を仮名に開いたりします(漢字=体言/仮名=用言・テニヲハという文節の相対化。言文一致形成の過程で確立された近代的なパンクチュエーションの相対化です)。他にも、語り手を分散・重層化したりします(『蘆刈』の、「である」体と「ですます」体の対立、および後者の前者への侵食劇など。そういえば『蘆刈』の舞台は後鳥羽院の跡地ですが、彼は乱を起こし流される人物でありながら新古今を編む輝かしい人物でもあって、谷崎はこういうダブルミーニング・マルチミーニングを体現するものが大好物なんだろうと心底思うわけです)。このように複数の人間に語らせたり、あるいは、複数のプレテキスト(偽本を含む)に積極的に語らせたりします。とりわけパロディは物語批判としてよく使われますが、谷崎の場合は、物語を円滑にするために活用されているといっていいでしょう。
以上の通り、谷崎は、形式的手続きを踏まえながら、それを物語を語ること、感情移入させることに仕向けているわけです。とはいえ、ここでは、形式が手段になっているというより、内容と両立していると見るべきでしょう。谷崎は安吾と同様、徹底した相対主義者です。つまり、手段(地)に見えたものが目的(図)にいつの間にか転換している、といった感じで、どちらか決定できないのです。しかし、それもモダニズムのような決定不能を弄ぶのではありません。地と図はとりあえず成立しているのですが、じっと読み込んでいると、不意に反転している印象を受ける、というようなやり口です。
たとえば堀口捨己の茶の美学も同じです(『草庭』1948参照)。彼の茶の見方は二点にまとめられます。一つは、多重フレーム。茶の言葉で言えば、「見立て」です。本来は水筒として使用されているものを花入として使用する、といったことが「見立て」ですよね。谷崎の『陰影礼賛』にも似たようなロジックが散見されますが、堀口の茶室の見方はこれと似ています。
たとえば、室に飾る絵は、西洋的にはそれだけで自立・完結した美をたたえたものですが、茶室に飾る絵は室に置かれた他の器物との相対によって評価されます。したがってここでは、絵が図として見られるときはその枠である額(表装)は地ですが、後者が図になれば前者が地になることが求められる。それは生けられた花との関係、床の間全体との関係にも指摘されます。ほかにたとえば、室から庭を望むときは室が地になりますけれども、その一方で、庭に咲いた花を全部切り取り、床の間に花を飾ったとたん、庭から茶室に入る人にとっては庭は地に転じる、といったふうなこと。一見当たり前のことですが、堀口はこのような役割(手段と目的)の転換に美を見出します。これは彼にとっては、実用と美の関係にも言えることでしょう。そもそも茶室とは、食事をするフレームと美を楽しむフレームと客間としてのフレームとを併せ持つ間取りだ、というわけです。用に従い、自由自在にこのフレームは変換し重なります。
もう一点は、可変性。茶の言葉で言えば、「取合わせ」でしょう。茶の世界では、茶碗や軸物や花入はデータベース化されていますが、それらを一回の茶会ごとに、取合わせのいいように組み替えるわけですね。茶室自体も、畳と板間と炉は組み替え可能ですし、そもそも日本の家屋は障子や襖という可変しやすい建具によって組み立てられたものです。このような可変性に日本的な美を見出し、あるいは軒下や縁側といった、内と外の境界が曖昧な空間に美を見出す視線。この視線もけっきょく、「見立て」とあわせて用の美学に貢献するものでしょう。
ついで、というのも失礼ですが、村野藤吾の建築も僕は気に入っていて、よく言われていることだと思いますが、たとえば日生劇場は(三信ビルは消えましたが、明治生命館とかDNタワー21が並んでいる通りぞい)、遠目からとらえたファサードモダニズム様式のように飾り気のないものですが、近付くにつれ激しい幾何学模様のアルミ板で敷き詰められた天井と大理石の床に囲まれてしだいに眩暈がしてきます。視覚的な効果・空間的造作としては合理性が保たれているけれど、エントランス・廊下・各部屋といった個別空間は、そこを使用する人間の、合理性には回収されない知覚感覚などを意識した造作になっているということでしょう。普通に村野が楽しんでるだけじゃん、という見方もできますが。
この前、村野のモダニズム建築として知られる近三ビルに行ってきたのですが(日本銀行日本橋三越、三井本店の近く。あのへんはホームレスが増えました)、以前に何度か見たときは確かにモダニズムだなと思っただけだったのに、今回は入り口の中をふとのぞいてみると、けっこうごちゃごちゃと仕込んであるようで、だからさらに奥に入りたかったのですが、怖いおじさんが監視していてけっきょく断念したものの、やっぱりモダニズムのロジックには回収されない過剰なものが村野を突き動かしていたんだなあと思うとうれしくなりました。有楽町の元そごうは、構造を残したままいまは電気屋ファサードになっていますが、そういうのは意外に村野的な再利用じゃないかと思っていてけっこう気に入っています。僕の望みは、一度でいいから、村野が作ったプリンスホテルに入ってみたいということですが、恐らく身分的に無理でしょう。
谷崎に戻ります。なぜ、僕は彼の表現をユーモアと呼ぶか。多重フレームの積極的な使用もけっきょくユーモアの効果をもたらすものと考えていますが、もう少しわかりやすい説明を『陰影礼賛』(昭和8年)でしてみます。とはいえこれを理解してもらうには、なにより『陰影礼賛』を一読してもらいたいのですが、谷崎もここで横光や川端と同じロジックを踏まえています。西洋にして日本、というやつですね。
で、谷崎のすごいところは、西洋にして日本を徹底して礼賛しまくります。過剰に礼賛するわけです。でも、効果としては、つまり読んでいる方では、逆にうそ臭く感じてならないんですね。たとえば、西洋的な美女に対して日本女性をほめるとき、彼はまず「人形の心棒を思い出す」といい、「闇の中に住む彼女たちに取っては、ほのじろい顔一つあれば、胴体は必要がなかった」のであり、この美は「明朗な近代女性の肉体美を謳歌する者」にはわかるまいといい、最終的には、「なるほど、あの均斉を欠いた平べったい胴体は、西洋婦人のそれに比べれば醜いだろう(←「おいおい」中沢ツッコミ)。しかしわれわれは見えないものを考えるには及ばぬ(←「見えないって…」)。見えないものは無いものであるとする(←「ないんかい!」)。強いてその醜さを見ようとする者は、茶室の床の間へ百燭光の電燈を向けるのと同じく、そこにある美を自ら追い遣ってしまうのである」とまでいってしまいます。
この引用の通り、はっきりいってツッコミどころ満載です。フェミニストも批判する気さえ萎えます。とにかく、ユーモアの戦略は、Aを言うことによって非Aの効果をもたらす(これも表現と効果の多重フレーム操作と考えることができます)、という点では、イロニーと同様、モダニズム以降の表現の可能性を引き出す戦略ですが、効果は真逆だということは、もうお分かりだと思います。
たとえばイロニーの戦略は、「たいしたことねえよ」って言うことによって、「なんかすげえ」と思わせることに賭けています(そのためには、しばしば、表現外の文脈操作をいくつかのレベルにわたって仕掛けているわけです。子供に「かわいいね」といいながら表情は怒っていることによって、子供をダブルバインドに陥らせるあれですね)。これは、表現主体の立場・価値観を崩壊させることなく、より強化する、という構造を持ちます。
他方、ユーモアの戦略は、表現主体の立場・価値観(それを共有する受け手の価値観)を自ら崩しにかかるものです。「俺ってすげえ」といいながら、周囲のツッコミを呼び込むんですね。既成の価値転換の可能性は、イロニーよりもユーモアにあるといえるかもしれません。
ちなみに、これは九鬼周造の『「いき」の構造』にも活用された戦略だと僕は考えています。あれは、日本民族特有の精神・気分として「いき」を上げ、他の精神・気分(やぼ、渋み、地味、上品、派手、下品など)や、諸外国文化に流通する精神・気分などと徹底した比較検討がなされるわけです。しかし、わざわざ図式にもしたりするうちに、「いき」は他の精神・気分との相対的な一要素にすぎない、という印象を与えてしまう。
彼らががんばればがんばるほど、「いき」ってその程度なの、「陰影」ってなにそれ、というツッコミをしたくなりますよ。このような戦略が、谷崎の実作にも、いろいろな形で反映されていると、僕は考えているのです。まあ『鍵』や『瘋癲老人日記』にいたるまで谷崎はこの手でいっかんしていますが、ユーモアはマゾ型、イロニーはサド型ということもできるような気がします。
とにもかくにも、モダニズム以降の表現の可能性として摘出できる、多重視点・多重フレームというようなロジックは今日の表現の可能性としても応用できると僕は考えていて、このブログの開設当初からの一テーマでもあるものです。

*1:以下、論文要旨を引用します。今回の本文とは直接関係がないので、博士論文に興味のある方のみ確認してください。「本論が試みるのは、戦後の坂口安吾を分析対象とし、そこから、戦後史をとらえることである。より具体的に言えば、安吾歴史観・歴史の見方を分析し、それを通して戦後史――とくに文学史と美術史――を記述する試みである。ただし戦後史と一口で言っても、その時代は限られている。戦争終結の1945年から安吾が他界する55年までである。/安吾には歴史を材にした作品が多くある。それは、明治開化ものやキリシタンもの、戦国史や古代史など様々な時代から材を渉猟したものであり、さらには、本格的な歴史の考察にとどまらず、小説やエッセイなど複数のジャンルにわたって歴史を材にした作品が書かれている。安吾はこの通り、歴史に対して多様なアプローチで挑んだわけだが、実はそれらに一貫して通底する歴史観がある。本論はまずそれを、安吾の歴史に関わる「原則」として摘出する(第1章)。/そしてこの「原則」を軸にして、(55年までの)戦後史の一端を読み解くことになる。ただし安吾だけが中心となるわけではない。戦後文学史の粗描を試みる本論の前半(第1章から第3章)においては、安吾(の「原則」)とともにカギを握る人物として竹内好が招聘される。/竹内は1951年に国民文学論を提唱し、文壇に論争を喚起した。当時の文壇の大勢は戦争の記憶を忘れたがっていたのだが、彼はその記憶を呼び覚ますことの必要性を訴えたのだった。侵略戦争と敗戦の記憶をリセットし、戦後を新しくやり直すことは、理解できないことはないが、実はその顔を背けたくなる部分にこそ、戦後をやり直す(戦争を反省する)可能性が蔵されているのだ、という確信が竹内にはあったのである。/そしてこの確信は安吾にもあった。彼の「原則」もまた、戦前・戦中を連続的にとらえる視線において確立されたものである。しかも彼の以上のような原則的なものの見方は、歴史記述にとどまらず、安吾が携わった様々なジャンルの作品にも適用されうるものであり、もっといえば、彼が作家のキャリアを開始した当初から彼の活動を陰に陽に駆動するものであったということを、本論は明らかにするものだ。/本論のタイトルが、通常呼びならわされている「戦後」ではなく「戦争後」となっているのは、何よりこのことにちなんだものであった。つまり、戦後と呼ばれる期間があるとすれば、それは戦争との断絶以上に、地続きのものだ――何も解決されてはいない…――ということを示す意図があってのことである。戦後日本の生い立ちを知ることは、いったん戦前・戦中からの視野も収めねばならないということ。サブタイトルの「モダニズム以降の表現の可能性」という問題も、戦前と戦後の連続性を示す重要な視角である。/安吾が作家をはじめた当時の一九三〇年代は、ちょうどモダニズムが導入・受容された時期に当たっている。モダニズムとは、表現したいものを正確に写し取ることが目指されるリアリズム志向(文学は、作家の内面であれ外の自然であれ描写対象を、言葉を手段にして写し取るべきであり、それが正確なほど美しいとされる)の既成文壇に反旗を翻し、表現手段そのものに自律した機能を見出し、美的価値を付与する運動であった。/安吾はそのようなモダニズムの価値観を積極的に受け入れながら、そこに限界をも見出していた。この姿勢が安吾に原則的なものの見方を内蔵させたのだ、というのが本論の安吾理解の前提である。/モダニズムは、既成の価値観や制度に対する反抗勢力としてのポジショニングをみずから行っていたわけだが、その彼らの価値観が自明なものになると、いつのまにか体制順応的になってしまう。かかる限界を、安吾は確かにとらえていた。/モダニズムが行った、表現したいものと表現手段の切断。それは、表現したいものなど何もないし、表現したとしても何も伝わらないという「諦観主義」を生み出し、表現手段を万能化して表現したいものを恣意的に捏造・改竄することに開き直る「修正主義」「決断主義」を生み出すことになる。そして「諦観主義」も「修正主義」もけっきょく、先の戦局下にある状況に、なんら有効な言葉を組織することはできなかった。/安吾は、モダニズム以降の、これらの傾向に対して、「カラクリ」と「シンプル」と「必要」という三原則で挑んだのである(第1章のテーマ)。「カラクリ」と「シンプル」はモダニズムのリアリズム批判の成果から練り上げたものであるが、その上さらに編み出された「必要」は、安吾のキャリアを一貫して登場するキー概念であることは彼の読者には周知の事実であり、これこそ安吾による、モダニズム以降の表現の可能性を問う概念かつ原則の一つであったのだ。/ただし安吾の「原則」は、「諦観主義」や「修正主義」的なものを否定したのではない。たとえば、伝統的な古寺であれ不必要になったら燃えてしまってもかまわないと言う安吾は、歴史の流れに諦めているようにも見えるし、開き直っているようにも見える。それらは否定したくても否定できない、モダニズム以降の前提であり、そこに限界と可能性を同時に読み込んだ安吾を、本論はおりにふれ確認することになるだろう。/安吾は、必要とされたものにこそ美が宿るというようなことをたびたび述べた。必要美とも称されるこのような美学は、モダニズムの文脈で解釈されがちだが、そう単純に解釈してはならないのである(とくに第1章と第5章)。/竹内の「国民文学論」も、モダニズム以降の表現の可能性の一つとして、戦前戦中戦後を貫く視角にほかならない。彼の場合の、モダニズム以降とは日本ロマン派であったわけだが、彼もまたそこから限界と可能性をあわせ見ようとしていた。その有様を、安吾の「原則」分析の後、第2章で明らかにする。/そしてこの安吾と竹内の視角から相対的にとらえられた、戦後文壇の限界が確認される。たとえばそれは、竹内によって批判される、「政治と文学」論争など戦後のいくつかの文学論争に関わった「近代文学」グループと共産党の意向下にある人々、両者の限界だ。とはいえ、彼らのなかにもまた別の角度から照射すれば何らかの可能性があることを、本論は否定するものではない。/第3章は、安吾の「原則」が安吾の作品のなかにどのような形で具体的に機能しているかを確認する。とりわけその鮮やかな実践例は、安吾の探偵ものの一つ、『不連続殺人事件』の分析にくわえ、ほかに、歴史ものの、なかでもとくに「飛騨・高山の抹殺」の分析において明らかにしようと思う。これまでしばしば注目されてきた、安吾の信長像と武蔵像も、新たな角度から照射し直してみたい。/第4章の背景は、それまでとは一変し、美術史となる(ただし第4章の問題構成は第3章の後半から第5章の前半まで及ぶだろう)。ここでカギを握るのは、安吾とともに小林秀雄花田清輝である。彼らの価値観・美学的態度を、論争的に交差させながら、当時の美術史の一端が粗描されるだろう。/画壇にもリアリズム論争など、当時の文学論争と構造的に同質な論争があったが、それは小林と花田の美学によって相対化されることが、本論で明らかになる。そして第5章の前半で明らかにする安吾の美学が、小林・花田と通底するものであることが確認される。安吾は必要美、小林は古典美、花田は前衛美と、三者三様の美学を展開し、ときおり牽制しあった三人なのだが、美に対する問いの立て方は非常に類似しているのである。/これもまた、モダニズム以降の問題と関連していることだ。それは安吾のタウト受容をめぐっても確認されることであり、その結実である「日本文化私観」はおりにふれ分析対象にし、とりわけ第1章と第5章で徹底的に分析した。/本論の構成は、安吾の歴史記述の原則を主軸にした文学史と、小林の美学を主軸にした美術史によって前半と後半を配分する形にしている。それにはわけがある。それは、一見相容れないように見える、歴史記述の問題と美学の問題がいくつかの様相において関連するものだからであり、第4章と第5章を通じて問われたテーマの一つであった。/最後の第6章に、本論は安吾の小説分析のための場所を割いた。これまで説明したことが安吾の小説にも適用されうるものだからである。ただし、安吾のエッセイなど他のジャンルと同じように適用されたわけではない。小説というジャンルに特有のロジックによって安吾の「原則」が起動している様を、ときに一読者としての過剰な読み込みをあえて避けずに明らかにしたつもりである。/安吾は戦後まもない時期に、戦争を背景にした小説作品を連作しているが、このように戦争にこだわった安吾の小説を「戦争小説」と名付け、安吾小説の新たな読み方を提供した。本論において、安吾の先行研究よりも特筆すべき点があるとすれば、安吾の小説分析が他のジャンルに比べて少ないなかで試みたこの第6章だという自負がある。/もう一点挙げるとすれば、安吾研究に一画期を投じた柄谷行人の、超越論的なものの見方(「文学のふるさと」など)によって安吾を一貫させる視角が、柄谷以降の様々な研究によって相対化されるなかにあって、その相対化の作業にくわわりながら、さらに別口の安吾の一貫する方法論(「原則」)を取り出したことではないかと考える。」

*2:「私がシユウル・リアリズムの絵画を解するはずはないが、古賀氏のそのイズムの絵に古さがありとすれば、それは東方の古風な詩情の病ひのせゐであらうかと思はれる。理知の鏡の表を、遥かなるあこがれの霞が流れる。理知の構成とか、理知の論理や哲学なんてものは、画面から素人はなかなか読みにくいが、古賀氏の絵に向ふと、私はまづなにかしら遠いあこがれと、ほのぼのとむなしい拡がりを感じるのである。虚無を超えた肯定である。(中略)「サアカスの景」の虎は、猫のやうに見えるけれども、そして画材となつたハアゲンベツクのサアカスでは、実際あんな風におとなしく見えたさうであるけれども、そんな虎が反つて心をとらへたのには、虎の群の数学的構成にもよらうが、作者自らあの絵について、なんとなくしいんと静かでぼんやりした気分を描かうとしたと、語つてゐるではないか。古賀氏は西欧近代の文化の精神をも、大いに制作に取り入れようとはしたものの、仏法のおさな歌はいつも心の底を流れてゐたのである。朗らかに美しい童話じみた水彩画にも、温かに寂しさのある所以であらう。その古いをさな歌は、私の心にも通ふ。けだし二人は親しげな顔の裏の古い歌で、親しんだのであつたかもしれぬ。だから私には、ポオレ・クレエの影響がある年月の絵が最も早分りする。古賀氏の絵を長い間近しく見て来た高田力蔵氏が、遺作水彩画展覧会場で話したところによると、古賀氏は西欧風の色彩から出発し、オリエンタルな色彩に移り、それから再び西欧風の色彩に戻り、今また「サアカスの景」などのやうに、オリエンタルな色彩に復らうとしてゐたさうである。(中略)例へば最後の「サアカスの景」など、下塗りする体力がもう失はれ、手に絵具を掴むかどうかして、体をぶつつけるかのやうに、画布と格闘するかのやうに、掌で狂暴に塗りなぐつて、麒麟の脚を一本書き落しても、気がつかずに平然たるものだつたさうである。さうして出来上つた絵が、どうしてあんなにしいんと静かなのか」(「末期の眼」)。古賀春江「サーカスの景」1933http://www.moma.pref.kanagawa.jp/muse/servlet/MediaServlet?db=med&rul=MD&id=00011028&thumbnail=0、「海」1929http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=4596&edaban=1

*3:「此の間に、物の見方にまた自ら変化があった。最初は幻想的に物を眺めたかった。それが普通一般的な平凡な見方をしたいと心掛けた。それがだんだんいやになり、物を個性的に、自己本位に眺めようと企てた。しかし、それもいやになると、感覚的に見てみようと願ひ出した。所が、途中で、構成的に見る癖がつき始めた。それが、また、此の頃はだんだんいやになって来た。/私は一番最初は詩を書いた。次には戯曲を書いた。次には象徴的な小説を書き出した。次には、小説を純正な写生で押してみた。その次には写実的に高める工夫をやってみた。それから再び象徴へ舞ひ戻った。此の頃が私の新感覚派時代である。その次には再び写実へ戻って来た。私はここで暫く落ちつきたいと思ってゐる。」(横光「先づ長さを」昭和4年)。「未来派、立体派、表現派、ダダイズム、象徴派、構成派、如実派のある一部、これらは総じて自分は新感覚派に属するものとして認めてゐる。」(「感覚活動」大正14年

*4:岡崎乾二郎氏によれば、この頃は洋画が日本画のように見えるようになり、日本画もまた洋画のように見えるようになった時代だといいます。明治近代化以来のいわゆる「ローカルカラー」問題――その象徴的なイベントが、山脇信徳「停車場の朝」をめぐる論争と、それを受けて発表された高村光太郎の「緑色の太陽」発言、であるわけですが――が解消し、ジャンルの垣根――洋画は日本の固有な風土を描けないし、日本画は伝統に縛られて現代の自由な風土を描けない――を相対化し、それらを綜合した国民画家が誕生する時代です。また花田清輝によれば、この頃登場するシュールレアリスムは、モダニズムの抽象化の傾向に対していかに具象性を取り戻すか、という試みでもあったと考えるなら、シュールレアリスムのような絵画様式を要請する時代は、抽象か具象かではなく、抽象にして具象という様式が普及する時代でもあるはずです。川端の古賀評価――理知的幾何学的にして感傷的――はまさにこの時代の雰囲気を言い当てていたと考えられるでしょう。

*5:たとえば萩原朔太郎は、『氷島』(1934)の「自序」でこう書いています。「近代の抒情詩、概ね皆感覚に偏重し、イマヂズムに走り、或は理智の意匠的構成に耽つて、詩的情熱の単一な原質的表現を忘れて居る。(中略)かうした理屈はとにかく、この詩集に納めた少数の詩は、すくなくとも著者にとつては、純粋にパツシヨネートな詠嘆詩であり、詩的情熱の最も純一の興奮だけを、素朴直裁に表出した。換言すれば著者は、すべての芸術的意図と芸術的野心を廃棄し、単に「心のまま」に、自然の感動に任せて書いたのである」。口語自由詩の確立に貢献し、さらに日本語文法をデフォルメした実験詩を多く世に問うた詩人の、昭和9年におけるこの詩集は文語風の文体に回帰しています。朔太郎は昭和12年に「日本への回帰」というエッセイも発表していますが、ただし彼の伝統回帰の仕方も当時の他の作家・文化人と同様、単純な評価(ナショナリズムへの退行)を受け付けません。非常に複雑微妙です。

*6:そういえば、僕の修士論文の最後は、モダニズムの末路を論じる段で『雪国』とこの『旅愁』に当てられているのですが、修士論文の仕上げの最中に父が死んでしまい、彼の蔵書を調査中にかなり古い版の『旅愁』を発見したのでした。源氏鶏太山岡荘八の本にまぎれて。横光を父はどのように読んだのかを聞き忘れたことが今でも後悔していることです。

*7:その名の由来は「2007年2月13日」の日記http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070213を参照してください。

*8:ただしそれは、最終的には「日本がいい」という文脈を当てにしていた場合、たぶんに政治的に機能します。川端本人がどういう意図であったかは文章だけでは読み取れませんが、『雪国』を書いた作家は戦後、世界的な国民作家となりました。少なくとも川端の文章を読むことは、横光のような押し付けがましい説教をされずに(『旅愁』の主人公はクリスチャンに古神道への改宗を迫る)、受け手が主体的に解釈をくわえているような気にはさせられるかもしれませんが、結果的に、川端が表現せずして仕込んだ意図を汲み取ってあげているだけかもしれません。イロニーとはそういうものです。自己主張せずに、自己を通す戦略。

*9:島村という男が「国境」を越えて女に会いにいくというだけの話。しかもこの作品は、いま読める形態になったのは戦後になってからのことで、1935年執筆開始以来10年以上にわたって断片的に発表されたものです(書き換えも含め12回くらい)。ですから、もともと薄い本ですが、さらにこれら断片ごとに読んでみると、絶望的に内容なんてないのです。

*10:たとえば「港の朝陽」1935http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=4579&edaban=1、「蒙古の日の出」1937http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/bumon/art/youga_cyoukoku/index/kgs07_s1_2.html等々

*11:あるいは「観画」http://www.c.do-up.com/home/saitom39/Tenrankai/Maeda/maeda.html前田青邨)の視線の向こう側にあるものは?

*12:以下は、2007年8月4日注記。『雪国』は、異世界を旅する話できわめて物語的ではないか、という指摘をいただきました。ありがとうございます。確かにその通りで、川端本人も現実と虚構の往還をイメージしているようです。ただ、この作品を異世界交流譚としてみた場合、よりいっそう物語の不在を思わずにはいられない構成になっています。というのもこの話は、「国境」のこちら側が一切描かれていないからです。つまり、現実が不在で、虚構だらけという構成なのですね。この構成は、モダニズム以降の認識――現実か虚構かではなく、認識できる範囲はとりあえず全てを虚構としてとらえる――を踏まえているものと思われます。ともあれ、異世界交流譚は、こちら側と向こう側の境界・ギャップを通して物語が成立するものですが、『雪国』はそれをはずしています。したがって、このようなたぐいの物語には欠かせないプロット、つまり「異世界に旅をする主人公はその経験を通じて変化する」ということも、島村には一切おとずれませんよね。ある意味、恐るべき構成です。

*13:「第四人称」―「無形の説話者」については、「2006年12月8日」の日記http://d.hatena.ne.jp/sz9/20061208を参照してください。

*14:修士論文では、それでもなお横光に可能性を見るというものだったのですが、ここではこれ以上立ち入りません。横光利一の『旅愁』と、この作品に至るまでの横光の各仕事については、青木純一氏の「ハトポッポ批評通信」の横光論シリーズがとても参考になります(以下のリンク先はシリーズの中の『旅愁』論→http://blog.mag2.com/m/log/0000206311/108712242.html)。青木氏の時事ネタコラムと、現在進行中の三島由紀夫論も要チェック。