感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

近代文学が終わるとしたら

前回の日記で*1ライトノベルは何よりも物語設定とキャラ設定(のデータベース)が消費対象だと言った。それでは、純文学に、我々は何を求めているか。
その問いに関しては、各時代ごとにもっともらしい解が用意されてはいるだろう。現実の最新風俗を読みたい(自然主義的リアリズム的な消費)とか、「私は何ものか」という命題の真相を知りたい(自我の葛藤云々)とかいった解も、その意味で半ば正しい。しかしけっきょくのところ、否定的にしか語れるものではない。
それはおそらく、哲学的・心理学的に、人間(近代人?)の欲望にまつわる根本的な欠如、いわば象徴的な欠如と言い換えてもよさそうなものだ。このジャンルは、そういう意味での「ゼロジャンル」だと言える。
現実を描き出さなくなったから*2とか、内面を掘り下げる描写がいちいちかったるくなったから*3とかいった理由で、純文学が護持してきた近代文学は終わる(終わった?)のだろうか。多分、そうではない。
物語設定なりキャラ設定なりなんなり、胸を張って積極的な消費対象が見出されたとき、近代文学は終わる、と言うのは癪だから、別のフェーズに入る。あるいは、「すべてがライトになる」*4

*1:この小文は、前回の註9に収まるべきものである。

*2:たとえば、東浩紀は純文学/近代文学の特性として、現実描写を至上命題とする「自然主義的リアリズム」をあげている。

*3:近代文学の「終わり」を、内面描写の消失に見る論者は、柄谷行人をはじめ数多くいる。

*4:http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070223