感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

純文学におけるエンターテイメントの影響を概説して、東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』を論じる

承前*1
リアルな世界よりもフィクションの世界の方にある種のリアリティーを見出すというか、創作上の可能性を見出した純文学最初の世代が、新感覚派以降、横光利一とかあのあたりだったというのは文学史的に妥当な線だろう。当時は、とりわけ相対性理論などの科学的言説が作家のテキストにしばしば登場したり、創作に影響を与えたりしたわけだが(川端のようにオカルトに流れる作家もちらほら)、そののちにも、たとえば60年代の日本SFの勃興期に、三島由紀夫安部公房なんかがSFの虚構を前提にした世界観に純文学の可能性を見出している。
横光は「機械」で、一人称視点を通して主観(に支えられた文学形式)というものがいかにあやふやでフィクショナルなものかを追求したし、三島は『美しい星』で、「UFOを見た私は宇宙人だ!」というSF的誇大妄想の狂言がひたすら肯定される(つまり、絶対にツッコミを入れない)叙述を通して、常識が通る(と信じられている)世界がいかに根拠のないものかを明らかにしたのだった*2
そんな風に既存の純文学の「構造改革」をやらかした上で、たとえば横光の世代は、エンターテイメント系文学も視野に入れつつ、時の文芸復興の只中で「第4人称」とか「無形の説話者」(坂口安吾)とかいう新奇な概念を提示しながら、読者を取り込んだ上での物語(の叙述上)の再構築を目指したわけだし*3、三島はといえば、「輪廻転生」という宗教的な主題で豊饒の海4部作を書くに至る。そんな三島が自死した後は、「薫君」(庄司薫)や「桃尻娘」(橋本治)がキャラの魅力(「桃尻語」とか)に牽引されてシリーズ化されもした。
では、そのような創作上の実験が、思惑通り読者の感情移入なり共感を呼び込んだかというと、当時のエンターテイメント系文学に比して横光も安吾も成功したとはいえないし(自ら失敗を認めてさえいる)、同時期に、やはり国民文学的な共感の装置として叙述の実験をくり返していた谷崎潤一郎川端康成はかなりの程度の成功をおさめた例といえるが、彼らのナショナルな人気がその叙述的側面に起因しているかというと、むしろそのような指摘はほとんどなされてこなかったといっていい。古典的な日本美とか官能性云々といったセクシャルな表象にもっぱら注目が集められてきたはずである。
三島はといえば、『美しい星』の場合、純文学は現実を描くものだという(「自然主義リアリズム」的な)常識を利用したからこそ、作中人物たちがこぞって「私は宇宙人であることに目覚めた!」という主張が単なる狂言なのかそうでないのか決定不能のスタンスを貫けたわけで、かりにこのような試みがSFの文脈で書かれていたら(たとえば自分が宇宙人だと目覚める人の手記、あるいはカフカの『変身』のような叙述を想起せよ)、普通に宇宙人ネタとか不条理ネタとして消費されるにすぎない恐れがあるだろう。
ここで三島は、エンターテイメントと純文学の、ジャンルの価値基準のギャップを自覚していたからこそ、一方(SF)では当たり前の価値を、もう一方(純文学)に輸入することで崇高な価値(価値の決定不能性という文学的なモチーフ)に変換することを可能にした、稀代のエンターテイナーだといえる。しかし、日本浪漫派譲りの三島特有のアイロニカルな「世の中は決定不能であり、虚構にすぎない」という哲学的モチーフは、ここでは純文学というジャンルに守られた程度のものに過ぎないとも言えるだろう*4
豊饒の海シリーズにおける、オリジナルなき「輪廻転生」(シミュラークル)のような発想も、当時のSF小説、たとえば『脱走と追跡のサンバ』(筒井康隆)を傍らに置けば、SFの実に初歩的なプロットとしてあっという間に消費される程度のものにすぎなかったりするわけだ。
以上、失敗成功は一概に言えないにせよ、今日まで純文学は、相対的で融通無碍なフィクション操作に親和性の高い、科学・非科学的言説やエンターテイメント系文学に影響を受けてきたことは、文学史上一目瞭然であるということを確認した。
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エンターテイメント系文学のなかでいま最もホットなジャンルの一つといえば、おそらくライトノベルだろう。マーケットの規模・セールス的にラノベを上回るジャンルはあるとしても、ジャンルの定義論争をふくめてラノベに向けられた関心は、否定的にせよ肯定的にせよ、どのジャンルにも劣るものではない。
ところで、ライトノベルを読むときに読者として期待するところは何か。それは、なにより新奇な物語設定であり、魅力的なキャラクター設定であろうことは、多くの人が同意できるものだと思う。作り手もそれを予期して、いろんなジャンルから(新城カズマのいわゆる「ゼロジャンル」)それら各種設定をリサーチ・アンド・ピックアップし(東浩紀のいわゆる「データベース消費」)、自分なりに組み合わせてみたり、新たな要素を加えてみたりして作品を完成させる。
とにかく重要なのは、物語設定の奇抜さとキャラ設定の魅力にほぼ集約されるといっていい(むろんその見せ方・演出法なども軽んじられるべきではないが、それはべつにどのジャンルにもいえることだ)。
たとえば、現在ライトノベルに関する文芸批評の筆頭にいる批評家・東浩紀が、彼の批評のキーワードである「ゲーム的リアリズム」とか「読者=プレイヤーの視点をおり込んだメタフィクション」として取り上げる作品も、奇抜な物語設定で注目されるものばかりであり、東氏の作品読解もまたそのような物語設定に沿いながら進められる。そしてそのほとんどがタイムリープ叙述トリック(的設定)であることは注意していいだろう*5
それはまあ頷ける話ではある。というのは、東氏は、読者の感情移入を前提したり、読者の視点を内在化させた物語に創作上の可能性を見出しているようだが、SFにおけるタイムリープタイムパラドックスという設定も、ミステリーやサスペンスにおける叙述トリック的設定も、読者や観者(=プレイヤーの関与性)を作品の構成上最も意識しなければならない物語設定だからである。
叙述トリックタイムパラドックスもエンターテイメントの各ジャンルにおいてそれ相応の歴史をもった物語設定だが、読者の関心に注意を払わなければ成立しないものであり、半ば必然的にメタフィクション化の志向性(純文学のメタフィクション化にありがちな実験的なものではなくあくまでもエンターテイメントに奉仕する形での)を内在化させている。
物語のメタフィクション化。それは物語の展開のなかで最も際立つ部分であることはいうまでもなく、だから比較的メタフィクション化しやすい部分は読者が注目するところとなるわけだが、むろん批評も入り込みやすい。東氏の批評は、「ゲーム的リアリズム」云々というよりも、むしろこのような比較的単純な(メタ構造・メタフィクションに対する応接という、批評としてはとてもオーソドックスな)ところから要請されたものだ、という見方もできるだろう。以下、そのことについて書く。
たとえば、エンターテイメントに利用される物語設定なわけだが、それはしばしば、その時代その時代に応じて――東的に言えば時代の「環境」にしたがって――哲学的・人文学的なテーマ・トピックを作品上に表現するために利用されたり、機能したりすることがある*6。だからこそ、純文学も三島の例を挙げるまでもなく、時としてSFやミステリー、サスペンスなどから各種設定を導入し、作品の批評性を確保することがある。作品の制作段階ではそれと意識しなかったものであれ、批評が積極的に読み込むこともあるだろう。好例は、『時をかける少女』の一連のバージョンであり、とりわけ大林宣彦の実写版や細田守のアニメ版は、物語の軸となるタイムリープの展開の仕方に、その時代その時代に応じた作家の批評性が反映され、かつそのように読まれてきたはずだ(このことに関しては2006年9月21日の日記http://d.hatena.ne.jp/sz9/20060921に論じたことがある)。
東氏が『ゲーム的リアリズムの誕生』で試みた批評(とりわけ第二章)は、社会学的な見地から価値のあるところと文芸批評として価値のあるところが錯綜していて評価しづらいのだが*7、あえて整理すると、以上のような批評的系譜に列なるものだろうと評価することができるのである。要するに、タイムリープ叙述トリック的な設定を、現代社会学的な環境(リセット・やり直しが容易なゲームプレイを隠喩とする環境、つまり「ゲーム的リアリズム」)にしたがって読み解き、更新させた、という評価だ。
以上のように考えたら、「読者の視点」「プレイヤー視点」の導入が新しいということはできない。「読者の視点」の導入の仕方が変わったのであり、東的に言えば、ゲームプレイヤー的になったのだ、といった方が適切だろう(かつて映画的になったりテレビ的になったりコンピューター的になったりしたように)。その意味で、東氏の「ゲーム的リアリズム」はいかなるジャンルにも参考になる視点だといえる。
ただし、東氏の個別作品に対する議論はあまりにも厳密かつ複雑に過ぎて、そこが実は文芸批評家東浩紀のいちばんの見所なのだが、応用性に乏しいといわざるをえない。創作にとっても、批評にとっても。
たとえば、東氏は、石川忠司の舞城論(『現代小説のレッスン』所収)をあげて、石川氏が舞城作品を「「身勝手」で「フリーフォーム」」として批判するのに対して、舞城作品がいかに「精緻に計算され構築されたメタフィクション」であるかを、精緻に分析する。そして東氏のこの分析はおそらく正確だ。
しかし問題なのは、あの長大な舞城作品を一読して感じるところは、むしろ石川氏の印象論の方がじゅうぶん納得できるという点である。この意味で舞城作品のエンターテイメント性に応接しているのは石川氏の方である。読者は、東氏のようには、ほぼ絶望的に読めないし、無意識裏に規定されているということもできない。「プレイヤー視点の文学」をいう以上は、このような批評の限界にはもっと自覚的でなければならないだろう*8
いずれにせよ、東氏は、批評のラスト、舞城論を終えて、ラノベを前衛とするエンターテイメント系文学と純文学の接続を模索する。しかしこれも問題がある。村上春樹から舞城の系譜を素描するのだけれど、それはけっきょく、虚構の深度が構造的に進化しているんだなという発展史観的な確認でしかない。この素描をさらに辿るとすれば、舞城以降の虚構の深度を構造的にいかに反映させるかとか、舞城以降のタイムリープ叙述トリックの可能性といったことくらいしか想像する余地がない。エンターテイメントとして割り切ればそれでかまわないが、純文学である以上はそうはいかない。
純文学からみれば、『ゲーム的リアリズムの誕生』の応用可能性は、まずライトノベルを物語設定とキャラ設定に重点を置いた「ゼロジャンル」と定位し、そのなかでも「ゲーム的リアリズム」(の代表格)として提示されたタイムリープ叙述トリックという(エンターテイメントに奉仕する)メタフィクション的な物語設定の構造分析を試みたテキストとしてとりあえず局限させたところから、いろいろと模索できるのではないかと思った。
エンターテイメントの各種ジャンルの実績がなければ純文学は存在しない*9。来れ、新たな横光三島!

*1:2007年4月6日の日記http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070406の続き。

*2:三島の『美しい星』評価は、日本近代文学会2007年6月例会での梶尾文武氏の発表「三島由紀夫『美しい星』と核時代の想像力」がおおいに参考になった。三島の本作に刺激を受けて書かれた安部公房の『人間そっくり』が、「火星人」を名乗る男に対して、自身を常識的に「人間」とみなす主人公を提示するものだったが、そのような対比(非常識を対象化しうる常識の視点)を前提した上で、「人間」とみなす常識の自己言及的な問いを失調に追いやるというオーソドックスなSF的設定に安部作品が回収されていたとすれば、三島の作品は叙述そのものにそもそも前提的な根拠がなく、狂気そのものだという梶尾氏の指摘は刺激的だ。ほかに大江健三郎の『治療塔』におけるSF設定の限界も、この安部に列なるものとして導き出されるだろう。以上のような三島の「核時代の想像力」をアンチヒューマニズムとして、『ヒロシマ・ノート』等の大江氏の「核時代の想像力」におけるヒューマニズム的視点に対峙させるところも妥当である。

*3:2006年12月8日の日記参照http://d.hatena.ne.jp/sz9/20061208

*4:三島はやっぱり、思想家というより商人であり政治家でありエンターテイナーなのだ。むろん、後者である方が純文学的にも資するところが多い。

*5:ゲーム的リアリズムの誕生』参照。東が引用する舞城王太郎の『九十九十九』はミステリーの文脈では竹本健治の『ウロボロス偽書』に列なるものだが、前者は、過去(前出)の物語展開を現在(後出)の物語がフィクションとして打ち消すという性質上、叙述トリックの側面があり、したがって『九十九十九』の主要な物語設定はこの側面とタイムリープとの併せ技、と言うことができる。竹本氏と舞城氏の関係については、2006年4月18日の日記。http://d.hatena.ne.jp/sz9/20060418

*6:物語設定の中には、哲学的・人文学的な問いを展開しにくいもの(エンターテイメントにとどまりがちなもの)としやすいものがある。しやすいものは、たとえば記憶喪失・時間操作もの、90年代に流行した偽史もの・パラレルワールド(『沈黙の艦隊』、『5分後の世界』、『あ・じゃ・ぱん』、『彗星の住人』ほか無限カノン三部作、『グランドミステリー』等々)、それに『エヴァ』−『ケイゾク』的な陰謀ものなど。

*7:たとえば、いくつかの作品を通して東氏がこだわる、「ゲーム的リアリズム」における実存的な選択・決断の問題は、「ゲーム的リアリズム」の社会学的分析という側面と、東浩紀個人が批評家として個別作品に読み込む、きわめて倫理的な側面がある。

*8:でも、僕個人としては、東氏の徹底して過剰な舞城論は好きだし、けっきょく、二通りの読まれ方をされている舞城氏がいちばん幸せだと思ったりするのだが。東氏に戻れば、むしろ『動物化するポストモダン』以降の、本書の第一章をはじめとする社会学的な見地を披露する部分の方が、批評にとっても創作にとっても示唆深く、想像力の源泉となっているのだろうとつくづく思う。

*9:ほんとかよ。