感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

ジャンルの記憶喪失

坪内‐二葉亭にはじまる近代文学は、多様な物語を生産しながらも、陰に陽に大きなテーマに包摂されてきた。それは、自我の葛藤とか、理想的なアイデンティティーの追求といわれるものである。社会が求める自己像と自分がそうありたい自己像との分裂、はたまた、自分を統制する理性的な自己とその統制からたえず過剰にふるまいがちの経験的な自己との葛藤、等々。
このように議論の前提を立てる伊藤氏貴氏の論考「自我からの逃走――現代文学における<私>とは」(「文学界」07年4月号)は、近代文学が久しく抱えてきたこのテーマが崩壊しつつある現代において、その変容過程にある「自我」(というテーマ)を、作家・作品ごとにいくつかのパターンに分けてみせる。
その歴史的な考察を踏まえた手際のよい分析の手つきは、往年の磯田光一を髣髴とさせるもので、こういう(オーソドックスな作法でありながら最先端のカルチャーに対する目配せをおろそかにしない)文芸批評家がいることを、まずは、とてもうれしく思った。
ただし、近代文学はざっと130年近くの歴史をもつ。かほどに記憶の膨大なジャンルにおける「自我」の考察を、文芸誌上30ページに満たない分量で言い尽くすことなどおよそ無理なことゆえ、この論考はところどころ言い足りない部分や空白を設けている。むろんこれは当の伊藤氏も承知のことで、多少なり文学史に精通している読者なら疑問を提示したり、空白を自分なりに埋めたりすることを、彼も喜んで認めてくれるだろうと思う。
たとえば、1960年代から70年代における「内向の世代」周辺(が問題にした「自我」)が抜けていることに不満な読者がいるのではないか。
あるいはまた、阿部和重の扱い方に対する不満。これはなにより僕の不満でもあるが、阿部氏はアイデンティティーの一つの特徴、社会に認められたい個性的な自己像をもてあました挙句、自我が分裂せざるをえなかった――その衝動が彼のメタフィクションへの志向を支えている――という見解だが、阿部氏の作品を「自我」の図式でとらえた場合は、そのようなアイデンティティーの問題に囚われて自我が分裂し、人格を多数化させた、というより、もともと人格の多数性なり解離した暴力人格や誇大妄想人格の突出、という局面を描きたくて、その伏線にアイデンティティーの物語を散りばめたという見方のほうが合っているのではないか、という疑問をもつ読者もいるはずだ。
これは阿部読者としての僕の単純な印象でもあるし、それに、彼はデビューしたときから、物語と叙述のギャップの演出など、あらかじめメタレベルの操作をあざといほど意識的にほどこしていたわけだから、順序としては、解離なり多数性という発想が先にあったと考えるべきだろう。阿部読者も彼の作品をそのように読みたい期待がたえずある。囚われているのはむしろ暴力とか無根拠な解離とかそっちの方で、アイデンティティーどうこうというのは盛り上げるための演出にすぎない。
このように解釈したら、最近の阿部氏は、世間に認められた結果「自我」承認欲求を抑えこめるようになって、サーガ的な大きな物語に軟着陸している、という伊藤氏の見方も再考しなければならなくなるだろう。ちなみに、「自我」の葛藤から分裂というプロセスは、6−70年代を見たほうがいいように思う。
あるいはまた、『野ブタ。をプロデュース』に関して。当該作品は、近代的な「自我」の葛藤・分裂を、プロデューサーというエージェント(脇役)を中心(主人公)に配すことで軽やかに乗り越えてしまった、という見取り図はなるほどと思わせてくれる。しかし、そもそも語り手(叙述)の審級が、物語に対してそのようなエージェントの立場にあるものなので、この第三項的なエージェント(ホームズに対するワトソンのようなポジションもこれに含めよう)が物語に対してどのような関与を示してきたのかといったところまで、個別作品ごとに検証しないと、「野ブタ。」がそれの嚆矢である、というような見解は、頷くのにちょっと戸惑う。
それに、判官びいきの日本人はけっこう、主役よりも一歩下がったプロデューサー的なもの、楽屋裏的なものを好む傾向にもある。たとえば、安吾は、天皇に対する摂関政治以来、戦時期の軍部にいたるまで、自分の身をあえてプロデューサーにおとしめることで世界を操作する技術に長けているのが日本だ、と指摘している。
以上のこと――小説の形式的側面の検証から、日本文化あるいは最近の編集偏重型文化の考察まで――をクリアにしないと、「野ブタ。」(が代表する文学)はけっきょく小室哲哉つんくの二番煎じと思われてもしかたがない(「野ブタ。」が新しいなら、つんくの方が新しくない?)。むしろ「野ブタ。」の「。」を見れば分かる通り、「モーニング娘。」(的なマーケティング)のパロディーと見なすなら、オリジナル‐コピーの葛藤(あるいは近代文学とエンターテイメントの葛藤)に自らをあえて位置づけているとさえ言える。別の意味で、作者の白岩玄氏はもっとあざといのかもしれない。「野ブタ。」を近代文学(純文学)のフレームのなかだけで語るのはちょい癪だし、この作品もおそらくそれを望んではいない。
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以上、いくつか不満を述べた。しかし、これらは伊藤氏の明晰な議論に修正を強いるようなものではまったくない。僕の個人的な趣味が、伊藤氏の見取り図に対していくつか解釈を付加しただけのものだ。
ところで伊藤氏は、阿部的な「自我」の変容パターン(自意識過剰な承認欲求→自我の葛藤・分裂→暴力人格の解離→承認されると調和)と、「野ブタ。」的なパターン(演出する自己と演技する自己が分裂せざるをえない私小説的な「自我」葛藤に対して、プロデュースする別人格をさしはさむ)を提出し、さらにもう二つの「自我」の変容パターンを提出している。伊藤氏がこの論考を書きたかったのは、おそらくこの二つのパターンを示した二人の作家の存在ゆえであるから、ここは非常に重要だ。
まず一人は、笙野頼子氏。「野ブタ。」が「自我」の葛藤から(プロデュースというメタレベルの提示により斜めに)「逃走」するパターンだとすれば、彼女は、その葛藤に対して、阿部氏のように人格を複数分離させつつ、その人格相互間に「闘争」を演じさせることだという。それによって、社会的な価値観や差別意識が内面化した自己のなかの他者性を浮き彫りにすることができる。伊藤氏はこれを「同時性多発人格」という形でまとめている。
近代的自我葛藤の徹底という意味では、おそらく上記2パターン以上に伊藤氏はこれを評価しているように見える。ただし、笙野氏の作品に限らず、このような「人格」崩壊・複数化を描き、それを評価する批評のスタンスは(いわゆる「構造主義」批評の導入以降)けっこうオーソドックスだとは思う。
最後の一人が小川洋子氏なのだが、彼女の扱いが最も重要だ。なにより伊藤氏は彼女に愛を注いでいるからである。
彼は彼女の話題作、「記憶喪失もの」として知られる『博士の愛した数式』についてこう述べている。「一般的な記憶喪失の物語が、失われた〈私〉を求めて、という〈私さがし〉のバリエーションに帰着しがちなのに対して、「博士」の物語はそれを諦めるところからはじまっているのだ。それゆえここにはどんな悲劇も起こりようがない。『博士の愛した数式』の新しさは、喪失を悲劇から解放したところにある。あるいは〈私〉の喪失を悲劇でなく解放として描いたと言ってもよい」。
僕はこの見解に対してなるほどと思ったのと同時に、一抹の不安を感じた。しかしその不安も、伊藤氏は正確に拾い上げている。つまり「記憶の喪失によるアイデンティティの崩壊を描いたのは小川洋子に限らない。しかも、娯楽映画やエンターテインメント小説、ソープオペラなどいわば〈わかりやすい〉ジャンルにおいて「記憶喪失」は近年重要なモチーフになっている」と。
不安というのはつまり、小川氏が「博士」に仕掛けた「記憶喪失」というモチーフは、近代文学のフレームにかけてみた場合、「自我」の葛藤の徹底的な喪失・消尽、つまり一切の「自我」からの解放――近代文学の終焉――というきわめてクリティカルな相貌を見せるが、エンターテイメントの文脈においてみたら、単なるエンターテイメント(自我? なにそれ)として消費されるものではないか、ということである。
そもそも、伊藤氏は、この論考をはじめるさいに、わかりやすさ・読みやすさを最大の価値とするエンターテイメントのグローバリゼーション(読書マーケットの席巻)に対して、ささやかな苛立ちを示した上で、そこからの逃走/闘争を、近代文学の「自我」(わからない自己をわかるべく追求する「私さがし」のバリエーション)とは違った形で示せないものか、という問いとともにはじめていた。
それなのに、小川洋子氏を近代文学の可能性として肯定したとたん、このグローバリゼーションに与してしまうことになるのである。
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僕は小川氏の「博士」を部分的に批判したことがある(06年1月23日の日記)。それは、いくぶん都合のいい記憶喪失を「博士」にほどこしているからであった。悲劇であれそれからの解放であれ、エンターテイメントでは、物語を円滑に語るために、その規格に合わせて作中人物の人格を造形する。そういう作業をきょくりょくほどこしたものがエンターテイメントと言われてきたはずだ。そこではもちろん、人間関係や人格(の葛藤・闘争)――あるいは伊藤氏に倣って、語り・叙述と物語の齟齬もここに含めよう――によって物語が発生するという余地はない。
「博士」に登場する人格も基本的にこの物語に回収される。それがたとえ、近代文学においては、何らかの批評がこめられている、としてもだ。
博士は80分毎に都合よく記憶をリセットする(いざこざがあっても、すぐ忘れる)。それが主人公の「私」とその息子「ルート」との間に「無私のいたわり」をもたらし、「人格同士の軋轢としての情念からの解放」が演出されると伊藤氏は言う。しかしたとえば、エンターテイメントの作品では、主人公のダメな「僕」にばかり愛情を注ぎ、他の要素に対してはすっかり健忘してしまったかのような女の子たちが都合よく群れ集い、いわば脳内ハーレム状態を形成することが、ままある。この設定は、「80分リセット」と同様、まさに葛藤からの解放ではないか?
伊藤氏は、記憶とともに失ったものは小さいとはいえないが、小川氏はそれよりも「私」からの解放を選んだ、と言う。しかし、この「解放」が、いったいどのようなものをもたらすのか、何に対しての解放なのかを精査する必要がある。そのためには、けっきょく「自我」というテーマだけではあまりにもきれいさっぱりと切り落としている(喪失)ものがあるのではないかと感じざるをえない。
伊藤氏は、小川氏の発言――ドロドロした近代的な自我人格を薄める装置を各作品ごとに施している云々――を引用し、それを論拠にしているが、これもけっきょく近代文学の「自我」というテーマに限定された評価軸しか提供してくれまい。
しかし、このスレスレのところで小川洋子につく伊藤氏の、彼女に対する読者としての信頼に支えられた論考からはじめることは、得られることがとても多いとも思うのだ。近代文学とエンターテイメントの間には、「博士」のみならず、様々な作品と作家たちが、僕たちを、解放とはいえないまでも、どこかに連れ出してくれるような顔をして背伸び・屈伸しているのである。

*ちなみに、また僕の趣味で恐縮だけれど、大正期を通しての、ある意味壮絶な自我の葛藤を経て、それが形式化・自動化するモダニズムの成果を踏まえ、うまいこと自我を解放した先駆としては、川端康成が挙げられる(荷風も挙げてよいか?)。かの『雪国』をはじめ、あらゆる葛藤を喪失したような、しばしば切片化しさえする女をフェティッシュに愛でる男たち。
*思うに、ライトノベルをはじめエンターテイメントとの関係を見ずに、近代文学あるいは純文学をデザインするに当たって、「近代的な自我(の葛藤)」や、その形式上の写し絵と見なせる「メタフィクション・メタレベルの操作」を単純に仮想敵とすることは、もう一呼吸おくべきだと思う(詳しくは前回の日記)。小川氏が「自我」の問題を切り落とすことにいたった推移は理解できるけれど、それだけだと、ジャンルの記憶喪失なんてことを少し考えたりする。ジャンルなんてどうでもいいという意見もあるだろうけれど、たとえばマンガやライトノベル、それにミステリなどエンターテイメント文学に比べたら、純文学の自分のジャンルに対する自己定義・意識のなさはいまや驚くほどではないか。それで自我の解放を喜んでいても首を傾げてしまう。
*今日ようやく博士論文を完成させ、仮製本に出しました。道すがら、昨日まで世界フィギュアが行われていた千駄ヶ谷の体育館の前を通り(転んでもなんでもやっぱりキム・ヨナのあの不敵な笑みだよなあと思いつつ)、近くのコンビニにあるATMでお金をおろしたら2000円札をいっきに4枚もゲットし、さいさきいいなあ(?)と思っていたら、知り合いから待望の男児が産まれたとの一報が入り、彼女も産みの苦しみのすえの解放感を味わってるんじゃないかと勝手に思う。博士論文はがっちり近代文学をやっていたので(戦後文学と美術史周辺+メインは安吾論ですが、とりあえず念願の「柄谷越え」を目指しました)、久しぶりに最近の文学のことが書けて解放された気分です。新宿で東浩紀氏の久々の新作『ゲーム的リアリズムの誕生』を見つけ(出てるの知りませんでした)、おおここでも産みの苦しみがあああ、とか思いながら即買いし、また何か彼から新しい発見をえられることを期待。