感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

サプリメント批評宣言・注釈

先日書いた「サプリメント批評宣言」は、単なる僕の思い付きではなく、日常的にウェブのレビューサイトを閲覧していたら容易に気付くようなことを発想の源泉としている。その意味では、「サプリメント批評宣言」は現状の追認でしかない。
ウェブ上には「私」の率直な感想文なり告白文しか存在しないといまだに思っている人がいるけれど、いまや、自分の感情表現を理論的な言葉にのせて表現するブログ、ウェブサイトは僕が知っている限りでも無数にある。理論的とまではいえなくても、不特定多数の人が見ることを前提した内輪ネタなり自分の感情表現を優先するウェブサイトはそれこそ数知れない。
ウェブ上は確かに、感情表現がそのまま露出しやすいメディアであり、たとえば僕が敬愛する批評家と、以前飲みながら話したときも、彼いわく、ウェブにはくだらない私語りか資料収集に適当な情報しかないだろうと切り捨てていたことを思い出す。
ウェブというメディアには、確かにそういう側面があるだろう。僕自身、他のメディアに向けて書くときと違って、ブログ向けに書くときは感情表現に歯止めがきかなくなるときがしばしばあり、行き過ぎだなと感じることがある*1。しかしそれが否定的にしか評価されない場合、少なからず違和感があることもまた事実だ。
***
ウェブを否定的なイメージのみでとらえる傾向は、特に文学に根強く*2、じっさい文学に関して刺激的なレビューを載せたサイトはいまだに少ない。
もとより、マンガなどのサブカルチャーに比べたら消費者数が桁違いに少ないのだし、文学研究者は比較的、研究・教育機関を根城にできる確率が高いから、わざわざウェブ上にまで発表の機会を求める必要がない、ということなんだろうけれど*3
しかし、感情表現を流しやすいというウェブの特性はプラスに受け止めるべきではないか。思うに、文芸誌などの既成の発表媒体に対してウェブ発信の優位性はここにあるのだから。
***
少なくとも、文芸批評(サブカルであれ文学であれ)における情報の質量ともに優劣の差は、ウェブ内外においてすでにない。むろん雑誌に書ければ対価が見込まれ、経済上の保証がなされるが、そんなものがなくてもこれだけの質量ともに誇れる情報が日夜ウェブに発表されることの意味を考えるべきだ。自分の語りだけは特別なものだと信じて、闇雲に私語り批判をするよりも、なんの対価も評価も見込まれなくてもとにかく日夜情報を摂取し、書かずにいられないのが「ウェブ人間」なのだ*4
著作権で守られねば、書くモチベーションが下がるだなんて、権利を得た者の後付けの発想に過ぎない*5。ウェブ上の無数の私語りは、経済的な効率性をこえて日々書き継がれ、ウェブ内外の情報を、複数のコメントをはじめブックマークやトラックバック、RSSなどで繋げる一つの係留点なのである*6*7

*1:以前、僕が好んで読んでいたブログが集中的な、つまり反論の余地のない批判を受け、やむなくブログを停止することになったときは、間近に見ていてとても悲しかったし、怖かったことを覚えている。誰が悪いと言いたいのではなくて、ウェブ上はつねに感情の流れに支配される可能性があることも、当然覚悟しなければならないのだが。

*2:梅田望夫平野啓一郎の『ウェブ人間論』における平野氏の発言も基本的にウェブ=ダークサイドという発想を基本にすえたものだった。

*3:だけれど、サブカル関連や社会学関連の情報は、アカデミックな機関でも第一線で活躍しているような人たちから、名も知られていない人たちに至るまで実に濃いものがやり取りされているのを見るにつけ、いちおう文学研究の端くれにいる者として羨ましいなあと思うこともある。

*4:こんなことを書くと、「格差社会」を批判するアカデミックな学者から、「格差社会」を助長するだけじゃないか、――「文化国家」「文化立国」を奨励しつつ経済的なケアをまったくしないことにより「格差社会」を助長している国家と同じ論理じゃないか、と批判されそうだけれど、そんなことは知らん。

*5:採算を取れているのか分からないような雑誌に作品を発表している人たちが、漫画家や音楽関係者と一緒になって著作権の利害を共有しているところが僕にはいまいち理解できないのだが、そんな野暮なことは言うまい。誰だって、生活がかかった話題に関しては既得権益を守るのが当たり前だと思うから。ただし、それが本当に個々の作家にとってプラスになることなのかは、どうも怪しいような気がするのだけれど。とにかく、今後の文学、とくに純文学は、作家の育成のみならず、受け手の読者層を取り込み育てることが重要であり、既成の作家の文章をウェブ上などで容易に利用できる環境を醸成するべきではないか。自分らの著作権のことばかり考えているうちに、早晩文学なんて誰も寄り付かなくなることになるんだって。というかウェブ上には文学のコミュニティーなんてすでに存在しない。この点はおそらくどの作家も批評家も諦めていることであり、それはそれで適切な現状認識なのだが。思えば、前世紀の残り5年間くらいの間はけっこうネットの可能性とか、デジタル化の危機感をもともないつつ、文学でも騒がれていた時期があったと思うんだが、本当にウェブは文学にとって「使え」ないものだったのだろうか?

*6:大塚英志氏は、『更新期の文学』で以下の発言をしている。「そもそも人がものを書きたい、表明したいという欲求の中には自らが発信者になりたいという欲望が当然含まれている。そして現在はネットなどの新しい環境によってそのような欲求が極限まで公然化した時代としてある。(中略)そこでは「私をわかって」というカミングアウト的欲求よりも、むしろ、「送り手であること」に書き手自身の欲求は変化しつつあるのではないか。アクセス数をカウントし、互いに競うような「ブログ」をめぐる制度は、「私をめぐる承認欲求」という、書くことの近代文学的動機を自身のことばがメディアとしていかに訴求力があるかへと巧妙にすりかえつつあるように思える。ネットでは「私」の表出方法がエスカレートし、アクセス数を増やすために「何でもあり」の事態が生じていることについては具体例をここで出す必要もないだろう」(179頁、185頁)。この本が出たのは昨年の暮れだが、この見方は当時においてすでに一面的だと思う。確かにまあ、文学よりもサブカルネタ、社会学系のネタの方が断然アクセス数が増えることを知ったときには、さすがにこっちばかり意識してしまったりするわけだけど(笑)。いずれにせよ、大塚氏のウェブにおける「私語り」に関する指摘は、ぶれは見られるものの、以上の通り最終的に否定的な評価に落ち着く。ただし、彼の文芸批評は随所に貴重な指摘があって、いま最も重要な批評家の一人だと思っているのだけれど、たとえば「投稿空間」として機能する雑誌の特性に注意を促す彼の指摘はニヤリとさせられるものだ。つまり、「不良債権」化する文芸誌の、今後のありうべきメディアの姿として、大塚氏は、「投稿空間」として機能する雑誌の特性を考慮すべきだ、という。現在、インターネットは総表現社会(-ロングテール)の「投稿」欲を回収、促進するメディアとして機能しているが、そもそも文芸誌こそそのような「投稿空間」として生み出され、機能してきた側面があるのだ。現行の文芸誌はそれを忘れているが、経済的な赤字体質を改善する意味でも、文学の社会的な存在価値を確保するためにも、「投稿空間」としての雑誌メディアの特性にいまこそ注目すべきだとする。周知の通り、サブカル系のジャンル専門誌はこの機能に敏感である。

*7:とりあえず、今日付けの日記は、12月中に書いた6日、8日、11日、24日の日記とあわせて「ロングテール」5部作目となります。