感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

サプリメント批評宣言

ここ最近、アニメ・マンガなどのサブカルチャーのみならず、小説や映画の作品までもが、まるでサプリメントを飲むように消費されている現状が報告され、それを憂える人たちがいる。即効激やせ! スリムになれるとか、ビタミン入り、一週間で血液サラサラとか、特定の効能に特化したサプリメント薬(ないしサプリメント的効能をうたった食品群)はいまや巷に溢れかえっているが*1、小説や映画もこの現象と同じように消費されている、というわけだ。たっぷり泣けて涙して感動できるか、ハラハラドキドキを味わえるか、萌えられるかどうか。この現象を追認するごとく、本屋に足を運べば、ドラッグストアで商品のサプリメント効能を宣伝するように、手書きポップやカバー帯がこの本は泣ける、感動する、萌え〜とか連呼している光景が当たり前になったってこと。
もちろん、皆が皆サプリメント的な消費をなぞっているわけではない。たとえば劇団ひとりの「陰日向に咲く」の場合、泣けるし感動できる(というポップを見た)から手に採り、読んでみたら確かに感動できた、という読まれ方だけではないだろう。劇団ひとりの「お笑い」の仕組みと対比しながら読むこともできるし、サブカルチャーとしての「お笑い」と文学のギャップを操作・巡回できる劇団ひとりというマルチタレントぶりにアディクトするような(楽屋裏のぞき見的な)読み方もできる。このような消費性向は、サプリメント的な消費に対して、総合薬的な消費と命名されている(araig:net氏のテキスト参照。他、参照テキスト)。
サプリメントと総合薬。ここ最近(というか昔からだけど)、文壇界隈がサブカル出自の作家を採用したり、十代の若い女の子を作家に仕立て上げたりするセールスが目立つが、それは、サプリメント的な消費性向としても説明できるし(感動・サスペンス・萌えの取り込み)、総合薬的な消費性向としても説明できる(複数ジャンル・メディア・世代間のメタ操作)だろう。
とりあえずプロフィールにも自己申告してあるのだけれど、私がこのブログを立ち上げるさいに意図していたことは、ブログ名から察せられる通り、総合薬的な(消費を後押しする)分析から、サプリメント的な分析への重点移動があった。サプリメント的な消費に批評は如何に関われるのか。受け手が作品に接するときにはどのような感情が生成するのか、そもそもなぜ受け手はこの作品に感動するのか、という作品受容上基本的な問いからかけ離れた総合薬的なメタ分析とは一線を画し、そうはいってもしかし、単なる感想文にもならない批評の言葉を練成すること*2
以下は、総合薬的な分析と対比しながらサプリメント的な分析、サプリメント批評について説明する。まず総合薬の方は、「知らなかったろ、こういう見方があるんだぜ」的なメタからの指摘が基調となる。それは、当の作品から得た経験からいったん身を引き剥がし、複数の作品・文脈と相対化しながら作品の価値付けをすることが目指される。
他方、サプリメントの方は、「あなたの感動の所在はこの見方に起因するんじゃないか?」という、メタからだけれど、オブジェクトとともにあろうとする指摘である。当の作品を見て感動した経験を忘れない、足ツボマッサージ的なスタンス。
総合薬のスタンスは、この作品(のこの部分)は、あの作品(のあの部分)と構造的に同じだ(あの思想家と同じ視点、同じ構造を持っている)とか、この作品は、あの作品を意識して作られている(制作時の社会的背景をもとに、当時の読者層の欲望なり権力関係をうまく汲み取っている)とかいったタイプの批評。前者は物語の構造分析とか、あるいはそれを応用したものであり、後者はカルチュラルスタディーズによく見られる分析方法だ*3
サプリメント分析に関していえば、最近精神分析を応用した批評が文芸誌などでも盛んに見られるようになったのはこの種のサプリメント分析が求められているからだともいえるが、しかし、少なくとも、私が好んでよく読む斉藤環氏の精神分析的文芸批評は、基本的に作品(作家)分析であって、受容者(経験・感情レベル)を通じた作品分析ではない。その点で、私が考えるサプリメント分析とは立ち位置を異にする。むしろ斉藤氏のものは、文壇の人たちがいま自分のやってる文学ってどうなの? サブカルのなかにあって文学はどうあるべきなの? って自分たちの欲望(来し方行く末)を知りたがっている声に呼応したものであり、それはむしろ総合薬的なメタ分析に位置付けられるものだろう(ことさら私がいうまでもなく、ラカン精神分析はメタ分析が宿命だということなんだろうけれど)。
サプリメント分析も作品が分析対象となるが、それはあくまでも受容者がどう受け取ったか、受け取るべきか、その感情回路をフレームにして作品を分析しなければならないものだ(最終的にこれが目指される限り、途中しばしば総合薬的な分析を経由しても、それはサプリメント分析にふくまれる)。しかし、それは、受容者がどのように読み取ったのか、解釈したのかというタイプの読者論――作品がどういう構造を持つのかよりも、どう流通し消費されたのかを分析するほうが重要だという観点からなされる読者論――ではない。
たとえば、社会学者の鈴木謙介氏は、作品分析をするよりも――誰もそんなふうに作品を受容しないよとツッコミを入れたくなるほど過剰な解釈にうち興じるよりも――受け手がどのように解釈したのかを分析するべきだとして、このようなことを言っている。「僕がなぜ、受け手を問題にしなければならないと思ったのかという問題について、一つ例を挙げます。/『世界の中心で、愛をさけぶ』という本がありますが、これはちまたで認識されているような「恋人が死んで悲しい」から泣ける本だというものではありません。なぜなら死は最初から暗示されているからです。この本では、おじいちゃんがキーとして出てきて、おじいちゃんと「僕」の喪失に対するスタンスの違いが問題となります。おじいちゃんは「死んだ人の骨を手に入れれば喪失があがなえる」と思うけど、僕はそう思わずに、遺骨を捨てる。そこには喪失をめぐる断念が、あらかじめたたみこまれていますね。/しかし、受け手の側としては、たんに柴咲コウ的に「恋人が死んで悲しい」というお話になってしまって、それでたくさん売れている。だから「作り手がなにを意図したのか」という問題とは別に、受け手にとって「どんなものとして機能しているのか」という問題意識をもたないといけない。そうでないと「受け手はバカだ」以上の話はできなくなる」(『波状言論S改』東浩紀編著、110頁)云々。
むろんこのような社会学的な分析は、それはそれで重要だと思うが、けっきょく状況確認して終わり、というトートロジーに終始する点でメタ分析の域を出ない。作品Aはどのような記号として社会に受け入れられているかが、その分析によって明らかになり、社会(の欲望)の構造が確認できるだろうが、社会総体の欲望と共役関係にあることが前提される分析者の立ち位置は揺るがないし、その外部はないものとされる、ということだ。当該作品の構造は不問にされ(ることにより理想化され)、「セカチュー」ってかくかくしかじかだよねー、そうだよねーというトートロジカルなコダマが行き交うことになる(むろんだからこそ「セカチュー」は、読まれずに売れたのだが)。
こういった分析は、だいたいこういうふうに消費されているよね、という通念なり雰囲気に落とし所を見出すか、消費者一人一人の感想を信頼し、アンケートなどをとって評価マップを作ることで満足するしかないものだ。少なくとも、これはサプリメント分析とは違う。
サプリメント分析は、受け手とともにあるが、受け手の追認というものではない。受け手が作品とどのように付き合ったか、受け手の感情の由来・来歴を当該作品において明らかにすることだ。簡単に言えば、受け手の感情如何を基準にして作品分析をする、ということである。
注意すべきは、分析のさいには、あくまでも分析主体の感情・経験が基準(分析の判断材料)となる、ということである。社会はこの作品をどのように消費しているのか、と一足飛びに「社会一般の受け手・消費者」の欲望を判断材料にするのではなく、分析主体が受け手としてこの作品をどのように消費したのか、それを明らかにする手続きを不可欠とする、というわけだ。だから、社会学的な受け手の追認に終始するものではない。
かくして、作品分析を通じて感情の交流が仕掛けられることになるのである。私はこういう感情発露を経験したが、あなた方もこうだったのではないか(気持ちいいのはここのツボでしょ)、こうあるべきではないのか(ここのツボを押すと、もっと気持ちいいよ)、というように。
たんなる追認ではないのだから、感情の交流(サプリメント効果)はとうぜん果たされないこともあるだろう。作品を通して感情のツボを押すわけだが、皆が皆気持ちよがるツボなどありはしない。しかしサプリメント批評の意義は、作品を通して新たな感情の交流が図られる可能性であり、作品と受け手の新たな感情の交流を批評を介して図られる可能性である*4
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学生に講義をしたりなんかすると面白いことがあって、それは、総合薬的な解説に反応を示すタイプと、サプリメント的な解説に反応を示すタイプとに分かれるところである。むろん両者をバランスよく持ち合わせたタイプもいるが、およそ後者のタイプが多い。
くり返せば、「感情レヴュー」を始めて以来、私にとって興味があるのは、サプリメントの方である。いくつか理由があるが、まずは、総合薬を楽しめる人たちは放っておいても自ら作品をネタにした批評を不断に行っているから、彼らに対していまさら介入する必要を感じないという素朴な理由がある。より重要な理由は、最近の作品受容傾向はサプリメント的感情移入の方が重点的かつ多数を占めているのに、むしろ批評なり研究と自称するものは総合薬的メタ分析の傾向を強める趨勢にあり(感情的な感想、私語りは見向きもされない)、そこにこそ介入する余地があると踏んだからだ。
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社会学者の大澤真幸氏が「人はなぜ文学作品に感動するのか?」というテーマについて以前話していたことに、私はとても感銘を受けたことがある。彼はまず具体例を挙げ、「古くから伝わるホメロス叙事詩が、現在の私たちにも感動的なのはなぜか?」という問いによってこのテーマに応えようとした。その感動の理由は、社会的文脈の共通性とか、人間誰しもが普遍的にそなえている共通感覚とか、没時代的な物語の構造とかいったものに求められがちであるが、果たしてそうだろうか? そのような、一見自明に思える共通性よりも、むしろ特異性にこそ感動の可能性・源泉が開かれているのではないか、というのが大澤氏の考えだった。つまり作品のもつ特異性こそが普遍性への通路(感情の共有可能性の担保)となっているのではないか、ということだ*5
しかし、ここで注意すべきは、まったくの特異性・異質性・外部性には、私たちは感動することができないということだ。当たり前のことだけれど、たとえば自分の理解できない外国語で読んだものに、感動など求められないということである。特異性とはあくまでも、内部において問題になるものに限られる。
そもそも大澤氏がこのようなテーマを立てた理由は、さっこん小説の「終焉」だの「メルトダウン」だのが叫ばれ、文芸批評が衰退している現状を踏まえ、今後の文学にとって活路を見出すとしたらどのような方向に舵を取るべきか、という問いに応接しようとしたからであった。
この話を聞いたとき、小説家はどのようなことを考えるのかは、私には分からない。そもそも特異性とはどのようなものなのか、大澤氏いわくケースバイケースであって、けっきょく明らかにはされなかった。
おそらく総合薬的な分析にも、サプリメント的な分析にも、作品の異質性に対してどのように接し、どのように受け手に翻訳・発信するかという、異質性に関する問題を抱え込んでいるはずだ。私の批評の当面の目標は、今以上に、後者のサプリメント的な分析に賭けられることになる。作品と受け手の、相互に異質なものの橋渡し、この感情の橋渡しとして言葉をいかに練成し、機能させるかというところに当てられるだろう。要は、感情ツボマッサージ師なのだが、そもそも文芸批評ってそういうものだとも言えるし、いまや声を大にして言いたい、ってことでサプリメント批評宣言。

*1:一昔前は、抗菌グッズがもてはやされていたけれど(いまやそれも標準装備だ)、抗菌抗菌と叫ぶような潔癖症に限って、実は部屋の中がごみだらけだったり、町なかの地べたにお尻座りしたり平気でする人だと指摘されたものだ。つまり身体のため、美容のためと言ってビタミンを過剰に摂取する人が、ヘビースモーカーで酒豪だったりするのである。私たちはそのような解離症状にさして悩むこともなくなった。

*2:無論、これで批評が活性化するとも思えないが(文学の批評的機能なんてもうとっくに死んでるからね)、批評の言葉が少しでも共感のベースになってくれればいいと思う。このブログでは、一つの作品に関して、どのように消費される(べき)ものなのかを、とりわけ感情形成のポイント(つまりツボ)を押さえながら明らかにすることが主要なテーマになっている。要するに私は、自分の言葉を通していろんな人の感情と「つながり」たいと思っているのだけれど、たとえばこのブログにも掲載した、劇団ひとりの「陰日向に咲く」や阿部和重の「ミステリアスセッティング」や方波見大志の「削除ボーイズ0326」評でも、もっぱら「このツボを押せば気持ちいいよ」という話をしたかったのであり、同意反発をふくめてこれまでいくつかのレスポンスを頂いた。ほかに「いま、愛にゆきます」のレヴューなどで話したことは、講義のなかで最も学生の感情が揺れ動き、共振できているひと時だと感じることがしばしばある。「萌え」の話をしているときは、反発と共感がいっきに伝わってきて楽しい。いずれにせよ、サプリメント批評は、作品と受け手の仲介役であるべき批評の言葉を鍛える点において意義があるものと考えている。

*3:文芸批評でよく使われる評価の仕方は、たとえば、これはまさしくドゥルーズの「差異」だ! 「消尽」だ! とか、ほとんど意味をそぎ落とした物語批判の作品だとか、現代社会にふさわしい換喩的な表現・ジャンクな表現だとか、ジャンルの境界に生きるごとくサブカルチャーの表現・方法を意識したものだとか、かく言う私もけっこう利用させていただくロジックもふくめていくつか評価軸があるのだけれど、なぜそれが作品受容上重要なのかは明らかにされることはあまりなく、おそらく、文芸批評に関心のない人には何を言っているのか理解できないだろうし、それはまったくもって当然なのだ。

*4:総合薬は、このサプリメント効果との兼ね合いで処方、服用するべきだと考える。

*5:この発想はカントの美的判断に裏付けられたものだろう。