感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「好きだ、」の「、」

好きだ、 [DVD]

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石川寛「好きだ、」はとてもよかった。役者だよりという面もなきにしもあらずだけれど(単館映画好きにはたまらない配役)、宮崎あおい永作博美を繋げただけでも、この監督、よく女優を見ているなあと感心させられた。処女作の「tokyo.sora」を見ても、この人は「単館的」な女優のたたずまいが好きなんだなあとつくづく思う。ここで「単館的」というのは、素人ではだめだし、すれた固有名が立ちすぎてもだめで、その両義的な中間地点の顔を作ることができる俳優、といったところか。
あけすけな空への視線といい、対象に対する覗き見的角度といい、作品の撮り方は、小栗康平の「埋もれ木」なんかを連想させたけれど、どっちが先に作られたかは忘れた。そんなことはまあどっちが後先でもいい。後先論争は、著作権を盾にして、くだらないプライドを賭けた争いをしたい人たちがやればいい。
そもそも、「好きだ、」という作品は、そのような、自分の表現したものが先だとか何かの模倣だとか、先に表現した名作なんだからそれはすでにあらゆる人に伝達済みだとか、ひっきょう自分を中心にしてしか物事を考えられない人間に武装解除を迫る作品なのだ。
つまり、自分の思い、人の思いはどのように伝わるのか、あるいは伝わらないのかというテーマを、言語以外の、というか言語や映像にまつわる視覚や聴覚(あるいはそれら知覚感覚の重合)にスポットを当てながら、じっくりと映像化しているのが、「tokyo.sora」以来、とりわけ「好きだ、」という作品の核となるところなのである。
そのように考えると、対象を直接収めない覗き見的撮影といい、対象のやり取りのあいまあいまにスポーンと抜けるごとく、刻々変化する空の表情を挿入する編集といい*1、いちいち非常に屈折した撮り方は、このテーマ(人の思いってなかなか伝わらないってこと)と深くかかわっているように思える。

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物語の最後で、西島秀俊がぽつりと「見逃した」という、その一言がじつに重要なシーンがあるのだけれど、英語字幕では、ただ「I miss」とかなんとかになっていたと思う。けれど、その表現だとじゅうぶん「伝わら」ないんじゃないかな、英語ネイティブの人には、とか思った。…んだが、僕は英語環境で生活したことがないので、「miss」の慣用がどの程度のものなのかわからないから断定はできないけれど、「miss」は「見逃した」に限定できないぶん「伝わら」ないんじゃないかな、たぶん。
「聞き逃した」でも、「感じ逃した」でも、ほかの何でもなく、とにかくここは「『見』逃した」でなければならない。そのことは、この時この一言を聞くことによって、この作品全体を貫くように(あのときビニ本(古っ!)を買った彼に叫んだ彼女の「言葉」、あのとき会社の名前を聞いた彼に伝えようとした彼女の「言葉」…)、私たちに伝わるのだ。

ここで西島秀俊が、これから愛を育もうとする彼女(永作)のいまにも消え入りそうな「好きだ」という言葉に対して、ほかでもなく――むろん「聞き逃した」ではなく――「『見』逃した」といわねばならなかったってことは、言い換えれば、言葉ばかり信用するな、ということである。自分の思い、人の思いというのは言葉によってこそやり取りされ、伝わるものだということにしか意識を集中していない者には育めない愛ってものがあるということ。もとより愛というのはそういうものかもしれないということ。
だから、「好きだ、」の「、」は、そういう、「好きだ」と言葉にした(された)先から逃してしまう、大切な何ものかに対する思いの痕跡でありインデックスであった。何か逃してしまうものに対する思い。この思いがこの映画を作らせているのだとすれば、彼があのときぽつりと言った「見逃した」は、「聞き逃した」でもあるし、「感じ逃した」でもあるし、ひっきょう、あらゆる知覚感覚から逃れ去っていくものに向けられた言葉なのだと理解できる*2
この彼の思いは、逃してしまったものに対する後悔のあまり絶対見逃すまいとして視覚に特化するようなものではなくて、そのような特化・一元化は裏切られるほかないという断念を織り込んだものなのであり、その思いから彼は彼女との距離をおしはかろうとするだろう。それはむろん彼女の思いでもあり、長い年月をかけてお互いが育んだものであった。瑛太から西島秀俊へ、宮崎あおいから永作博美への「、」を挟んだ思いの繋がりが育んだもの*3

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ついで、というかこの映画を見て一番言いたかったことなんだけれど、石川さんが撮る「酒飲み」シーンは、無条件ですばらしいと言いたい。このひとは、人と酒を飲み交わすすばらしさをよく知っている。それはもうとにかくすばらしくて、この画面のなかに入って、いますぐにでも皆と一緒に、憂鬱な朝まで飲みたいと思う私なのだった。

*1:物語の筋に一見無関係な風景を挿入する手続きは小津とか古谷実とかを連想させる。ただし「好きだ、」の空は、表情を変化させながら繰り返し映し出されることで一つの連続性をも獲得する。物語の筋を中断させながら、なおかつ物語の連続性にかかわるこの空はまるで映画のようだということもできるだろう。

*2:言葉の意味伝達機能に疑いを持たなかったり、映像を単一の意味の塊としてしかとらえない人は、この映画が私たちに伝えようとする意味をとり逃すことになる。まあ僕も最初はこの西島秀俊の一言に戸惑った口であり、隣で一緒に見ていた人の助けを借りて少しでもその真意を手繰り寄せようとしたわけだけれど、けっきょく映画を見ることとは、様々な情報を逃しまくることと同義なんだとあらためて思った。逆に言えば、何かを伝えようとしても、相手にかわされまくっているということなのだ。しかしこの映画の特筆すべきところは、相手には伝わらないという絶望のなかから蠢く触手をとらえようとする意思のもとに作り手から俳優までもが動きだしているというところであり、言葉の意味に執着する私に武装解除を強いたのもその動きに他ならなかったと思う。

*3:彼らの間には、とりあえず彼が作ったものであるらしいが、それも定かではなく、誰のものでもないギターの楽曲が、要所要所で死や断絶をはらみながら鳴り響くのだけれど――演奏されたり口ずさまれたり、誰かに模倣されたり、付け加えられたり、完成したと言われたり、していなかったり、聞き逃されたり――、人々に愛され続ける「名作」というものがあるとすれば、恐らくそういうものではないだろうか。それなのに、これは俺のものだと言葉にしたときに逃れてしまうものがある。あなたは自分の権利とプライドを守るべくいまそう言ってしまったことで、もう取り返せない、多くのものを失ったのだ。