感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

陰日向に咲く美しい文学

月に何本かでも小説を読んでいると、この作家は《文学に対して何かをしようとしている》のか、それとも、《文学の中で何かをしようとしている》のか、くらいの見分けはつく。私のような文学の素人でもそんなのワケない。おそらく、作品の出来不出来を判断するよりも、それは容易な判別ではないだろうか。
ただし、おのれがいだいている文学像――文学とはかくあるべし!――を基本的に疑っていないような人は、死んでも分からないことだろう。そういう人は、文学がどうかあっては困るんだし、そもそもそのような判別基準があるだなんて思いもしない。
芥川賞の選考委員のなかにも、何人かはそういう人が含まれているんじゃないか、というのが前回話したことであった。何しろ、「賞狙いの何が悪い」って言っちゃう人がいるくらいだからね。そりゃあんたらが見透かされてるってことでしょうに(笑)。まあそんな開き直りが平気になってしまうんだったら、期待し期待される文学なるものの、出口のない無限ループのなかで、あなたがしがみついている文学はもっともっと細っていくことになるだろう。でも、文学は、あなたのあずかり知らない、いろんな場所に生まれ、生息しているものなんだよ。
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陰日向に咲く

陰日向に咲く

そういうわけで、劇団ひとりの登場。候補作に希望を見出したい、閉塞した現代のその先を見たい、とか言うくらいなら、たとえば彼に芥川賞を与えてもいいのではないか、と僕なんかは思うのである。
陰日向に咲く」好評ゆえに直木賞の話が出たとか出ないとか、ちらほら噂になったりしたのは聞いたことがあるけれど、直木賞じゃあ当たり前すぎる。本人にとっても、自信の担保が与えられたくらいにしか思わないのではないか。
だから芥川賞。こっちの方が偉いとかそういうのではなくて、さすがに予期していないだろうから。あの大江や村上龍と同じ栄誉に浴するなんて。
もちろん、そうなったときの劇団ひとり(の文章)がどのような化学変化を遂げるのか予想もつかないし、多少なり文学が変わった相貌を見せるのかも分からない。しょせん一人(Hitoriではなくonly one)の影響なんて些細なものだけれど、文壇内部の芥川賞らしい作品に芥川賞を与え、文学の古き良き伝統の継承を望むよりも、よほど希望があることだと思う。どんな希望かなんて知らないけれど。
こういうことを言うと、いろんな批判が出てくるだろうとは思う。たとえば、かりに劇団ひとり芥川賞レベルだとしても、文学に対して外から何かやらかしてやろうと意図しているようには見えないし、そもそも、他ジャンルからやってきた者ほど、いわゆる文学的なものに染まりやすいんじゃないの、というような批判。
もちろん僕も、他ジャンルからの人とか、文学に免疫のない人とかが、いきなり小説を書くと、よほど警戒しない限りベタに文学的なものになることを知っていなくはない。というか、そういう例はいくつも知っている。読み手が恥ずかしくなるくらいに重たい内面描写をしてみたり、知ったかぶりの前衛ぶってみてメタ物語なんか書いてみちゃったりして。
しかし、前回も書いた通り、劇団ひとりには、そういう素人臭さはない。それに、彼は確かに、文学に対して何かやらかしてやろうとしているわけではないが、他ジャンルですでに受け入れられているというその存在自体が、文学の中で何もやらかさない作家よりも相対的に希望がある、と言っているのだ。
どうせ、そもそも、何かやらかそうとしている作家の作品なんて、芥川賞の選考委員の多くは理解しようとしないわけでしょう。だって、いまや文学をせせら笑うべく着々と準備している金原ひとみには、これをあの純文学を代表する芥川賞として世に送り出してよいものか、というレベルの作品であっさり受賞させてしまったのだし(文学なんてたいしたことないと彼女に思わせる程度には貢献したのだろうが)、阿部和重の受賞は、いちおうこいつにはやっとかないと後々文句を言われかねない(村上春樹高橋源一郎島田雅彦を二度と出してはならない)とかなんとか、このとき何故か個々の選考委員が芥川賞の歴史とプライドを代表するごとく危機意識を発動させなければ、あんなわけのわからないタイミングになるはずなかったんだ。
むろん、たとえ知性と教養のある選考委員であれ、たかが一人の人間に、あれもこれも理解しろ、というのは無理な話ではある。むしろ彼らより僕のほうが圧倒的に、知っている物の数も、物の理解度も低いだろうことくらいは自覚しているつもりだ。たまたま僕のほうが感情移入できて理解しやすいものがいくつかあったというだけのことなのだろう。しょせんその程度のことなのだから、鹿島田真希中原昌也はいうまでもなく、阿部や金原さえも理解するつもりはなくても、それはそれで仕方がないとしよう。でも劇団ひとりの文章だったら、へえなんかやるじゃんと思えるだろうし、どうせなら賞やってみようか、くらいの英断というか好奇心があったっておかしくないと思うわけである。この人は、動機が高まるきっかけを与えさえすれば、きっともっと巧くなるなるはずだし、それに、変わったことをやれる素質というかセンスがある。僕はそう思っている。
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たとえば、文学作品としてはちょっとした違和感を感じる彼の文章の有様を、ここで解説してみようと思う。「陰日向に咲く」は、複数の挿話・ショートストーリーが相互にからまりあって一つの流れを組織するところに、構成上の特徴があるのだが、彼は非常に芸人らしく、というか芸人としての宿命のごとく、ショートストーリーごとに小噺的なオチをつけようとする。
それが一場一場の感動をもたらすように按配されているのだけれど、ときに二段三段構えでオチをつけようとしたり、(マルチストーリー、マルチプロットの構成上必然的に)伏線が複数組織されていたりするので、各所のオトシどころは、それって笑いのために組織されているのか、ジンとさせるべく組織されているのか、なにやら判然としないまま私たちに感情湧出させ続けるのである。
要するに、宿命のごとく半ば強迫的に導入されるその小噺的なオチの一々は、物語への私たちの感情移入を誘うよう巧く機能しながら、なおかつ過剰なのである。
ここで伏線を引いておくと、「品格」ありとされる純文学には、さもわかりやすいオチをつけることはきょくりょく避けられるべきだ、そうしていわくいいがたい余韻を残さねばならない、という不文律があることを、私たちはなんとなく知っている(どこでそんなこと覚えたんだろう?)。たとえば、「八月の路上に捨てる」における、お互いバツイチの男と女の人生には、エッジのきいたオチなどついてはいなかったし、「ドライブイン蒲生」の姉弟と父の関係もまた、その親疎の具合は曖昧にぼかさなければならなかった。彼らの人間関係を象徴するアイスピックや刺青といったイメージ群が要所要所に配分されることによって心理的な厚みを加えるとか、そのような間接的・暗示的な媒介を駆使したアプローチを通してのみ物語を伝えればいいわけで、メリハリのある展開にくわえオチをつけるなんて、この界隈では言語道断なのである。
しかし、劇団ひとりはこれを当然にやってのける。むろん、各々個性的な語り口でもってそれなりに悩みもする各ストーリーの一人称話者たちの内省を組織し、複雑といえば複雑な人間関係を組織するためには、上記の純文学的なアプローチをも欠かさない彼なのだが、彼の面白いところは、それプラス、メリハリのある展開に続くお約束のオチをつけるところなのである。作家として文学を書きたいのに、ついつい芸人気質が顔を出してしまうというか。
この矛盾は、しかし、破綻の呼び水とはならない。むしろ、物語の構成上かなり巧く機能する方向に貢献している。なぜなら、この物語の構成は、時空を異にする各ショートストーリーにそれぞれの人間関係を配分しながら、海底を渡るモーゼのごとくそれらを結びつける一人の男が各ストーリーごとに顔を出し、痕跡をとどめるからである。その男は、言うまでもなく、芸人だ。
各ショートストーリーの要所要所に笑いと哀しみを呼び起こすその男は、過剰かつ欠かせぬ存在として私たちに笑いと哀しみをもたらすだろう。その男の名は雷太という。以下、彼を軸にして物語がいかに構成されているかを確認しよう。それによって、劇団ひとりの構成力の確かさが明らかになるはずである。
ついでにいうと、この雷太のように、他の作中人物とともに生きながら、どこかしら過剰であるというボーダーライン上の存在を生き生きと描き、物語構成上の軸にすえる作家の手つきを、たとえば絲山秋子が「海の仙人」や「沖で待つ」においてファンタジーや幽霊というキワモノをあられもなく登場させる、それはそれでG☆Jな大胆さと比べたら、劇団ひとりは純文学的に節度がある、ということもできるだろう。
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前言の通り、全編通して登場する雷太なのだが、その補足時間は、まず彼が演壇デビューする前の、芸人の卵時代から、売れないニワカ芸人時代を経、やがて歳をとり、家もなく身寄りもない境遇に落ちぶれる老後にまで及んでいる。彼は、人を笑わせる芸人になることを夢見ているが、そもそもそんな資質の欠片もなく、中途で挫折することになる存在なのである。
なにより彼の致命的な欠点は、ウケ狙いの話をみずから落とせないところ、オチをつけられないところにあった。根っからのボケ的体質なのである。しかし注目すべきは、それがある特定の人々――自分に自信がなかったり、なんとなく人生の不安を抱えていたり、あるいはむしろ雷太と出会うことで自分の抱えていた不安を意識化したりするような人々――の視線を誘う、ということだ。わけのわからない侮蔑の対象としてであれ、虜になるほど魅了される対象としてであれ。一瞬のすれ違いにおいてであれ、継続的な繋がりにおいてであれ。要するに、直接間接に彼は、ツッコミを入れられるのである。
かくして、ここが重要なのだが、彼のみずから話のオチをつけられない――それはだらだら生きてしまった、オチない人生と重なるのだが――ボケ的存在は、それぞれのショートストーリーの人々の話に、つまり彼らの人生に、一つのオチをつける呼び水となるのである。それはささやかな幸福感あふれるオチであり、だから彼は、直接間接に人々を救っていることになる。みずからあずかり知らないところで。
要するに、こういうことなのだ。みずからオチをつけられない芸人・雷太のツッコミどころ満載のボケ的存在が、通り過ぎるところ直接間接に、身動きがとれないでいる人々の変化の呼び水になり、結果的に救済の手助けをすることになる、ということ。かくして各ショートストーリーにオチがつくのである。
とはいえ、第一話目の焦点化人物によって「モーゼ」とさえあだ名される雷太なのだが、彼は、全編通して、人々の「救い主」のポジションに立たされ続けているわけではない。彼もまた救われるのである。彼が他の人々を「救った」ときと同じように、彼が「救われる」ときも、偶然とすれ違いと誤解に満ちた、哀愁ただよう救いなのだが。いずれにせよ、雷太もまた、人の助けを借りて人生にオチをつける。
ここが、劇団ひとりという作家の構成力の確かさを裏付けるところである。また、芸人としての彼の、ボケとツッコミに対するシンプルな考え方の現れであり(つまりボケとツッコミは一人物に固定的に割り振られるものではない、という関係性を軸に置いた笑いのとらえ方)、そこでは笑いと哀しみは相互補完の関係として機能するのであり、ひっきょうこの物語の最も感動的なところなのである。
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雷太を救ったのは、彼とお笑いコンビを組んだことのある一人の女。むろん彼女がツッコミ役なのだが、彼女は、彼のみずから話のオチをつけられない全身ボケ的存在に救われた者なのだった。つまり、他の人々が彼にしたように彼にツッコミを入れ、彼女自身の人生に一つの話のオチをつけることができた、一人の被救済者でもあるのである。
救われた彼女は、笑いにセンスのない雷太を憐れみ、彼とコンビを組むのだけれど、この物語にとってそのような自己満足的な救いは救いではない。むしろ、彼と無理してコンビを組んでいるように見える彼女がぎゃくに彼に憐れまれ、ツッコミを入れられるとき、そうして彼女がボケの側に反転したとき、そのときこそ彼女は、雷太的な救いを雷太に施しえたのである。雷太は彼女に救われる。
彼女に救われているなんて彼には思いもよらないような、むしろ半ば迷惑な形での救い方なのだけれど、そこにいると思ったら消え、いると思ったらどこかに消え去る陰日向の花々をふいに見つけてしまう彼を、彼女もまた彼と同じように、持ち前の執念と諦念が交わった境地から、何度もくり返し見つけてあげるのである。「へへ、また会うよ」と彼女は彼に言う。
本作のタイトルにもなっている陰日向に咲く花とは、彼が救った彼女のことであり、他に何人か救われた人々の比喩なのだが、彼のことでもあったのだ。関係は反転する。反転しながら前に進む。とにもかくにも、ここで彼の人生に、一つのオチがつく。物語の構成上も、一話一話ごと小噺のようにオチがつけられたのだが、そのオチをつける手助けを直接間接にしていた雷太が語り手となる最後の話にも、舞台で何度もツッこんでくれたように彼女のアイの手を借りてオチがつけられ、かくして「陰日向に咲く」は完結するわけだ。
ただし、最後の最後でさらに視点が移動し、二頁ほどの小話がそえられる。ここまで総勢6人の、それぞれ独特な語り口を持つ私語りによって構成された本作だったが、最後の小話で視点は雷太から三人称視点に移動する。作中人物の誰のものでもないこの視点は、雷太と彼女をとらえる。陰日向に咲く花をとらえるように。
芸人・雷太から語りのバトンを得たこの視点はむろん芸人・劇団ひとりのものである。この小話もまた、あの微笑ましくも哀しいオチがつけられるからだ。しかも、なんとも気がきいたことに、そのオチをつけるのは、物語上は雷太に対する彼女のものなのだが、三人称視点との関係上、それは私たち読者の声でもあるのである。
雷太−劇団ひとりにツッコミを入れた私たちは、さて、いかなるものにツッコミを入れられ、希望を育むべきなのか?
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僕の記憶が誤っていなければ、劇団ひとりは、好きな映画としてジェームズ・マンゴールドの「アイデンティティー」を挙げていた*1。おそらく、メタレベルの操作を踏まえた高度な構成力に魅了されたのではないか、と推測するが、マルチストーリー・マルチプロット的な各挿話の連携具合といい、雷太を軸にした伏線の数々といい、オチの出来栄えといい、凡庸なメタ物語に終始している「アイデンティティー」なんかより――ここには、メタレベルの操作を駆使したサスペンスにより、観者をあっといわせたいという欲望ばかりが垣間見え、鼻につく――、本作の方が二枚も三枚も優れているといっていい。むしろ李相日(リ・サンイル)の「BORDERLINE」を連想したりするのだけれど、こんなふうに陰日向に咲く花々のリレーを、少し思い浮かべてみるのもいいかなと思った。いるようでいない、どこかの境界で書かれたり読まれたりする文学のこととか。

*1:アイデンティティー」といえば、阿部和重の「プラスティック・ソウル」との構造上の類似を挙げることができるのだが、ジャンルが異なるとはいえ、同じような素材と骨格でも、作家しだいで凡作にもなれば傑作にもなる、という非情な事実の好例ではないだろうか。