感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

美しい文学畑の陰日向に咲く

今回の芥川賞の選評を読んでいて、ひとつ感じたことがある。至極単純なことなんだけれど、つまり「お前らそろそろ希望的観測を語れや」と、選者が口をそろえて言っていることなのだ。最近の作家は、暴力とか病気とか精神的荒廃とか否定的なキャラ属性なり背景を物語に設定していて、さすがにもうウンザリだ、というわけである。なるほど。
しかしなんだろう、思えば、いい意味でも悪い意味でも、ちょっとでも気に入らないものがありしだい難癖つけたり、斜に構えて批判したり、とりあえず壊しとこうって感じでやってきた親の世代が自分の子供に向かって、ゲロ吐いた後の掃除をしといてって、平気な顔で言っているようで、おかしかったんだけれど、むやみやたらに暴挙に出たり、見境なく発情し、どこにでもゲロを吐くことしか知らない世代の作家たちは、あなた方の後姿を見て育ったんだよとも言いたくなる。この期に及んで、だったらば、希望的観測はいかにして語られるべきなのか?
もちろん、いまさら「美しい国」だの「美しい日本」なんて語っちゃまずい。だって「美しい日本」とかいうものは、とっくの10年以上も前に「曖昧な日本」(大江健三郎)だということが暴露されたわけだし、それに、「美しい日本」を世界に向けて発信した元祖の川端康成でさえ、そんなもの嘘っぱちで内容空疎な、かなりいかがわしい代物だということをよくよく理解したうえで語っていたはずなのである。まあ「美しい日本」を語る以上は、かなりの覚悟がいるってわけで、聞く方もとりあえず疑ってかかるべきなのだ。
芥川賞の選考委員だって、そんな簡単に希望的観測を語れるとは思ってもいないだろう。しかし、たとえば、選考対象になった鹿島田真希氏と中原昌也氏のようなタイプの作家、つまり、何かを物語りたいというモチベーションが優位にあるタイプではなく、何かを語るにしても、それはどのようにして語られるべきか、というスタイルの問いを優先させるタイプに、批判もしなければ、まったく触れようとさえしない――単に触れられないんだろうけれど――評者が多勢を占める選評を読んでいると、そもそも、おのれの価値基準なり趣味判断を揺るがすような、新しい何物かの到来に、おびえながらも期待している人は、どれくらいいるのかと疑わしくもなる。
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評者の一人、山田詠美氏は選評のなかで、「賞狙いの作品」があると書いていたが、今回受賞した伊藤たかみ氏の作品(「八月の路上に捨てる」)なんかは――『ドライブイン蒲生』とか近作も含めて――、もう誰が読んだって、芥川賞獲らせていただきます的な作品に仕上がっている。
前回受賞した絲山秋子氏の「沖で待つ」もそうだと思うけれど、誰にも文句を言わせないほど芥川賞にふさわしいこれらの作品は、最低限話題作はおさえる人とか、「文芸春秋」を通してたまに小説を読むような人たちにとっては、なん十年経っても、背景の風俗の変化以外はなにも変わらない純文学なるものを再確認し*1、「美しい日本」がいまだ存在していることに安心するための精神安定剤として機能しているように見える。
むろん、伊藤氏や絲山氏の作品はこのような利用に終始するものではないし、彼らの語り口の職人的な巧さは舌を巻くことしばしばで、読んでいて心地良いものなのだけれど、なんと言えばいいのだろう、彼らの作品は、あくまでも芥川賞のための作品として優秀であって、芥川賞を変える作品ではないと思うのだ*2
私は、文学作品に、なにか希望とか期待すべきものが語られるべきだなどとはまったく思っていないけれど、文学に妙な異物が入り込んだり、それによって少しでも文学の様相が変わるような事件は、いつでも期待し歓迎する者である。文学というジャンルのいいところは、音楽、マンガ、アート、映画など他のジャンルで活躍している人たちを、比較的容易に引きずりこめることでしょう。なんといっても、言葉は敷居が低い。じじつ文学ほど、他のジャンルから人材を起用しているジャンルはないのである。
というわけで、もともとそういうものなんだから、いまさら恐れるのは無意味。むしろ、何か変わったことをしようとする欲望にまみれた作品を積極的に招き入れ、囲い込んでしまった方が、賞を与える側にとっても、受賞側にとっても、もちろんその予備軍にとっても、希望的観測のある解法なのではないか。そう思う。少なくとも、芥川賞らしい作品を芥川賞にするよりもずっと希望がある。
再び山田氏によれば、選考会で「賞狙いの作品」を指摘したところ、「賞狙いの何が悪い」と居直った選者がいたとのことだが、文学の希望というか、他ジャンルに引けをとることなく、今後もなおのこと文学を楽しむ希望を求めるのなら、もちろん、「悪い」。
文学には、古典芸能的にマイナーチェンジをくり返して満足するような側面があって、それは洗練の極み、完成度の高さの点で非常に満足させてくれるのだが、ジャンルが細っていくなあという思いも同時にある。もう一人の選考委員である村上龍氏が、今回の候補作を評して、何かの「なぞり」にしか見えないと言ったのも、おそらくそういうことだろう。
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純文学の側に立って言うと、ここ十数年の文学は、J文学なる新奇なカテゴリーを立ち上げ、他ジャンルからの人材の起用を積極的に行い、最近では、舞城王太郎氏はじめ大衆文学やライトノベル関連の作家をとり込んできた*3
これらの一見リベラルな策は、おりにふれ批判にさらされてきたことを、私たちは知っている。確かに、それは、純文学の慢性的な病を一時的に取り繕い、不要なものまで延命させるように機能したかもしれない。
しかし、動機はなんにせよ、そういう動きがあるということは、文学は何かを期待しているし、文学に私たちは依然として何かを期待し、希望を見ようとしているという証拠ではあろう。結果的にどうなろうと、吉が出るか凶が出るかという瀬戸際で賭けをしないと、予想通りのサイの目しか出てこない。
最近の芥川賞を見ていると、予想通りの評価を下しながら(受賞者との、無限ループ状の共役関係の成立)、予想に反した作品を期待する、という隘路に落ち込んでいるような気がして、だから、彼ら選考委員が口をそろえて受賞作にいわくいいがたい不満の一句をそえるのは、受賞作に責任があるというよりも、そんな彼らの(文学の?)置かれた状況ゆえではないか、とさえ思いたくなる*4
当たり前のことだけれど、変てこなものに対する好奇心はやはり重要なのだ。たとえば、異なるジャンルとメディアの境にあって、一作ごと、どこにいるのか、どこにいこうとしているのかつかみづらい阿部和重氏とか、それこそ一作ごとに、いろんなジャンルから吸収しているとおぼしき、(近作「オートフィクション」にいたるまで、「身体と意識」というテーマは一貫していながら)成長と相まった生成変化を遂げる金原ひとみ氏とかを読むにつけ、その思いは確信になる。
彼らは、私に、何か希望めいたことを語ってくれるわけではない。むろん次回作はつねに期待しているのだけれど、彼らの作品が私に与えてくれるのは、未来に訪れるだろう何かとかいったものではなく、作品ごと具体的に注入してくれる快楽であり、感動であり、欲望である。それでもなにか希望がほしけりゃ、そこからてめえがどうにかするもんだ。いうまでもないことだが、病気とか暴力とか精神的荒廃が描かれていようがいまいが、この感動と快楽を前にすればそんなことはどうでもいい。
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なんだかガラにもないことを書いてしまったけれど、とりあえずは変てこなものに媚びを売ってみればいい、と。俺様の価値基準を変えるのはお前たちだと胡坐をかく前に、自分から折れてみたっていいんじゃないの? と私は団塊の世代に言いたい、って話が違うけれども、まあそういうようなことです。
そもそも文学は、「美しい日本」みたいなもので、曖昧きわまりなくどうにでもなるようなジャンルなんだから、「自分はもう文学じゃなくてもいい!」と一人賭けに出てみるかっこよさが、思わず知らず文学を違った相貌に変えていたりなんかするんじゃあないのだろうか。期待通り、ではなく、期待を裏切って。
とはいえ、あまりにも理解不能だと感じる作品に、むりやり希望を見出せ、というのも無謀な話ではある。クロマニョン人がいきなり「時をかける少女」を見ても、希望とかいう以前の話だし、初めて火を起こした原始の話を未来人にしても、そこから具体的な希望の灯などつきはしない。
そこで、いま私の念頭にあるのは、劇団ひとり氏の「陰日向に咲く」である。一、二理由を述べよう。まず、本作には、望み通りの希望的観測が語られており、「泣ける」ということで評判にもなったものだ。それに、職人的な語りの巧さという点で、直近二作の芥川賞受賞作家と比されるべき技術を備えており、物語の構成力という点では、「八月の路上に捨てる」以上の出来栄えの「ドライブイン蒲生」の、これぞ純文学という完成度の高さに比しても一歩、いや二歩リードしている。

陰日向に咲く

陰日向に咲く

以上鑑みるに、お笑い芸人だから駄目だというわけのわからない保守的横暴さえ顔を出さなければ、現行の選考委員にとっても無理のない候補作として挙げられるだろう。そのうえで、彼がお笑いと文学との間に線を引き、純文学のなかで活動するということは、それだけで希望の灯であり期待されていいことだ。期待通りの効果しかもたらさないのか、期待を裏切るのかはわからないけれど、文壇内部の芥川賞らしい作品よりも期待値は高い。むろんこれは、彼の文章上の技術値・経験値を見込んだ上での話であって、他ジャンルからだしとりあえず面白そうだから的な、ウケ狙いの発想によるものではない。
ちなみに、芥川賞直近二作の受賞作との比較のなかで選べと言われたら、私なら文句なしに「陰日向」を推す。直木賞になんかくれてやらない。ただ困ったことに、本作好評につき、彼は当面次回作を書かないと守りに入っているが(「ライトノベルを書く!」所収、大槻ケンヂ佐藤大とのトーク)、受賞さえすれば、書かねばならなくなるし、書きたくもなるだろう。三島賞あたりでもいいから、受賞をきっかけに「新潮」とか「群像」に書いてほしいんだけどなあ。

*次回は「陰日向に咲く」の作品解説をします。

*1:風俗の変化といっても、文三と代助以来、リストラおやじとニートな青年は変わってなかったりするんだが。

*2:どちらがすごいのかは、人それぞれの価値観による。

*3:また、「セカチュー」「いまあい」「博士の愛した数式」「東京タワー」に代表される、最近のいわゆる「泣かせ」本ブームは、(伝統的に大衆文学が得意とする)感情操作への着目といい、ジャンル・メディアミックス的な展開といい、純文学の周辺にあって注目すべき動向だといえる。というか、「泣き」要素でさえいまや、純文学とは無縁だとかその周辺だとは言えまい。そもそも片山恭一氏や小川洋子氏は純文学出なのだし、今回芥川賞の候補に挙がった島本理生氏も、「ナラタージュ」など泣きものとして評価される作品がある。他方、サブカルライトノベル経由で「萌え」要素にもすでに免疫ができている純文学である。「萌え」も「泣き」も、「美しい日本」とかいう、かつては誰もが共有できた希望なり理想がもてなくなった現代における欲望の、人それぞれの処理の仕方なのではないかと思っていて、まあ要するに、美しいかどうか、とか、正しいかどうかとか、考えさせるものかどうか、といったことより、泣けるかどうか、萌えるかどうか、つまり感情移入できるどうかが、よりいっそう重要になってきているということだ。そんなものは、しょせん、おたくとかろくにものを考えない庶民に限られるだろうという反論もあるかもしれないけれど、たとえば国旗・国歌「燃え」の官公庁や、テレビ映りや広報ばかり気にして、個別具体的な案件よりも、内容空疎な「美しい国」だの「品格のある国」だのを理想として掲げたがる政治家たちを見ていると、やっぱり何かに手っ取り早く感情移入したいんでしょうといいたくなる。けっきょく、アニメキャラに萌えることが理解できない気持ちもわかるけれど、あの国歌に乗れない人がいることもよく分かるのだ。だから、公私の場所問わず、誰にも迷惑をかけていない個人の思想信条を縛ろうとするのは、どうかと思う。子供の躾上よくないとか言う以前に。かといって、コンテクスト・フリーで国旗・国歌には絶対反対という気持ちも、どうかと思うんだけれどね。あの歌はいまいち好きになれないけれど、ここではとりあえず歌っとけ的な精神もありだと思うんだ。

*4:この隘路からの脱却としてひとつ考えられることは、一作品ごとの甲乙評価よりも、たとえば文学総体にとってどういう影響を及ぼすかという機軸を導入することだろう。