感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

時を逆行する批評

すでに私は、記憶障害ものとよみがえりものについて、話をしている(06-01-23と06-04-20の日記)。最近の娯楽作品でよく採用される、この二つのテーマに深く関わるものに、タイムトラベルがある。以前話題にした「いま、会いにゆきます」も、タイムトラベルがからんでいた(06-04-20の日記)。これについては話をしようと長らく思っていて、ちょうど社会学者の宮台真司氏が彼のサイトでアニメ版「時をかける少女」(細田守監督)について語っており(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=392)、タイムトラベルもの・タイプリープものの明快な見取り図を立てておられるのに触発され、以下、書いてみようと思う。
ただし、話は、タイムトラベルというトピックにとどまらない。むしろ、文芸批評のスタンスはいかにあるべきか、という方向にいつのまにか力点移動しているような論考になってしまった。
その論点は、以下の通り。つまり、私自身、社会学のフレームは、批評をやる上でよく採用するけれど、その明快さをどこかで疑っている自分がいる、というようなことだ。ちなみに、文学研究なんてその明快さ以前だろ、っていう実にその通りの批判は、ここでは棚に上げさせていただく。
むろん、社会学やカルチュラルスタディーズなどを、無批判に、ということはつまり方法論に対する疑いの欠片もなく、文学研究に採り入れている私(たち)はたえず、このような批判を意識していなきゃいけないと思っているのだけれど。文学研究は、明確な方法論がないことが強みであるとは思うけれど、それに甘えることはできないわけだから。


宮台氏は言う。「最近作『時をかける少女』(06)(以降アニメ版『時かけ』)を見れば誰もが驚嘆する。NHK『タイム・トラベラー』(72)や大林宣彦監督『時をかける少女』(83)と比しても最高傑作だ」、と。筒井康隆氏の原作(65)が世に問われて以来、数多くのリメイクがなされてきた「時をかける少女」だが、それら一連の作品に対して批評的な優位に立つアニメ版は最高傑作だ、と。なるほど最高傑作かあ、とその思い入れに感心するのだけれど、その最高傑作の理由として挙げられているのが、「自己再帰性」の導入、ということになるようだ。どういうことか?


時をかける少女」のヒロインは、ある日、タイムリープという超能力を獲得する。彼女にとってそれは、とつぜん自分の身にふりかかったトラウマチックな事件であり、それをきっかけにして起こる一連の過去の出来事を否定的にとらえ、そこからの回復を目指すことがテーマとなっていた。
しかし、アニメ版は、獲得したタイムリープに対する処し方が異なる。そこでは、タイムリープをさほど否定的にとらえることのないヒロインが、その超能力に半ば享楽的に自己投企し、かかる投企の反復が自己再帰的な時間の循環を作り出すことになる。それが物語の原動力となり、やがてその循環そのものが、ヒロインにいかなる変化をもたらすか、ということがテーマとなっているわけだ。
つまりアニメ版の骨格をまとめると、第一に、タイムリープへの自己投企による、自己再帰的な時間の循環が作品の原動力(トラウマからの回復、ではない)。第二に、自己再帰的なタイムパラドクスにからめとられた無限循環からの、ある種の倫理的な跳躍が見せ場となる。以上。
ああすればよかった、こうすればよかった、という後悔をまじえた思いから、そのつどやり直しの微調整をすべく時間を遡るヒロインに、決定的なかたちで現れる「そうすべきだ!」「そうするほかない!」という局面が到来すること。それは当然、トラウマからの回復というかたちで現れるものではないだろう。
トラウマチックな苦境から回復を目指す物語として設定されたオリジナル「時をかける少女」の時間概念を、そのまま継承したこれまでのリメイク版とは異なり、自己再帰的な時間にリメイクしたアニメ版。宮台氏はこの点を高く評価し、それこそ、私たちが生きる現代社会の時間概念に対応したものだとまとめる。ロジックは見事だし、なるほどと思う。しかしこれが大傑作のキーポイントとされると、なんとなく腑に落ちない。なぜかって、私は大林版「時かけ」の大ファンだから。まあそれだけといえばそれだけなのだけど、それ以上の疑問を強いてあげれば、この作品のテーマである時間概念を、現代社会の要請にしたがってリメイクしえたことが、作品の評価にそのまま繋がるのか、ということが疑問。
たとえば、自己再帰性を、作品構成上の価値評価の基準にすえることは、いまにはじまったことではないし(大衆化とかモダニズムとか構造主義とか)、もとより、自己再帰性をモチーフないし作品の原動力にしたものは、タイムリープもの・時間錯綜ものに限定しても、あんがいある。とりあえず良作として挙げられる映画を例示しておくと、ビル・マーレー主演の「恋はデジャ・ブ」(93)、「バタフライ・エフェクト」(04)、それに「恐怖新聞」を(現代風に?)モチーフにしたホラー映画「予言」(04、鶴田法男監督)なんかがそうだ。もちろんこれらにも、アニメ版「時かけ」と同じような倫理的な跳躍、倫理的な問いかけが、終盤にかけて仕掛けられている。

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だいいち、大林版「時かけ」は、宮台氏が単線的な時間概念に収まるというオリジナル「時かけ」グループに、単純に収まるものではない。私の06-04-20の日記でも触れているけれど、大林氏のスタンスは、たとえば、こちら側の時間とそれ以外の向こう側の時間が直線的に流れるものであること、こちらの世界と向こうの世界が分けられていること(だからちょっとしたイレギュラーは一定期間を置いて回復されるべきもの、とみなされるような時間概念)に、疑いを差し向けつつ、しかしそれでもなお、不可逆的に時は流れるものだ、という倫理的な問いを私たちに投げかけるものである。
ところで、時間の不可逆性が、単なるSF的な趣向にとどまらず、ある種の倫理的な相貌を帯びるのは、そこに恋愛とかひとの生死とかいった関係が関わってくるからだろう。もとよりアニメ版「時かけ」にとって重要なのは――そして大林版もそうなのだが――自己再帰性とかいった時間概念以上に、その外的要因の方にあるのではなかったか。
渦中にある時間の流れに影響を与え、あるいはそれを駆動し、変容を来しさえする要因。アニメ版と大林版の「時かけ」においてそれは、何より恋愛であり、不意に垣間見せるセクシュアリティであり、子供から大人への不安定で不可逆的な時間の結節点であった。ちなみに、原作にも恋愛のモメントはあったが、それは、最後にとってつけたようなものでしかなかったはずだ。そこでは、男女二人の年齢差がありすぎて、「あなたを好きになってしまった」と唐突に告白する男の子に対して、読者は、SF的文脈以上のなんの感情移入もしないし、じっさい、作中での女の子も基本的にしらけた対応しかしない。


話を戻そう。大林氏は、単線的な時間概念を疑っていた。むしろその疑いを表現するために、タイムリープを導入し活用した、と言っていい。それはむろん、単線的な時間を強化・活性化するためのものではない。むしろ大林氏の作品はどれもこれも、そのような試みの断念に裏付けられた色合いを持っている。
たとえば、彼の「時をかける少女」は、つねに画面を不安定なものにして、私たちの目を眩ます。そのような効果を巧みに上げるものとして、動く人形とか、二人の男の子をめぐる指の傷の記憶違いとか、いくつか指摘できるが、ここでは主だった二点を指摘するにとどめる。
まず、煙状・湯気状の不安定なものを、くり返し画面上にからませる効果。最初に登場する、フラスコから吐き出されるラベンダー香の気体にはじまり、必要以上に存在を強調する紅茶の湯気、墓前で焚きだされる煙、醤油工場の樽から立ち上る湯気、しばしば漂う霧、火事のぼや、屋根から瓦が崩れ落ちるときの粉塵などなど。それらの場面では、画面の向こうとこちら側の境界がぼかされ、曖昧になるだろう。また、それと同じような効果として、オープニングからラストまで、おりにふれ細工される退色効果・古色効果が挙げられる。以上の効果により、時間に対する大林氏の疑いなり断念は明らかだ。
それになにより、大林版のヒロインには、過去への拘りなどなかったし、被害者意識もなかったはずである(周りの人も彼女自身も、原作にあるようにタイムリープをいかがわしい超能力だと思っていないし、自分にそなわった能力としてけっこう当然のように行使したりもする)。トラウマ的な出来事が過去にあって、その回復に至るという単線的な時間概念は、そこにはない。むしろ、なにものかへの変化を遂げる過程が大林氏の問題であった。そこには、私とあなた(他者、社会)との関係にあって、時間というものがいかに不安定なものか、という問いがこめられている。この問いゆえに、子供から大人へのイニシエーションとしての過渡期が重要だったのであり、そこに大林氏は、尾道という古き良き街並みの、不可逆的な都市化を背景に重ね合わせてもいたのだ。

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ここで、ヒロインの芳山和子が行う最後の決断について論証しておこう。宮台氏は、オリジナル以降のグループとアニメ版の決定的な相違点として、この部分を取り上げていた。
自分の置かれた状況を知りつつあるヒロイン。彼女は、最後に、一つの決断をする。深町一夫と堀川吾郎、二人の男の子の間で揺れ動いていた(ことをしだいに自覚する)彼女は一つの決断をする。吾郎に「ごめんなさい、さようなら」と謝罪し、未来から来た一夫に「連れて行って」という彼女の決断。しかしその決断は、時間という、思い通りにならない流れ――それを体現しているのが、彼女に超能力を与えてしまった未来人の深町一夫――を前にして断念せざるをえない。しかも、この決断とそれに至るプロセスを、記憶から抹消される運命に、彼女は置かれることになる。とうてい聞き入れられない、独りよがりの決断だとしても、自分の経験が導き出した、大人への一つのステップだったというのに。

他方、宮台氏は、自己再帰的な循環の中から辛うじて自分が導き出した(必ずしもハッピーではない)決断を、記憶にとどめること、引き受けることが、再帰性が倫理となった現代における自己への向き合い方だとして、それを採用したアニメ版のリニューアルポイントを評価した。私もなるほど、その通りだなと感心した。
しかし、記憶にとどめていたくても、思い通りにとどめていられないという、記憶にまつわる根本的な問題は、今日ではもうどうでもよくなったのだろうか。これは、以前、「否定神学」(記憶・記録にとどめられていないものには手を出すな! 語られないものは語られなくていいじゃん!)にいきつく考え方だとして退けられた記憶の問題でもあるわけだが、大林版をいま見直してみると、ちょっとそんなことが頭をよぎったのだった。大人はもう子供に戻れないというような、記憶にはそういう側面も依然としてあるのではないか。そこに「否定神学」的に居直っちゃあいけないけれど、記憶というものに対する根本的な不信感なりその理不尽さに、自己の倫理的な、というか存在論的な問題を再確認してもいいのではないか。記憶が、自己の外部に大量にストックされ、検索するなり再帰的にインストールされるというような、記憶の出し入れが容易な時代になった現代にあってもなお。
考えてみれば、いまだって十分、記憶というものはゴキブリみたいに、不意に隠れてしまったり、増殖したり、何か別のモノのふりをしたり、ひっきょう思うようにならないものではないのだろうか。
まあ、このへんの問題は、いまはおいとく。ここで問うべき問題は、大林版「時かけ」は、タイムリープにまつわるトラウマ的な記憶を完全抹消してハッピーエンド、という単線的なループを描かずに終わっているところである。オリジナルとは違い、成人したヒロインのエピソードを置くことで締めくくられる一シーンを見てみよう。
そこでの彼女の現在時は、過去の記憶・過去の時間に拘束されている。つまり、過去は絶望的に忘れられてしまうものなのだけれど、なんらかのかたちで記憶にとどめられているのであり、その積み重なりによって現在時は成り立っている、という時間理解である。しかもこの彼女を見ていると、それは必ずしもハッピーエンドとは言えず、したがって、タイムリープの不安定な時間から解放された状態とはとうてい言えそうにない、見れば見るほど不気味なラストになっている。
成長した芳山和子。大学院に在籍しているという彼女は、自分の記憶から抹消されたあの一夫と同じ薬学の研究に没頭し、未来人の彼との、出会えるはずのない出会いを待ち望んでいるかのようである。それは彼との愛を貫き通す、ハッピーエンドのようにも見えはする。しかし、吾郎の誘いを断り、現在進行形で恋愛することを断念した彼女に、そのような表情を読み取ることは躊躇せざるをえない。むしろ彼女には生きた表情がなく、そのぎこちなさは、あの、時の番人のように彼女の部屋に飾られていた不気味な人形そっくりなのだ。記憶の不在と未来の不在にさしはさまれ、滞留する「時」をさ迷う「彼女」。未来人の一夫に対して、時の亡者・時のさ迷い人にならないように誓った芳山和子は、それに縛られるあまり、身動きがとれないでいる*1
しかしこれはやはり、たとえ意識化されないものであっても、彼女の選んだ決断の結果なのであり、幸か不幸かは決定不能なのである。思い出そう、かつて指に傷を負いながらも彼女を助けてくれたのは、一夫だと思っていた彼女だったが、指に傷があるのは吾郎の方であることを彼女は知ることになる。一夫に記憶操作を施されていたわけだが、吾郎の方にこそ自分とのかけがえのない過去があることを知ってもなお、彼女は、時をゆがめ記憶を改ざんした一夫(存在するはずのない存在)の方に愛を確認し、かけだすことを決意したのだった*2
このように幸か不幸かは分からないエンディングではある。しかし、これだけは言える。ヒロインにとってタイムリープとは、一人の女性として愛することを覚え、自分は誰を好きになろうとしているのか、そうして誰かと時をともに生きていこうと決めたとき、どのような時を切り落としてしまうのか、といったことを、過去の記憶を辿り直してみたり、そのなかでシミュレーションしてみたりしながら(吾郎を、瓦の落下から助けるシーンなど)、少しずつ確認していく作業のことにほかならない、ということだ。すなわちここでのタイムリープは、大林版「時をかける少女」の、時間に対する疑義の比喩なのであった。
最初に超能力を得てしまった時間に、一夫の手を借りつつ引き戻されることを決意するときだって、彼女は、普通の女の子に戻りたいと言うのだが、それはとってつけた口実に過ぎない。むしろどもりながらも口にすることがあって(「わたし、深町君が…」)、このとき彼女にとって気になる深町一夫を失うことになるかもしれない最後のタイムリープは、トラウマの回復が望まれているようなものではないことは明らかだ。時と記憶が加工されたものであることを了解しながら、彼との現在をつくり直したい一心に、過去にタイムリープしたのである。それは過去の総決算であり決別であるかのように、彼女の過去の出来事を次々とモンタージュして見せてくれるなかで、彼女は一夫に告白すべく遡ることになる。


そういうわけで、いろいろ言い様はある。たとえば、大林版は、単線的な時間概念に疑いを差し向けたという意味で、アニメ版の自己再帰的な時間概念を準備した、橋渡ししたポジションにある、という「時かけ」史を編むこともできるはずだ。
けれども、こういう発展史観というか、そのつど時代に見合ったテーマを採用し装ったものが、その前の時代の作品を乗り越える、という考え方で作品の価値を決めることができるのだろうか、という思いが抜けない。
むろん宮台氏のテキストは、こういう社会学的発展史観に単純に回収されるものではないのだけれど、それゆえにこそ、疑問が残るのである*3。この今を生きる私ゆえ、その説得性に思わず頷いてしまうのだけれど、ちょっと立ち止まってみたい、私の、大林への個人的なこだわりが、おそらくあるのだろう。

*1:こういう解釈も非常に現代的だよね。グローバルかつリベラルに流動化する「時」への抵抗としてのひきこもりとかなんとか。

*2:かくして最後に、虚構の世界にかけた「時をかける少女」だからこそ、あの、「いままでのものはフィクションですよ」ということを知らしめる感動的なエンドロールが実現するのだ。ただし最後の最後で、素の原田知世が出てきて、もう一回ひねって見せるのだけれど。

*3:ゲド戦記」と細田時かけ」の比較は、いまさらいうまでもなく、まったくその通りだと思うのだけれど。