感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

トロメラ!

 <承前>
 第4部
  ナイト・オブ・ザ・アダルト・チルドレン

 久しぶりにタダユキを交えて河森家一同が会する食事会を開いているときのこと、ケイタは自分が変な兄ちゃんに追いかけられたときのことを笑い話として酒の話題にし、それからイチコが目撃することになった横転する車の場面までを、匂いが苦手でいつもは敬遠している久々の日本酒の勢いを借りていっきに話したことがある。
 登場人物がナオのところをレイジに代えた結果、レイジ役を「レイコ」にするなど多少細部は変わりはしたけれど、イチコがケイタの前を駆け抜けて行ったところまでは、基本的にナオと話したことと変わらない。それにナオとの電話のときは、ケイタが色々勿体をつけてイチコのその後を話そうか話すまいか、どっちつかずの言い回しをくり返したあげく、けっきょくそれより先のことが話題にのぼることはなかった。ケイタにしてみればそれもこれも、いささか厄介な話をするうえで必要な手続きを踏んだまでのことで、確かにあれやこれや回りくどい言い回しをしてはいたけれど、ちょうどそのときご飯が出来たというタカオの声が電話線を通じて遥々ナオの耳にも入ってしまい、話の続きをせがむ気も折れて、近々そっちへ遊びに帰ることになったという、ケイタにしては突然の報告を最後に電話を後腐れなく切ってしまったナオの、思わずBじゃないかと言いたくなるほどの急な切断が、あれこれ勿体ぶる話の主導権を取り上げてケイタを少なからず苛立たせたのだが、しかし彼女がこのとき見せた急な転回はリテラルな振る舞いであって、含みのないぶんこれはやはりAB的なのかとも思い直し、ABの後腐れのなさはBの天敵なり、というメモを携帯に書きとめたりして、話を宙吊りにされた後の物足りなさを、食事の時間まで食い潰したのだった。
 とにもかくにもせっかく色々勿体をつけてから話そうと思ってはいたイチコのその後、横転、炎上等々の話はといえば、なかなか話そうとしないイチコから聞き出したもので、そもそも何故聞き出そうとしたのかというと、三姉妹の母からすでに聞いていたタカオの事故の話をたまたまイチコに振ったとき、イチコが両脇で酒を注ぎ合っているユウジとレイジを気にかけながら「ケイタがあのとき連れ去られそうになったのがいけない」とぼやいたことに端を発する。
 このときケイタは当然わけがわからず問いただしたのだが、酒の勢いで口をついて出た言葉をいまさら取り戻すわけにもいかないイチコ自身どうしていいかわけがわからず、「何が?」と聞き返すことになる。
 ケイタにしてみれば急な話題の転回をしてみせたイチコもけっこうB的だということになるのだが、もとよりイチコにそんなつもりはなく、とにかく余計なことを言ったと思ったから空惚けてみせたのだけれど、むやみに問い返されたケイタはケイタで「何が」とか言われてもなあ、せっかく話を転回させた意味がないじゃない、っていうか、そこには含みのある意味だの算段などそもそもないのかもしれず、むしろAは意味を引きずるからその点Bに支障あり、というメモを携帯に書きとめているうちに、まさしくそのメモの通り、自分がケイタにした対応の一々をあれでよかったかこれでよかったか、それこそずるずると気に病んでいたイチコは自重に負けてようやく重い口を割ろうとしている。
 あたりを気にしながら話すイチコの話は、ケイタにとって、目の前をイチコたちが走り抜けるところまでは、ナオからたびたび聞いた話や自分の経験から組み立てていた記憶とそれほど変わりなかった。ただイチコがバットと傘を振り回していたという点はこのとき当のイチコからはじめて聞かされたことで、むしろランドセルを背負う手ぶらのイチコを記憶していたケイタの思い込みは彼女との折衝のすえここで変更を余儀なくされるのだが、両手をぶんぶん振り回しながら走るなんてせっかくの恐るべき記憶もなんとなくマンガじみてきたことについ不平をこぼしたら、ちょうど頼んでいたビールと一緒に「マンガを馬鹿にするなよ」と口を差し出してきたのは店の店主で、半ば怒っているようでも笑いながら年下のケイタにビールを注いでやる彼の履歴はといえば、『デビルマン』で大学をやめ『寄生獣』で脱サラするなり飲み屋をはじめたというその手の筋金入りの男なものだから、マンガの悪口は人生を否定されたことと同義だと思っているためになんの悪気もなく常連のケイタを牽制することになった彼の言葉に、もっともだというような顔で頷いてみせるイチコは、自分的には紙袋というよりもメロンか何かを入れる小箱を被っているように見えたのだけれど、最も接近遭遇した本人が言うのだから仕方がないこととして、「その紙袋を被った男に抱えられてゆっくり回転しているケイタの図もかなり笑ける」と言ったあたりから気をよくしはじめたらしく、親しい店主に無理言って置いてもらっているオーガニックビールばかり飲み干しながら、イチコのその後をみずから一通り話し切ったのであり、これによりケイタの記憶は二五〇号線上の自動車事故と繋がったというか、ケイタの頭のなかではぶつかったと言った方が正しい。
 もちろんケイタ自身、死人まで出したその事故を当時から聞き知っていたし、町の噂話にくわわりもしたものだが、それがタカオの乗っていた車だとはイチコの話を聞くまで思いもよらなかった。これはとても切ない。何が切ないって、タカオの事故が元をただせば自分に帰着するところもかなり切ないけれど、いまのいままで何も知らずにタカオと付き合っていたことが何より切なくて泣きたくなるし、腹も立つ。
 何故話してくれなかったのか? むろんイチコがこのときまで、いちおう関係者のケイタにさえ一連の話をしなかった理由もわからないわけではなかったけれど、だったらいまさら話題にするイチコもどうかと思い、言い終えてからも頻りにビールを飲んでいる彼女を見ながら、何故いままで話さなかったのか、っていうかそもそも何故僕を助けようとなどしたのかと責めることなんてできるかというと、やはりそれは筋違いというもので、とはいえいまだ正体の知れない変な兄ちゃんにもこの胸のうちに潜む蟠りの捌け口を求めることなどできないとくれば、けっきょく学校が決めた帰宅時間を破ってでも国道周りの危険区域で遊んでいた自分の問題なのだと諦めるほかないのだし、成長してからも子供の頃の負債を抱え込んだまま、返済する気もなくのん気に暮らしていた自己責任が問われねばならないのだというおよそ自虐的な結論に落ち着いて、このさい誰でもいいから慰めてくれはしないかと思う虫のいい期待にも半ば絶望しながら、とにかく逃げ込んでみた思い出話の数々にも希望の光は見当たらず、ただひたすらタカオの不平を聞きたいがために皺にまじった傷跡を撫で回したり、耳掃除をしてもらっているときには決まってお互い傷繋がりの右耳を確認したいばっかりに耳掻きを入れられると必要以上に痛がってみせたり、彼女の傷付いた右脇腹と傷のないお腹の白さとの対照を確認するたび自分とは無縁な遠い惨事を思い描いたりしたこれまでの行い一つ一つに、われながら呆れることくらいしかできないケイタだった。



 イチコは気の毒そうに丸まった彼の髪をさすり、背中をさすり、下腹部に手を入れ同じ仕草をくり返している。少し酔いが抜けたケイタはくすくす笑いながら、イチコの手首を掴み、腕をさすり、胸からお腹の件りをさすっている。ほらな、小さい頃と変わらないだろう、と暗がりから聞こえてくる声には、だいぶたるんだと答えておいたが、あの頃もイチコのお腹にふれたことがあっただろうか、遊びか何かをしているうちにさわり合うようなことがあったかもしれない。何度も確認しながら彼女のお腹をさするケイタの手首をイチコは握り返してみる。そんなしょげててどうするよ、ケイタが悪いわけじゃないんだからと同じことをくり返し言うイチコに、二三歩間を空けながら飲み屋の帰り道をついて歩くケイタの歩幅を気にかけるのと同じように、いまその手首を握り返し脈をはかるイチコは、ほんの数時間前まで屯していた飲み屋でのことを思い出している。



 もののはずみで口に出してしまったタカオの事故のことを一通り話した後は、何も言わずにひたすら食べたり飲んだりをくり返しているケイタの中途半端な笑い顔がひときわ目立っていて、これはもう手がつけられないと察するなりこの夜最初の慰めの言葉を彼に投げたイチコなのだが、彼女にしてみれば最上級の慈悲深い行いもたいした効果がないようなので、二度三度と半ば投げやりに元気付けているうちに、俺が悪いんだとかぼそっと心ここにあらざる溜め息を連発しはじめたものだから、むしょうに腹が立ってこのどあほと怒鳴ったのには、さすがのケイタも飲んで食べるより唾を飲むほかない。
 かくして凶暴化したイチコをなだめたのはユウジとレイジなのだが、ようやく出番到来と思ったのか、それから彼らが口にしたのは、ケイタを連れ去ろうとした男を国道まで追いかけたのはイチコではなく自分たちだというものだった。というのも、先にイチコが解説した当時の状況は、国道まで追いかけたのは自分で、両サイドから挟み撃ちするべく左右に分かれたユウジとレイジはいきなりこっちに気付いて走り出した「変な人」を追いかけるイチコに追いつかず、国道に乗り上げる後姿を見送ることしかできなかったというものだったから、それは立場が逆だと思った二人は遅蒔きながらイチコに訂正を迫ることになったわけである。
 予期せぬ謀反に一瞬面食らったようにも見えたが、それでもイチコは折れなかったし、ユウジとレイジもまた最後まで追いかけたのは自分たちだと言い張った。のちにケイタは例のコミュニティサイトに国道事故ネタがけっこう書き込まれていたことに思い当たるなり即ログインし、あのとき酒飲みトラックに飛び込んだ子供の性別は男か女かをそれとなく問うた書き込みを投じることになるのだが、そこそこ予想していた通りこの件に関するまともなレスはなかった。誰も当の現場など見ていっこしないとわかってはいたものの、せめてネタとして取り上げられるくらいならありなんじゃないかとレスを待ってみたのだが、それは二人組みの男の子ではないかという明らかにユウジかレイジのものと思われる書き込みと、そのとき飛び出した子供は性別がわからないほどぐちゃぐちゃミンチ状に轢かれ死んだという書き込みがあった他はけっきょく不発で、確かにたかが性別がどうのこうのだとか話題性に欠けることこの上ない話だし、それに子供に性別なんてあってないようなものじゃないかというレスがあった通り、見た目区別が付かない場合も多々あるにちがいないのだ。こと当時のイチコといえば、一緒に遊んでいた連中のなかの誰よりも男勝りの立ち居振る舞いを繰り出していたのだし、思えば駆けっこの面でもクラス一番のケイタとしょっちゅういい勝負を演じていたのだから、勢い国道まで追いかけたのはやはりイチコではないかと思ったりするのだが、いつにないユウジとレイジの攻勢を見ていると、わざわざ遠回りしたり迂回路を回り込んだりしてまで人の意表を突くのが好きなイチコを思い出し、しかしこのときばかりはけっこう用意周到に立ち回ったわりにはうまくいかず、結果的に追いかける対象の後姿を見送ることになったのは彼女の方だとも、思えるのだった。
 それにこういう場合、確かにイチコだったら事実をも曲げかねないところがあるのである。というのも、事故の引きがねランキングとかいうものを立てようものなら、一番後方のケイタとナオは最もランクが低く、次に走るのを途中で断念した者がランクインするとすれば、その次は国道まで追いかけた者と袋男、そして酒飲みトラックという順になるはずだが、イチコだったら、より上位の罪を無理に被ってまで物怖じせず勝負に出た勇気を自他ともに認められたいという衝動に駆られかねないとケイタは思ったのだ。
 われながら説得的だと思ったこの考えは、のちにイチコのその後まで含めた全編をナオに話して聞かせることになったときにも披露したのだが、それを聞いたナオによれば、男の子のくせに自分で始末できなかったケイタも、人の助けを借りた自分もランクの上位を占めるべきで、最後まで人を救おうとして走り抜いた者は最も罪が軽いのだというナオらしいといえばナオらしいランキングによって覆されることになり、ということは、イチコもケイタやナオと違った事故の引きがねランキングを立てているのかもしれず、それがわからない限り彼女がどんな理由で事実を曲げたのかはわからないし、そもそも事実を曲げたのかどうかさえわからないという結論に落ち着くのだけれど、それでもどこかしらイチコは無理をしていて、こと今回に限らずいつも不要で過剰な罪を被っているように見える彼女を気の毒に思うケイタはこのときも同じ気持ちで彼女の弁舌を聞きながら、なおのこと抵抗をやめないユウジとレイジの言い分にも無視できない熱意を感じるので、多少馬鹿らしくてもこれしかないと思い、じゃああみだで決めようという提案が彼らの間に投げられることになる。
 すると、あみだかよーおえー、いいじゃんやろうよー、久しぶりだよねー、負けないからなーとか両陣営ともに盛り上がりだしたので、皆いい加減酔いが回ってきているなと思いながら言い出しっぺのケイタはさっそくゼブラの愛用ペンを手にし、「今日のおすすめ品」を刷った紙にあみだを書き込もうとしたところをちゃっかり店主に叱られ、べつにいいじゃんよーと愚痴りはするものの、ちゃんと言う事は聞いていますよという意味を込めてやや大袈裟に、手にした割り箸袋を裏返すなり、細長いあみだを書き込んでいく手付きはかなり酔っている。
「ほらケイタ酔ってる酔ってる、縦線三本引いてどうすんのよ」と、お酒を溢れるほど注ぎそうになったケイタに注意を促すときと同じようにイチコが言うから、確かに一本余分に線を引いていることにようやく気付くことになるケイタは「大丈夫」とか言いつつも自分もかなり酔いが回っているのかもしれないと思い目をこすってみたりしたのだが、ここぞとばかりユウジとレイジが「一人当たり一本ということでしょう?」とハモりながら言うので、「何言ってんの」と牽制しつつ、「あんたらはあんたらで二等か三等か決着をつけたいわけ?」というイチコの笑いがまじった声が聞こえたり、「一等か二等かだよ」というユウジとレイジの声が聞こえたりしているうちに、やっぱり縦線三本は間違っていなかったのだと思ったケイタは「もう一本は僕専用」と言ったのだった。
 ここではじめてケイタがいることに一同気付いたような一瞬間があったのは、すでにいい感じで酔いが回っていたからだろうか、思考回路をショートさせる酒の力で辛うじて思考を維持しているほど酔い潰れている彼らの沈黙は、それでもたちまちブーイングの嵐によって掻き乱されることになる。なに馬鹿言ってんのー、話んなんねえーやー、後ろでひたすら泣いてたの誰だっちゅうのー、さっきまであんな死にそうになってたのにこの男調子よすぎーとか惜しみないブーイングを浴びせられたケイタは、いわれてみれば確かに調子がいい自分だと思い、あみだで囲った区画を水田に見立てて俯瞰する日陰者の蝙蝠になって現場の一部始終を把握しながら、確かこのあたりの線が交差する畦道でトンボを取っていたところを、不意にこの線上を突っ切って来る男に追いかけられることになった状況を確認し、こっちの畦道からやって来た三人はといえば、ケイタを躊躇いの欠片もなく抜き去ったのだが、それからほどなく線上をコの字なりに大きく折れ曲がったイチコ一人は、割り箸の紙袋のはじまで突っ切ることなくゲームオーバー、けっきょくユウジとレイジが選んだ線が紙袋の先端まで到達したことを確認し、国道まで走り切ったのはイチコではなかったことが確定することになる。
 ただし全部で三本の線を引いたのだから残りもう一口のエントリーが認められる余地があったわけだが、ユウジとレイジが束になって三分の二の真実を握っている証拠がない以上「一人当たり一本」というわけにはいかず、とはいえケイタが国道に一番乗りなど到底ありえないということは、自分をも含めた四人が同意する客観的事実なので彼が「僕専用」などと宣言する権利はどこにもなく、しかし引いてしまった線をいちいち消すのもなんだし、あみだは二本より三本あった方が断然しっくりしてよりいっそう真実を表現してくれそうだし、それにブーイングを浴びせすぎたのか、痛いところを突かれて再び罪深い記憶を想起させてしまったのか、またもやしょげ返っているケイタを元気付ける意味でも残りの一口はとりあえず空席にしておいて、それが一等を取ることにでもなれば、いままでの話はなかったことにしようとイチコが提案するのにユウジとレイジも一緒に盛り上がっている様を、ケイタはいまさら何がなかったことにしようだよとか思いながら、さっそくあみだをはじめている彼らがやんややんや盛り上がるにしたがって逆に居場所を失っていくような気になり、身動きがとれないばかりか声も上げられず一点に留まるほかなかった当時の自分がやたら憎たらしいと感じられもし、いまでも体のどこかに住み着いている気がしてならない自分の弱々しい部分をできることなら突いて抉って捻り出したいのだけれど、どうすればいいのかわからないままイチコたちがあみだを進めている線上の、自分がいたはずの一点をも軽々通り過ぎていくおよそいたたまれない様を眺めていたら、こういうときは外に出て虫の声でも浴びるものだという、いまや自分の体にもしみついている母の思いに突き動かされてひとり重い腰を上げるケイタに、渋々三人はついて行く。
 あみだで思うような結果が出なかったイチコだけはこの機に乗じてケイタよりも先に勘定を済ませ、店の外に出る。あたりは数えられるくらいの蛙が鳴いている声が聞こえる。成長したケイタが聞き分けのいい耳を持つようになったのか、単に蛙の数が減ったのか、この土地を離れて十何年ものブランクがある彼にはわからない。
 道路を挟んだ向こうの歩道で火が点じて見えるのは、どうやらイチコがタバコを吸っているからで、高校時代からはじめた彼女の喫煙は確かアレルギー体質がひどくなってからやめたという話を聞いていたケイタは、いままで一度も吸っているのを見たことがない恋愛相手の女の子から、実は吸わないあなたに合わせて隠れながら日に何本かは喫煙していたのだということを突然知らされて思いのほか戸惑い、女の子の喫煙くらい大目に見る自分だと心していたのに、どういうわけか顔を火照らせるようなシチュエーションに嵌まり込んだまま暗がりのなかをくり返し火が強弱する様を眺めていると、帰り際のトイレに入ったきりなかなか出てこないユウジとレイジを置いて帰途を歩き出してしまったイチコが銜えているんだろうその火の動きを追うように夜中の暗がりを移動しはじめる。
 商店街の途中にあるスーパーの正面を通り抜けるイチコは、背後にいるにちがいないケイタの足音を聞きながら、それでも何歩かごとに自分の耳が疑わしくなるから、ときおり本当にいるのか横目でちらちら確認するガラス張りの店頭に案の定映り込んでいる彼の姿に苛立ちもし、小さな羽虫が集る常夜灯だけが頼りの店頭を歩いていると、何匹もの大亀が隠れていそうな水族館にでも来ている気分にさせられるガラス張りの壁面にタバコの火を浮かばせ、ひたすらそれを追いかけるケイタはいま何を考えているのだろうか、飲みすぎのせいだか過去を知ったせいだかで虚しい後悔に浸っている他はたいしたことを考えているわけではないけれど、そういえばここは以前スーパーが建つ前は町の墓場だったとかいう話ではなかったか、そんなことを思い出すなり、自分はイチコにではなく火の玉について歩いているのだと思おうとしたケイタなのだが、もとよりこのあたり一帯が本当に墓場だったのか何も知りもしない不案内な自分こそ、以前エツの言った通りこの町を漂う幽霊だか火の玉みたいだと思い、ということは、ナオが以前だか、この後だかに言った通り、やはり私の兄とそれほど違ってなどいないのではないかと思いもするケイタは下手糞なやり方だとはいえ少しずつわが河森家に馴染んできているのかもしれず、であればこそ、かつて彼の存在が招いた事故の犠牲者を葬る墓はこのスーパーにあって、鎮魂するために彼を招き寄せたここを拠点にして幽霊が漂っているのを、母のタカオが見たと言ったり見たがったりするのも当然だと思わねばならないし、思うことにしたケイタだった。
 彼がそうやって帰り道の時間を費やしている間もイチコは、そんなしょげててどうするよとか、ケイタが悪いわけじゃないとか慰めるようなことをおりにふれ話しかけてきて、そのたびに、そうだといいけれどとか、それはそうだけどとか右だか左だかどちらともつかない応答をするケイタだったが、イチコの慰めが心の底からそう思ってのものでは全然ないのと同じように彼の言葉も口先だけのものにすぎず、そんな二人にそれでも噛み合ったところがあるとすれば、今日はこのまま別れて帰るのは気乗りしないという思いであり、その気があればいつだってこいつとできたかもしれないことだけれど、とにかくいままでそうする必要なり欲望に悩まされることがなかった性交も今日くらいはしてもいいというかしたいような気にお互いがなっていて、しかし相手がどう思っているのかまではわからないから、それなりに慰めじみた言葉とか中途半端な応答を投げ合っていたわけだが、このときばかりはいい加減な言葉よりも頼りになるのはタバコという感じで、イチコにしてみればいつもは吸わないタバコで気を引こうとしたことも、逆にケイタにしてみれば彼女が吸うはずもないタバコの火を目にしたことも、しかし実際には存在などしなかった思い違いの光景なのかもしれなかったのだとはいえ、けっきょく二人を諦めさせずにイチコの家まで引き合わせ続けた虫の光だか何かが二人の間にあったのではないかと、帰途タバコを吸っていたことを否定したイチコにケイタは話して聞かせたのだが、飲みすぎてぐるぐる鳴りどおしのケイタのお腹をさすりながら、確かに吸おうとは思ったけれど、もうそんなことはどうでもいいじゃないとでもいうように「光に引き寄せられるのは虫の方だ」と言ったイチコの言葉を、ケイタは「じゃあ俺が虫ってことかよ」とか不貞腐れながらも、いつになく素直に受け入れることができたのだった。



 なあ同志、いままでの話で間違いないんだよな。そりゃあ間違いなんてひとつもないんだから、安心して眠りなさいよ。二人の身のまわりを辛うじて明るくしていた部屋の間接照明が落ちると、ボリュームをきょくりょくしぼった音楽が流れている。眠りに落ちつつあるあなたはそれにはじめて気付くことになるが、確かにどこかで聴いたことがあるその曲を思い出すことはできない。曲名すら知らないあなたはその音楽を流した相手にどこで耳にしたものか聞こうとして、けっきょく深い眠気に阻まれることになるのだが、イチコの台詞にもあった通りあなたのそのいい加減な記憶は間違ってなどいない。記憶というものはそもそもいい加減なものなのだ。その理由を説明しようとして私はひとまずタバコに手をかける。



 あなたはその曲をどこで聴いたのかで悩んでいる。最初に思い当たる風景は産まれたばかりの頃のように見えるが、当時の記憶に残る曲などかりにあったとしても疑わしく、もとより後知恵にすぎないだろうゆえその時代は保留しておくとして、次に思い浮かぶ風景をなるべく気を楽にして待つことにする。
 それはとうぜん音楽をともなう記憶でなければならないとすると、まずは大きなピアノがある家のなか、しかしあなたの家は子供用の電子鍵盤すらないはずだから、そこはおそらく幼い頃からピアノを習っているお金持ちの友だちの家で、思えば月に何度かはお呼ばれになったその家に行けば決まって聴かされた練習曲か何かがあったはずだが、熟慮のすえそれだとは思えない。
 ならば、もう少し時代を最近の日時に合わせるなり思い浮かんだ成人式の日に、小学校以来ずっと好きだったから付き合ってくれと告白してきた相手が風呂場でよく口ずさんでいたあの曲でもやはりないのだとすると、けっきょくこの相手とは何度か事を済ませたきり別れたのだけれど、のちに付き合うことになった二年越しの恋愛相手から、仕事が楽しくなったから別れようと告げられた喫茶店で神妙に流れていたあの曲なのかというとどうやらそうでもないらしく、それでもなんだかんだで再び三度別れたり縁りを戻したりした相手と結婚することになり、ぶじ産まれた最初の子供を寝かせつけるためにという以上に、何より疲れ切った自分の体を休ませるためにも寝床でいつも流していた曲というのでもないわけで、けっきょくのところその曲はどこかにあるとかいうものではなく、あなたの記憶のどこを探してもありはしない曲なのだけれど、ひとしれずどこかで流れている記憶の断片なのである。



 私はあなたの眠りを妨げない程度にタバコの火をつけ、流れる曲に聴き入る。耳にするたびにどこかで聴いたことがあると思いあなたを不安にさせる曲だとはいえ、一夜眠って目覚めたときにはもう忘れているはずなのだから、安心して眠りに就き、明日の戦いに備えること。それでもまだ悩まされるようなら、もう一夜なりなんなり眠ればいいさと誰彼にともなく言われてから、あなたはといえばもう眠りたいほうだい眠っているという感じで、だからイチコが唐突に事故の話をぶつけたのも目を覚ませ的な意図があったとも考えられるのだが、けっきょくは一緒にこうして気持ちよさそうに眠っている様を見ていると、イチコだってあんがい可愛らしいところがあるんだとも思い、無理して大人になることもないじゃないかとさえ言いたくなる。

   トロイメライ

 そんなこと言われても、とにかく話すことに夢中で食卓に出された料理だのつまみだのをまともに口にすることもないすきっ腹の極限状態のうえに、あまり飲んだことがないから自分にとってのしかるべき限度がわからない日本酒を話の合間合間に飲んだのが結果的にかなりの量に達していたことが祟って、一部の記憶が飛び飛びになっているのを後から聞いた話で埋め合わさざるをえないほどだらしなく潰れてしまったのだが、その最初の徴候はといえば目眩だかなんだか視界が回りはじめたのをきっかけとして逆に口の方は呂律が回らなくなり、頭が痛いわ吐き気にも襲われるわで、おりにふれ心配そうに声をかけてきたタカオにも大丈夫とか言いながらその場の笑いの渦に踏みとどまろうとしたあげく断念、吐きたくても吐けない体質だからひたすら眠気に誘われることに専念しようと頭を垂れかけたケイタを、後方から抱き起こしたタダユキはそのまま肩を入れて奥の部屋にまで運び出す役割を自分から買って出たのだった。
 家のなかにしてはいつになく活動的な息子を見るのは喜ばしいことだとはいえ、彼もまたそこそこ酔っているのだろうから、タカオも手伝おうかと腰を上げようとしたのだけれど、急に「うちの親父だから」と宴のあとの軽い笑い話のつもりなのか、単なる皮肉か何かなのかいまいち読めない台詞によって母の動きを制止しつつ居間を出ると、夜は一段と暗くて長くなるような気がする廊下を歩いているうちに二人の影は目当ての部屋にさしかかり、いまにも折り重なりそうな格好でなかへと転がり込む。それから服を脱がせ、押入れの引き戸を開き、近頃タダユキを真似て使うようになったケイタ専用の寝袋を取り出して寝かせるまでの間、ちゃんと寝巻きを着ろとか寝袋に入れと言っても聞かないケイタの口から唯一まともについて出た言葉は謝罪のいくつかで、しかもくり返し何度も謝り続けるのをタダユキは笑いながら、「誰に謝っているんですか」とか「そんなに謝る理由なんてないじゃないですか」とか聞いてみるのだが、酔いの勢いでただ謝り続けるケイタからまともな答えが返ってくるなどとは思ってもいない。



 思えば彼は食事会の最初から飛ばしていた。タカオが無理をするなと言っても一向に聞かないケイタだったが、タダユキだけは調子づいて年長の彼が飲み干すたびに空いたグラスへなみなみと冷酒を注いでやり、どう見ても飲酒のペースを緩めるより加速する傾向を促してさえいるように見える二人のやり取りは、それでも無理をするなと言うほど不自然なものではなく、むしろ食事会に陽気な空気をくわえるのに役立ってもいたので、最初は心配そうに眺めていたタカオも今日くらいはべつにかまわないかという気になって日本酒が進みそうな料理をありあわせの材料で作ったりしたのだが、年下の私が到底くわわれそうにない同世代の二人が酒を飲みながら盛り上がる話を聞いていると、幼い頃から虫をよく取った話題からはじまって、いまはほとんど見なくなったカブトエビやレンゲの話、だから最近の子はカードゲームでしか虫に触れられないから気の毒だという話、気の毒といえば市川で「亀になった」二人の一年生の話で、この一件以来子供たちがいよいよ遊びづらくなったという話などを、タダユキを聞き役にして延々と話し続けるケイタは話の句読点代わりにひたすらグラスを傾けることに専念し、せっかく出した料理だのつまみだのにはまったく手を付けないものだから、あんなに酔っちゃったのよと、この夜から三日間体調を崩すことになりバイトも休まざるをえなかった彼がようやく立ち直って部屋から顔を出したときに愚痴をこぼしてみるタカオのことを、もっともだと思ったケイタはしかしそんなこと言われても、とにかく話すことに夢中でとか言い訳をしようとしたのだが、それより何よりバイトを三日間も休んだのは皆に迷惑をかけてしまった、ごめんなさいと先ずは謝らなければならなかった。
 そんなことはどうでもいいのだけれど、ずいぶん謝り癖が付いちゃったみたいねと可笑しがりながら答えたタカオの言葉に、なんのことやらわからないような顔をして見せるケイタには呆れてものが言えないところだけれど、とにかく記憶をなくすほど飲むのはよくないし、この暑い時期に飲みすぎの体で寝袋に入るなんて脱水症状でも起こしそうだからもうしなさんなと忠告したときの母の顔は、子供に注意をするときのもののようで可笑しい。ケイタには悪いけれど、若く見える母だとはいえ、彼女を前にすればタダユキとは二人の息子にしか見えないのだ。



 それはケイタにはあんまりなんじゃない? だって本当のことだもの。あれで彼女にもけっこう子供じみたところがあるんだから。それは否定しないよ。たびたび私たちを視界から逸らしたり見失ったりするようなことがあるでしょう。ある。そんなときあなたはどうしている? そうだね、一人でもなるべく楽しいことやどきどきわくわくするようなことを思い浮かべてやり過ごすことにしている。あのときはこうだったとか、何年後か先はどうなっているのだろうかとか? そう。それはとても消極的な心がけね、あなたらしくもない。もちろんさ、だからそんなことたちまち飽きてしまうし、あなたも知っての通りすぐにでも人の気を引きたくなる性分だから、彼らの視界にちらちら顔を出してみたり、町じゅうの軒先に咲いた花を毟り取ったり、捕まえた虫たちを国道や市川に投げ込んでみたりして、幽霊の仕業だとか鬼が出たとか言ってみたりすることになる。それはあなたが思っているほどたくましくないこと、むしろ寂しがり屋のすること。いくら強がりを言っても人恋しい性分がそうさせるの。皆が皆そうだとはいえないにせよ、あなたには確かにそういうところがある。そうかなあ。そりゃそうよ。あなたが言うのなら、確かに私にはそういうところがあるのかもしれない。あなただけではない、幽霊も寂しがり屋なのよ。幽霊も? そう。幽霊のなかでも、人にのりうつる幽霊をあなたは知っている? 映画でならよく見るよ。ドラキュラやゾンビの方が恐くて興奮するけどね。そうかしら、でも恐さは問題ではないの。彼らも幽霊と同じ、のりうつらないとはいえ、人に噛み付いてまで同類を増やそうとするほど寂しさに耐えられない。人を襲う恐るべきものなのに? 恐ろしいのだとしたら、それは私たちの恐ろしさ。彼らは私たちの影なのだから。影? 私たちの? そう。一人でいるのが寂しくて人恋しい私たちの欲望がいびつな夢になって現れ出たものたち、私たちの欲望の影。そういえば、彼らはとても悲しげな表情を見せることがある。その通り、あなたならきっとわかってくれると思っていた。ひとところに取り残された者がときおり見せる悲しげな表情。けれど気を付けて、いったん独り歩きをはじめると、誰にも制御できない彼らの肥大しすぎた欲望の影は手に負えないほど過剰な暴力を身にまとうようになるのだから。過剰な暴力? 人恋しさが? そう、人恋しさの余り過剰な暴力を手に入れるの。それで彼らはどうなる? あなたならどうする? 恋しいやら呪わしいやらでのりうつった人を、あなたならどうすると思う? わからない。わかりたくもない? 私なら完全に自分の支配下に置いて呪い殺し、首筋のひと噛みでいいものを勢い足の先から脳髄にいたる体じゅうを食べ尽くしてしまうことでしょう。殺してしまったら元も子もないじゃないか。それが人恋しい暴力のなせる業。あなたにも避けられない悲劇。私にも? だけどあなたが悪いのではない。欲望に忠実に従ったまでだし、必ずやあなたは後悔するはずなのだから。あたりを見渡す限り、再び自分だけの世界にとどまっているという悲しむべき事態に気付いたあなたはきっと後悔することになる。世界と繋がり同類を増やすためには、何よりも幽霊や怪物たちに姿を変えるべきだなんてそもそも馬鹿げていた話だと? だからけっきょくのところ彼らは私たちに襲いかかる敵でしかないのだと? 同類の輪が広がる世界を維持するにはむしろ彼らを駆逐なり一掃でもしなければならないのだと? それこそ馬鹿げている。どんなに残酷な奴らであれ世界から一掃するだなんて、ミイラ捕りがミイラになるとはこのことじゃないか。ちょっと待って、それほど絶望することもないのよ。もうじゅうぶんだ。そうね、あなたはもうじゅうぶん絶望したのね。だからこそ終わりの終わりまでよく見てごらんなさい。映画でもエンドロールが流れる幕引きは終わりのふりをしているだけ。その後までじっくり見てみると、辛うじて生き残ってしまった者が一瞬悲哀の影を目尻に落とすシーンを見ることになるはずだから。ほら、あなたはそこで束の間戸惑うけれど、それでもなお戦うべく微笑みかけるアイス・キューブだかカート・ラッセルだかの俺たちだけは死にはしないとでも言いたげな顔が大写しされるのを見るとき、あなたは再びどこかの振り出しに戻っているのであり、こんりんざい希望に満たされることなどないにせよ、絶望する暇さえ惜しまれる世界を生きはじめている。そんなシチュエーションにぴったりのアメリカン・スピリットを口に銜えて、いかつい銃を手にした男からゴーストバスターの誘いを受けるところからあなたはこの地を切り開くことになるのだけれど、困難を承知で微笑み交わした仲だとはいえ、いまやその男の無根拠な強靭さを頼りにしているあなたではない。むしろ幽霊や怪物たちの人恋しさが、そんな私たちを生き残らせたのだという思いに貫かれている。彼らは私たちの影であり、私たちは誰もがそのうちに彼らを影として抱え込んでいるのだという思いに。だからあのとき、画面を挟んで出会った男の悲哀と微笑みの間であなたが見せた束の間の戸惑いも、その大男こそ怪物だと感付いたからなのではないかしら。まさしくミイラ捕りこそミイラなのだと。あるいはそうかもしれない。しかしあのときエンドロールが流れ切った後の画面に映ったものは、あなたが期待した通りのアイス・キューブでもカート・ラッセルでもなく、その実自分自身の悲しげな表情だったのではないかという疑念がひとしれず彼の脳裏に浮かんだのだともいえまいか。だとすると、彼はわが身に怪物を見てしまったのね。それとも、怪物より幽霊の方が彼らしいかしら。どちらにしても、彼はあなたのお喋りにいささか唆されたようだ。唆したわけじゃない。このところケイタにちょっかいばかり出すんだもの。少し懲らしめておかないと。まあいいさ、彼は少し疲れているみたいだから、再度戦いに出る前の少しの間(笑)、お気に入りの寝袋にでも入ってもらって休ませておくといい。そうね。私も疲れたから、今回はあなたがたと一緒に行くのはよすことにする。



 ケイタさーん、皆心配してるんで、そろそろ起きませんかー。おーい、ケータさん。いくら声をかけても一向に起きようとする気配を見せず、こんなにもケイタが酔い潰れたのはあなたの責任でもあるのだと諭す母から彼を起こして来いと最初に言われたのは食事会の翌日の昼過ぎで、今日はバイトが休みの日だって言うんだから好きなだけ寝かせておけばいいじゃないかといくら言ってみても聞かないからしようがなく離れから出てきたタダユキは、いい大人を子供扱いするのはあの人の悪い癖だと、自分のことは棚に上げつつ悪態をついたのだが、さすがにああも酔った状態で寝袋に入れたのは彼女が言う通り冗談が過ぎたとも思っていて、朝のうちにそのタカオによってぶじ寝袋から救出されていたケイタのことを彼なりに心配しながら何度か声をかけてみる。しかしいくら起こしても、俺にかまうな的なあしらいを受けて、これはとても手に負えそうにない。
 この野郎。少しむかつきはしたけれど、極度の二日酔いに陥っている境遇なり気分がわらないわけではないので、今回は退散することにしたタダユキだったが、これから今日明日明後日と十数回に及ぶ目覚し時計代わりをつとめることになるとは、このときには考えもしなかった。しかもこの後彼は、ケイタの代わりで河口ぎわのエツの家に行くよう要請される羽目にもなるのだ。
 ちょうど今日東京から帰ってくることになっているナオを交えて開かれる酒宴がエツの家にてということなのだが、そこで恒例となっている手巻き寿司大会の各種材料を昨日のうちにスーパーでざっくり買い込んでおいたケイタが来ないことには酒宴がはじまらないし、何よりそれを楽しみに帰ってくるナオの機嫌もつごう一週間もの滞在の間ずっと鬼のようにむくれることになるはずだから、ケーちゃんが来られないようなら、悪いけどタダユキくんに是非来てもらいたい、サキも私も食事の準備とかで手が放せないからお願いとかいう内容の電話をタダユキが受けたのが、ケイタを起こしに行って無念のまま母に報告がてら戻ってきたちょうどそのときで、それまでにもエツは何度かケイタの携帯に連絡を入れていたのだけれど、最終的には家の電話に連絡したのをタカオ経由で受け取ったタダユキが受話越しに聞いたエツの話をじっくり咀嚼する暇もないまま、とくに断る理由もないから、じゃあお願いねという流れになり、切る前に辛うじて口に出すことができた「もう一度本人を起こしてみますから」という言葉も虚しく、再び声をかけてみたケイタが駄々をこねる布団のなかから声にした台詞が「ごめんね」だったのが奇妙に昨夜の謝る姿と重なりもし、謝られっぱなしのタダユキはいまさらながらこんなに飲ませるんじゃなかったと思い後悔するが、あとの祭り。



 思えばいつもより時間がかかったブログへの書き込みを一通り済ませた彼が離れを出て食卓に着いた頃にはもうケイタはすっかり飲む体勢に入っていて、いつもなら父をはじめ先祖代々を祀る仏壇にお供えをするときくらいにしか栓を開けない日本酒が、今日だけはケイタを弔いでもするように彼の両サイドに恭しく二三本並べられている光景を、居間に入るなりまずは目にすることになったタダユキとケイタがちょうど向かい合う形勢になると、あとは自ずと、炊事場を背にして右利きのケイタにお酒を注ぎやすく、何より彼の声が聞き取れる側にタカオ、いつだっておさがりを食らうことになる私が残りの余ったスペースを陣取ることになる。些細な数だとはいえ、久しぶりの一家団欒に誰もが気をうわずらせているような空気がたちこめる食事会の一景。
 すでに河森家の一角を占めつつあるケイタだとはいえ、多少なりあらたまった席にあってタカオと同席する息子を目の前にすれば、さすがによその家へお呼ばれにでもなっている気分になり、とりあえず間をもたせるべく日本酒でいいかと聞いてみるなり了解を得たタダユキのグラスに溢れるほどの酒を注いであげてから、急き立てられるようにそれじゃあ乾杯というかけ声を上げたかと思うと、ちらちらこちらの方に表情のない顔を向けるから、この間の悪さは私のせいだとでも言いたいのか、一瞬どきりとしたが、誰も気にもとめていないようだし、ケイタもまた気恥ずかしそうに表情を緩ませながら、間の良し悪しもへったくれもない勢いでひたすらグラスを傾けはじめていて、お腹を抱えて笑いながらも、そんな間の抜けた飲み方をしなさんなと言うタカオの忠告にもろくに耳を貸そうとしない。
 もともと好きだから飲める口というわけではなく、その場の雰囲気なり乗りにまかせて飲むことが好きなケイタはけっきょく自分のペースなど持っていないから、こと今回のように間の取り方が厄介だったり不慣れだったりする状況下での飲みということになると、とたんに酒が頼りになるというか、持て余した間を酒で埋め合わせたりするようになるのだが、そうやって調整ができているのは最初のうちだけで、途中無理にでも胃のなかにものを入れるとかしない限りいまにも体じゅうを支配しつつある酔いがしだいに脳髄をも乗っ取ることになり、目が回ったり呂律が回らなかったり悲鳴を上げる宿主の間合いだの間の取り方などお構いなしに記憶のブロックを食い潰しにかかるだろう。
 だからタカオが最初のうちに何度か忠告したのだけれど、酒の勢いを借りて自分なりにけっこう調子が出てきたからか、食卓では久々のタダユキを相手にこれまで話す機会がなかった話題の手を変え品を変え話しだすと、せっかく作った料理には見向きもしないようだから、冷めるやらもったいないやらでタダユキもそこそこ食べはしたが、とにかくよく食べたのはタカオで、ときおり炊事場に出て何やらものを作っている以外は、可笑しがりながらケイタの話を聞いていた彼女の口にはみずから作ったものが次々と運び込まれることになり、けっきょく私もいつもよりかなりの量を摂取する羽目になる。誰かに要請されるまでもなく、残り物やおさがりを処理するのはいつの頃からか自分の役回りなのだからと少し不貞腐れてみたい気分にもなるけれど、そんなこと言わないのと母にたしなめられるのを期待するような齢でもないし、とにかく皆楽しそうなところを邪魔するのもなんなので、今日のところはいつにもまして饒舌なケイタのお喋りに耳を傾け、伴および河森の両家がともに同じ血液型を共有しているということを知ったケイタとタダユキが、それだったらいままで定期的に開いていた河森家の食事会を、両家の存続と発展とさらなる交流を祈願するものに衣替えし、いっそその日をB型同盟の日にしようと決めて開催された第一回目の今日という日を私たち参加者皆で祝うことにしようではないか。



 ということで、とにかく皆楽しそうだった。ケイタが事故周辺のことを喋ったのはそんなときである。楽しいその場の空気に何より勇気付けられたし、酒の勢いにも後押しされたのだとはいえ、さすがにそのときだけは気持ちが昂ぶり、変な兄ちゃんに持ち上げられている話の件りにさしかかったときなどは、幼い体を回されるたびに当時もまったくそんなふうにどきどき鳴ったのではないかと思えるほど切迫する心臓の鼓動が胸のうちに再現されたのだが、この胸の苦しさは得体の知れないものに襲われたときのものというよりも、もともと自分のなかにあった疚しさだか申し訳なさだかを炙り出されているような、だからあの兄ちゃんにはちゃんと謝らなければならなかったんじゃないかとも思えてきたのだけれど、そんな馬鹿らしい思いが浮かんだのもかつて追われた者が追う側の年格好にそろそろ近付く頃だから、互いの気持ちが通じるようにでもなったのではないかという思いがよぎるなり打ち消したケイタは、ことさら謝るほどのことではないにしても、自分が知っている限りの事実を報告し、場合によっては懺悔なりなんなりするべき人たちが目の前にいるじゃないかと思って、いまかいまかと話の続きを待ちのぞんでいる私たちがいる方を確認しながら話しはじめることになるのだが、まずはもう一杯と言うタダユキのかけ声に応えなければならない。
 確かにお酒の助けを借りるのは卑怯だけれど、とにかく今日は懺悔をしようと腹をくくった以上、高みからものを見下ろす蝙蝠を召還することはなるべく避けねばならず、そのぶん酒に頼りながら当時を回想しているせいだか、単に酔いのせいだかでぐるぐる目が回るにつけ息苦しくなるのを、グラスを傾けることでなんとか調整するたびに、話を聞いてくれている相手が不審がっていないかをおりにふれ確かめながら、あのとき自分が置かれていた情けない状況を面白おかしく話すべく、イチコたちが走り去った後もいかに自分は弱虫だったかを身振り手振りを交えつつ報告しようとするケイタは、まるであのときのイチコが男を追うべくたどった迂回路を走っているようだと思ったのだが、彼女にそんなことを言ったらケイタは臆病なだけだと怒るだろうか? あんがいイチコもそうだったんじゃないかと思いもし、イチコがユウジと「レイコ」から一人離れて迂回したところを話す段では、にやつきながら少しそんなようなことを脚色してみるケイタだった。
 少しずつ彼にも余裕が出てきたのだろう、それもこれも皆が皆屈託のない笑いを笑っているからで、笑いながらタダユキは酒を注ぎまくり、タカオは食いまくっている。だから僕が飲んで喋る役なのだといわんばかりに調子に乗りだしたケイタは、その勢いで迂回路をたどり終えたイチコのところまでいっきに話し終えたのだった。肝心のユウジと「レイコ」はというと、国道上に飛び出したときには確かに車とぶつかりそうになったものの、そんなことは以前からたびたびあったことだし、何よりそのときは男を追うことに必死の余り前後の見境なく国道を渡り切ろうとしていたから、車同士の衝突シーンはごめん見損なっちゃったということであり、それからすぐに起こった物凄い衝撃音に気を取られて前後不覚のすえ思わず当の男も見失ってしまったものだから、その後の横転から炎上にいたる記憶はといえば、もっぱら後方のイチコの視点に一任された通りの展開を、皆に話して聞かせることになる。
 むろんイチコにしてみれば、最初に国道まで走りつめたのは自分以外にないのだが、彼女もまた肝心の衝突シーンは見損なったと言うから、確かに車と車が衝突する一瞬など予測していない以上まともにとらえられるものではないということくらい容易に頷けられるにせよ、それならばそれならで、イチコが見たと言う横転、炎上のシーンは一体どの地点からとらえられたものなのか? このあたりはやむなくケイタの脚色を交えながら話さざるをえなかったのだが、ひょっとするとそこには誰かがいたのかもしれないとふいに思ったケイタの頭はすでにかなり酔いにやられていて、わけもなくあのとき飲み屋で作ったあみだの余った線分を思い出すなり、重要なのはあみだで一等になるかならないかよりも、余分な線を引いたことにあるのではないかと思いいっそう調子に乗りかけたところ、いままでケイタにお酒を注いであげながら話を聞いていたタダユキが口を開き、車内での状況を詳細に話しはじめるのにしたがってあみだそのものがひっくり返されていく気分になる。あなた方が走り回っているその場所はほら見ろ割り箸袋の紙の裏にすぎないのだと。
 とはいえこのひとときをケイタは十分楽しんだし、他の者にとってもそれは変わらない。ケイタが話を一通り話し終えたときもタダユキやタカオは相変わらず楽しそうだったし、事のクライマックスが話される段でも、ケイタが申し訳なさそうに話すたびにくり返し、あれは単なる自動車事故なんだから気にするな、あなたが気に病むことではないと皆総出で勇気付ける言葉を並べたてさえした。そもそも私たちの事故とケイタの事故がイチコの言う通り同じ日同じ時に起こったのかも、じっさい国道上で交わったのかもわからない。かりに交わったのだとしても、余りにもケイタが固執している事故の引きがねランキングとやらだって、私たちが事故らなければ男は捕まっていたかもしれないのだとすると、私たちの方もかなりの重責でしょう? だからいっそのことその男を轢くべきだったんだよ(笑)。っていうか轢いてたんじゃない? と話の勢いで口が滑ったときにはさすがに調子に乗りすぎたと思ったケイタだったが、そんな彼の心配をよそに、沈みがちになるたびに破格の笑いを笑いながら勇気付けてやり、それでもなお彼が謝ろうとすると、仕舞いには怒るわよと笑いながらもけっこう真面目な顔をしているタカオに言われてようやく黙ったその後の気まずい空気を、前もって追い払うべくタダユキは話を引き継いだのだった。
 今度はケイタが話を聞く体勢に入る。どうやらタダユキにとっては、事故の話もいまや笑い話の部類に入るようだ。もちろん、生き残った者がかつて身にふりかかった大惨事を後から回想するにあたって自虐的になることはなんとなく理解できるし、見知らぬ男に追われたケイタ自身、たったいま自分を責めるような胸の鼓動を感じてそれを痛感したところだった。しかしタダユキの笑い話は死者の域にまで及んでいた。そこのところが不可解で、色々自分なりに思いをめぐらしているうちに不安になったり苛立ったりしたケイタは、ちょうどタカオがトイレに行ったときを見計らって、当人に聞いてみることにするが、その前にちょっと、注がれた酒を景気づけにもう一杯。



 確か、河口に流れ着いた子供たちの一件を話しているタダユキの口から、児童虐待がどうのこうのという、いささか飛躍した話を聞いたことがあった。あのときも彼の口からは、笑わずにはこの一件を話せないといった感じの印象を受けたと記憶するが、確かに不謹慎だとはいえ、しょせん他人の死には好奇心がつきまとうものだということくらいわからないわけではないケイタだし、この世には、虫の死に際にあげる悲鳴程度の関心さえ抱かれず、笑われさえしない死だっていくらでもあるだろうことを日々のテレビや新聞を通して知ってもいるケイタは、タダユキの笑い話も聞き流すことができたし、児童虐待? そんなのもあったのかもしれないねえ、とか一緒に好奇の目をもって口元を緩ませさえした。しかしけっこう楽しそうに彼が話す事故の一部始終をいまこうして聞いていると、身内にまで容赦のない彼を、いかがなものかと思わないわけにはいかないし、自分の立場を考えても一緒に笑えっこない。それでも彼は楽しそうに笑っているから、息子が親にいまさら復讐でもしているのかと次第に不安になり、苛立った自分は一体何者なんだか、そんな自分こそ笑われてしかるべきなのだが、しかし笑われていると思うとなおさら責められているような思いに駆られて気が咎めるから、このさい誓って、っていうか誓うまでもなく、いままでに誰かを虐待などしたことはないし、まあ虫の殺生くらいはあるにはあるけれど、だからといって復讐とかまったく身に覚えがなく、そもそも誰かの父親ですらないし、なりたくもないのだと言ってしまいたい気持ちを、しかし誰に言うべきなのか? 目の前のタダユキに言ったところでお前は俺の父親でもなんでもないと言われるのがオチだし、言われて当然だとも思うので適当に誤魔化しながら、それで結局どうなったのかを聞こうとして当人に話を振ってみることにしたケイタから、あらためて話をするのを促されるように酒をなみなみ注いでもらったのを勢いよく飲み干したタダユキは、このとき表情を変えず、運転席に乗っていた父のことを話しだす。「もちろん見逃したわけではないけれど」(笑)、「ただでさえ燻っているように見えた火が燃え広がりだしたので救うに救えなかった」(笑)、「そもそも父は父で脱出していると思っていた」(笑)、「それに自分の身の周りのことで精一杯だった」(笑)、「けっきょく見逃したことになるのかもね」(笑)。思わず釣られて笑ったケイタの頭からは、不安も苛立ちもすでにほとんど消え去っていて、あるかなしかのレンゲの蜜ほどにも残っていないその蟠りを、せめて私だけは胸のうちにこっそり留めておいて、ケイタ、あなたのためにも(笑)、後から口移しで何度も何度もくり返し、消えそうになるたびに甦らせるべく話して聞かせようと思うのだが、いまのケイタはもう何を言っても聞く耳を持たず、朝になれば記憶にさえ残っていないくらい酔いにやられていて、タダユキが父の事故死を調子づいて面白おかしく話すのは何よりケイタが聞いてくれているからだということに気付く様子もなく、ひたすら自分の都合のいいように聞き流しながら、なるほど、自分にとっても死んだも同然の父のことを、いまさら笑わずに人に話すことなどできないと思うのだが、自分こそ父にとっては死んだも同然なんだろうとも思って、お互い死んだ者同士、ついぞ父とは飲み交わすことがなかったグラスの酒を飲み干すと、ちょうどタダユキと顔を見合わす格好になる。
 なんとなく気まずいから「両家に乾杯」、とか、「もうそろそろ酒宴も終わりだね」とか「明日になればナオが来てまた酒宴だよ」とか言い合っているうちに、さっきから間欠的に襲いかかってきていた睡魔に今度こそ打ちのめされつつあるようで、まだ自分が会話に参加している意識はぎりぎりあるのだが、いつの間にかトイレから戻ってきたタカオやタダユキやらが食卓を出たり入ったりしているらしいのに苛立ったり不安になったり、だから片付けよりももう少し飲もうよとか言っているあなたはもうかなり酔っているようなので、そろそろ終わりにしようと言う声が聞こえる。



 そんなことよりかさあ、あの「亀になった」子供たちはどうなるんだろうね。相変わらず捜査の進展はないようだし、それにどうやら三人目が流れ着いたらしい。まじ? やな話だな。実は俺の小説にもちょうどリアルタイムでこの事件が進行しているところなんです。知ってるよ。どうせならあなたを犯人にしてもかまわない? 何それ。作中ではイニシャルのKにとどめてあるから、匿名性は確保されていますし。それでも勘弁してよ。けっこう皆あなたの小説、読んでいるんだから。だったらこうしません? とつぜん理由もなく犯人だと疑われる役回りとか。たとえば? いい加減な捜査や審理にたらい回しにされたあげくの果てに自殺を遂げる悲劇のヒーロー。微妙。ぜんぜんヒーローじゃないし。いきなり虫になるよりましでしょ。なんかどこかで読んだことある。小説なんてどれも似たり寄ったりなの。それよりさ、皆で事件の犯人退治に乗り出そうよ。亀の恩返しじゃん。箱だか袋男にリベンジとか? そもそも探偵役を買って出るやつほど怪しい者はいないの。B型だしね。マザコンのB型。それにフリーターでしょう。社会のもくず。妄想癖のある。誰かの台詞に、思い出にばっかり浸っている、というのがあったな。人の話、聞かないから。ちゃんと聞いているよ。なんだ、眠っていなかったんだ。眠っていないし、酔ってもいない。わかったよ、じゃあ鬼退治にでもなんにでもこれから乗り出そうじゃないか。ついでにエッちゃんところに持っていく荷物も持って出ようよ。久しぶりのナオちゃんを迎える酒宴に要りような各種食材と小道具の入った荷物ひと揃え。大きな買い物袋四つ分にもなるというのに、一人自転車で持っていこうとしていたなんて無謀もいいとこ。とりあえず手分けして持って行こうな。亀はその後ってことで。でもさあ、本当にエッちゃんの家に行くわけ? いまさら行けないなんて言えないもの。ナオちゃんにばれたら殺されるぞ。何してるがあ。似てる(笑)。サキちゃん泣いちゃうし。私が買っておけばよかったって、他人の悪さであれ自分を責める性質だから。ナオちゃんと大違い。でも久しぶりだよね。あの子ら野菜ものが好きだからもっと買い込んでおくべきだったよ。あのへんの畑から盗っていかない? 名案名案。なんかずっとこうしていたいねえ。ずいぶん虫がいいな。ほら、もう誰かが追ってきている。あの男? 違う、イチコちゃんが目を吊り上げて追いかけてくるところ。捕まったらただじゃ済まないぞ。国道までどれくらいある? すぐそこだけれど、エッちゃんの家とは逆方向だよ。これはもう逃げるしかないよね。

 <「トロメラ!」終わり>