感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

「ユナイテッド93」

「ココヴォコ図書館」と「araig:net」の両サイトがレヴューしているから(「感情レヴュー」の「アンテナ」から行けます)、これはただ事ではないと思い、急いで渋谷に駆け込んだ。息が詰まるほどの興奮とともに何か自分も書けないかと思い、両サイトをあらためて読んでみたら、あらら、僕が考えていることなんかよりよっぽど骨のあるレヴューを展開されていたので(そう、ちゃんと読まずに速攻映画館に雪崩れ込んだわけです)、読んでから行くのもよし、行ってから読むのもよし、いずれにせよ上記レヴューは、この映画を考えるにあたって何かの取っ掛かりになります。もちろん、映画だけじゃなくて、9・11(以降)の世界を考えるにあたっても。
私たちの生きる世の中は、白と黒、善か悪かの二文法で世界を了解する作法が奨励されている。アメリカ大統領いわく正義と悪の枢軸、という構図。もちろん、エンターテイメントを至上命題とする多くの映画作品も、このような勧善懲悪の構図をなぞるわけだけれど、とりわけ9・11以降、むしろ現実世界が映画の作劇術をなぞっているんだ、というような言い方もよくされる。それは、「華氏911」のマイケル・ムーアだって免れていない。周知の通り彼は、ブッシュを批判する映画を撮ったのだが、その批判の仕方は、アメリカの大儀の二文法を反転させただけだった。
ユナイテッド93」は、このような二文法による世界認識そのものを批判する作品として位置づけることができる。その点でこの作品の批評上の優位は明らかだ。ただし、善か悪かの二文法を取り払ったとき、その物語はなにに寄りかかりながら遂行されているかをも、読み取らなければならないだろう。
ユナイテッド93」は、終始、まとまった意味にはならない断片的な情報を飛び交わせているのだが【注1】、そのような仕掛けはいくつかのレベルにわたり、「ココヴォコ図書館」氏の丹念な考察の通り、二分法による統辞的な世界観をシャッフルし続ける。終盤になるといよいよそのような枠組みは前提されなくなるわけだが(つまり批判の対象でさえなくなるのだろう)、そんななかで僕がスクリーンからひたすら感じ取ったものは、知覚感覚の直接的なバイブレーションのようなものだった。そこにはなにが映し出されているのか分からないし、どのような言説がどこに向けて発せられているのかも分からない。ハイジャック犯と乗客が無秩序に重なり合うなか、それらに過剰に接視するカットが次々と切り替わり、前方が地面に吸い込まれていくような画面と鼓膜をつんざく墜落音だけが、そのような視覚情報を包摂するように知覚感覚を刺激する。
このあたりは「araig:net」氏の「危惧」を参考にしているのだけれど【注2】、このとき僕は、政治にせよ映画作品にせよ、エンターテイメントたりうる重要な要素として、上記世界の二分法的とらえ方とともに、知覚感覚のスペクタクルがあるんだったと再認識した。しかもこの作品の知覚感覚の揺さぶりは、単なる視覚上のスペクタクルというよりも(そういうスペクタクルはあんがい世界の二分法が前提されているものだ)、麻薬的な陶酔なり興奮というか、知覚感覚の直接的な「ハイジャック」といった方が近いように思う。それは善悪の理性的判断を超えて、私たちの知覚感覚に直接揺さぶりをかける。
いってみれば、視覚上のスペクタクルは、「帝国」的な演出だとすれば(たとえば私たちは、衝突、炎上するWTCを様々な角度から遠巻きにとらえる映像に、そのようなスペクタクルを読み取ったのではなかったか)、知覚感覚の直接的なハイジャックを、「マルチチュード」的な演出と呼んでみたい気もするのだけれど、「ユナイテッド93」のとりわけ終盤は、ネグリ+ハートが、超二分法的な演出を施す「帝国」に対して「マルチチュード」を対置するときの、批評性の裏に隠れて見える危うさがあるのではないかと、「araig:net」氏の「危惧」に感化されながら思ったのである。すでに色々な場所で指摘されている通り、多数多様性を肯定する「マルチチュード」は、「帝国」の超二分法的演出と表裏一体のものであり、容易に裏返る可能性がある。
ただし、くり返せば、この作品の監督(グリーングラス)が、終始一貫して二分法的な世界、もっといえば自明な意味要素で構成された世界(イスラムはこういうもの、テロリストはこういうもの、アメリカの大儀はこうあるべきもの…)に批判的なスタンスを取り、それを揺さぶろうとする意志があることは明白である。じっさい、このような二分法的な世界のシャッフルを下敷きにした、知覚感覚の直接的な揺さぶりに突入するラストに、明確な意味を見出すことはできない。まして、わかりやすい政治的なメッセージを読み込むことは慎むべきだろう。
とにかく、僕が言えることは、なんだかわけのわからない、えがたい体験をした、ということに尽きる。単純に映画という尺度と、9・11以降の政治的な尺度とがごっちゃになって、興奮や息苦しさやが同居した状況で、なにか明確な喜怒哀楽に結び付かない、歯がゆさというか爽快感を感じていたのだが、その「墜落」の先から私たちはなにを考えることができるのだろうか。

22日注記:「ココヴォコ図書館」氏へは、http://anotherorphan.com/2006/08/93.html 「araig:net」氏へはhttp://d.hatena.ne.jp/araignet/20060820/1156002405。「ユナイテッド93」をめぐってさらにホットな議論が展開されています。



【注1】カサヴェテスばりにぶれまくるカメラ撮影を編集したそのスクリーンは、複数の旅客機がハイジャックされたなか、航空管制センターと防空指令センターの混乱を交互に映し出し、そしてハイジャックされたユナイテッド93便の機内の、乗客とハイジャック犯の交錯するやり取りを交互に映し出していた。
【注2】この作品のラストを、ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」に重ね合わせることによって説話構造を明らかにし、政治的な意味を読み取り「危惧」につなげるあたりは、なるほど、以前阿部和重氏がM・ナイト・シャマランの「サイン」をこれまたロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」と重ね合わせて論じたとき以上の衝撃を受けた。僕は阿部評以来、嫌いだったシャマランが大好きになったのだが、この件に関しては「映画覚書vol1」を参照。例えばドラキュラのようなクラシックモンスターが善か悪のどちらかに回収されやすいのに比べて、ゾンビは、とりわけロメロ以降、世界の二分法を相対化するホラーキャラとして位置づけられることになり、その説話構造上の意味・機能はゆるぎないものだ。善悪の理性的判断などなく、そこにあるものにただひたすら噛み付き、みずから感染の媒体となること。それ以上でも、以下でもない。その融通の利かなさがB級・マイナーなポジションを抜けだせない足かせではあるのだが(ゾンビが喋ったり理性を持ったり、美しかったり、軽やかにアクションシーンをこなしたりした場合を考えてみよ! ロメロはじめ数あるゾンビ作品がついついそのような禁じ手に手を出した歴史がゾンビものの歴史でもあるのだが、それは単なるギャグにしかならない)、その説話構造上のシンプルさこそ、善悪の意味づけを超えた、根源的な「恐怖」「恐慌」――それはときに恍惚とした感情を引き出すかもしれない――を演出する鍵となるのだ。