感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

ジ・エンド・オブ・ザ・「DEATH NOTE」

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

いきなり決め付けからはじめるけれど、「デスノ」の終盤が納得いかない理由は、ごく凡庸なサスペンスものになってしまった、ということに尽きる。
デスノ」の物語展開は、「駆け引き」が主軸を占めていた。それは言葉のロジックによる駆け引きであり、心理戦である。以前のレヴューにも書いたけれど、かつて「デスノート」をドストエフスキーだと定義したひとの言葉を、その通りだ! と思わず感心したのも、恐らくこの駆け引きがとても魅力的だったからだと思う。*1
思えば、「デスノ」の構成は最初から、基本的に、私たち読者にすべての情報を与えたうえで、ライトたちの駆け引きを見ることができるようになっていた。私たちは、ライトとエルが所持する情報量の差をちくいち確認できるようになっていたから、そのつど繰り出されるライトの言葉も、エル(ニア、メロ…)の言葉も、駆け引き以上の体裁をとることはなかった、基本的に。
しかし、終盤から結末にかけては、私たち読者にとって「謎の部分」が物語の展開の鍵を握ることになる。言ってみれば、読者に与えられない情報が物語の主軸を握るわけだ。それはごく普通にサスペンスの手法というものである。そうして、最後の最後で種明かしをしてみて、どうだ、驚いただろうっていうやつ。むろんそれはそれで、物語には重要な技法のひとつだし、僕はなにもサスペンスが悪いといっているわけではないんだけれど、これは断じて「デスノ」ではない、と感じたわけだった。
もちろん、終盤も、「デスノ」特有の、言葉数の多さは圧倒的だった。しかしこれは駆け引きというより、説明でしかない。ライトの、あるいはニアの、各自にとっては整理された説明。っていうか、最後のニアの説明、頭悪いからぜんぜん入ってこないよ…。


――*―
追伸:法政大学の学生の方々、先日は大変お世話になりました。言い忘れましたが、絵画における谷崎タイプは、藤田嗣治です。彼も、谷崎翁と同様、技術的に優れたひとですが、つねに過剰さを持ち合わせていました。彼のどのシリーズにも指摘できることなのですが、好例は、彼の戦争画でしょう。一作品でも見れば、国威発揚したいんだか、反戦してるんだか、わけが分からなくなります。*2
もうひとり言及したいのは、現代アーティストの会田誠氏です。彼の「多重フレーム」理解「複数文脈」操作は、見事なものです。川端=日本浪漫派的なイロニーの戦略というよりも、会田氏の場合、彼のメディア映りを見ていると、ニヒリズムの戦略、と呼びたいところなのですが、彼の「戦争画リターンズ」シリーズは特筆すべきものです。
そのうち一例を挙げると、学生服を着た日本と韓国の女子学生に各々の国旗を持たせ、対峙させる構図をとります。一見して、戦争画というお堅い形式に、可愛らしい女の子というキッチュな風俗イメージを重ね合わせて、この作品がダブルスタンダードを意識していることは明らかでしょう。
さらに言うと、これは、政治に対するカウンターの効果も期待されている。私たちを取り巻く政治は、自分たちの根拠を、正義とか民主主義とか言って取り繕っているわけだけど、本当は、画家に戦争画を描かせたり、オリンピックとかワールドカップや博覧会を開いたり、メディア操作をして自分たちの映りをよくしたりするなど、一見政治とは無関係な美学的装置を使いこなしながら延命を図るものです。政治の美学化、というやつです。最近では、自民党の広報戦略は言わずもがな、モーニング娘。を起用した自衛官募集のポスター(2003年)が、アイドルのポスターにしか見えなかったという話とか、「まんが防衛白書」(平成17年度版)の表紙が、「もえたん」ならぬ、萌えキャラを起用していたりとか、否定的な言葉で言えば、そういう二枚舌を使ったポピュラリズム戦略が、政治の美学化といってもいいでしょう。具体的にどういうことかというと、ごく政治的な利害関係や論点が、美学的(萌え的?)な装置によって曖昧になってしまうわけです。30年代の、川端康成藤島武二的なイロニーは、政治の美学化に最も貢献しやすい表現だったと思います。
とにかく、政治の美学化に依存した政治は、おのれの美学化の側面を、普段は私たちに見えにくいように(批判されにくいように)していますが、会田誠氏の戦争画は、この二枚舌を浮きだたせて見せてくれるわけです。そういう意味での、政治に対するカウンターですね。
もう一点、美術界に対するカウンターもある。多くの美術家は、自分たちの作品を、あたかも、美的なイメージとして自立したもののように取り扱うわけですが、美術作品は政治と切っても切れないものである、ということを、会田氏の戦争画リターンズは物語っている。かつて画家たちが戦争画を描くことで政治に深く関与したことを、後の世代が忘れようとしても記憶としてたえず襲い掛かってくる、復讐してくる、という意味でのリターンズでもある。あるいは、作品が市場でいくらで売れたとか、何とかいう賞で評価されたとかいうときも、それは純粋に作品が評価されただけではなく、政治的な操作、思惑も絡んでいるはずだ、ということ(最近でも盗作疑惑がありましたが、そもそも選考過程はどのようなものだったのでしょうか?)。そういう、人々が見てみぬふりをしがちな、美術界の二枚舌も、会田氏の作品は浮きだたせているといっていいと思うわけです。
そのほかにも、いろいろと挑発的な作品がある作家ですが、いずれにせよ彼は、いくつかの文脈、いくつかのシステムを横断する形で仕掛けられた罠やトリックを解きほぐし、隠された論点を浮き彫りにしたり、あるいは自ら罠を仕掛け、論点を強引に捏造したり強調したりするのが非常にうまい作家ではないでしょうか。
最後にもう一つ話題、80年代から90年代にかけての、文脈操作の変遷について。まず、80年代の文脈操作は、文学や現代美術におけるパロディにしろ、お笑いやマンガのギャグにしろ、当該作品がメタレベルに立つこと(複数の文脈にまたがる自分だけが偉い!)を確認するものだったわけですが*3、90年代の文脈操作は、メタレベルの痕跡をほとんど失います。例えばここ数年有名なアーティストのうち、とくに村上隆氏、奈良美智氏(会田誠氏もふくめていいけれど)が、萌えキャラをファインアートとして引用、作品化していることは象徴的。けっきょく可愛いキャラは、どこの文脈から引用しても、その作品を偉ぶらせないわけです。だから、村上&奈良のキャラ作品は、せっそうなく、というか容易に色々なメディア・ジャンルに引用されもする。
意図的に引用する、というか、ほとんど感染、という感じですね。感染的な文脈横断。村上氏の場合は、NYで6800万円で落札されたと思えば、その一連のフィギュア作品が350円ほどで食玩になったり、ゆずや森ビルとコラボしたりするわけだし、奈良氏のは装丁や日用品のデザインになったり、なにかのイメージキャラになったりして、至る所でそれらしきものを眼にするわけです。
そういえば、かつて30年代の、とくに日本画なんかは、マンガとかキャラクターとか言ってもいいような、きわめて平易なものを、そのころから表現しはじめたのでしたね。当時の藤田嗣治も、複製的なキャラを生み出し、画面の至る所に貼り付け、シリーズ化したりしたけど、やっぱりなんだか過剰なんですよね、このひとは。単体で見ると可愛いはずなのに、じっと見てると、気持ち悪くなってくる。

*1:ところで、今月号の「スタジオボイス」にて、伊藤剛氏が「デスノ」のことを、マンガの「ライトノベル」という形容の仕方で紹介していたのだけれど、腑に落ちない。うまく説明できないが、あの作品の、意外にジャンル分けしにくい過剰な部分が、「ライトノベル」と言ってしまうと、抜け落ちてしまうような気がする。少なくとも、「ライトノベル」と言うなら、他の数多あるマンガ作品をそう呼んだ方がしっくりくるじゃないか。

*2:本物をまとめて見れればいいんだけれど、最近、展覧会が終わったばかりなんですよね。

*3:詳しくは「8月30日の復習」(1)および(2)あたりを確認してくださると幸いです。