感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

33年式キングコングVS新コング

キング・コング 通常版 [DVD]

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キング・コング [DVD]

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リニューアル映画「キング・コング」、DVDで見ました(2005年公開、初代は1933年)。ほうぼうで評価が悪くないので、期待して見たのですが、終始感情移入できず、残念でした。
監督が監督なだけに(ピーター・ジャクソン)、「ロード・オブ・ザ・リング」第4章という感じで、圧倒的なスペクタクルを堪能しつつ、途中「ジュラシック・パーク」(-「ロスト・ワールド」)的なシーンがあったりするなどそれなりにスリル感を味わえたのですが。
とにかく、最初から最後までするするゲームをクリアーする感覚で、苦境というか難所を乗り越えていくわけですよ、ヒロインのナオミ・ワッツが。自分の主体的な意思や判断とは無関係に、難所に送り込まれて、そのたびにステージクリアするナオミ・ワッツ
何をしたいのか不明なまま、撮影スタッフ陣が乗る船に誘われるナオミ(初代ヒロイン、フェイ・レイはもっと主体的(というかかなり適当な人間)だったのに)。骸骨島に乗り込んだ後、スタッフ皆が逃げるなか、都合よく一人だけさらわれるピーチ姫、ナオミ。逃げだしても逃げだしてもコングに囲われるナオミ。NYに再び戻り、エイドリアン・ブロディが、暴れるコングをナオミからどれほど遠ざけても、待ち構えていたかのごとくそこにいるキャリー、ナオミ。
ひたすら難所に巻き込まれる彼女を軸に、この作品は最初から最後まで一貫して、スペクタクルで圧倒するゲーム仕立てとなっている。
ただし私は、ゲームのような、という形容でもって一つの作品に否定的なレッテルを与えたいと思わないし(ここでいう「ゲーム」とは、ろくに悩みもせず、与えられた選択肢を切り抜けていく、といった程度の意味合い)、そもそも、ゲームのような映画は見るに耐えない、とも思わない。
この作品の見るに耐えない――というほどでもないんだが――と感じさせるところは、表現したい意図と、結果的に表現されてしまったものとの齟齬にある。この齟齬は、おそらく、最近の、CGをばしばしふんだんに使った映画作品にしばしば指摘できるものだ(たとえば「ハリポタ」の1と2、とくに1。ハリーの相棒ロンくんが、いきなり実存的な死を賭した英断を下すところは、感情移入なんて当然できないし、さんざんゲームのような展開を見せられたあげくこれかよみたいな、正直、なめてんのかと思った)。
要するに、こういうことだ。この作品は、圧倒的なゲームの展開のなかに「人間」を描こうとしていて、私たちは、終始「ゲーム」にぶざまに敗北する「人間」を見せられているのである。実に3時間超。

―――
「人間」というのは、様々な人間関係――この映画では、ナオミとエイドリアンとの、あるいはナオミとコングとの「恋愛」関係があり、ナオミと映画監督役のジャック・ブラックとの雇用関係があり、などするわけだけど――に基づいた葛藤やら、そこから発生する苦悩や感情を抱えた存在のことですね。これをプロット上に前面に押し出すと、当然、「ゲーム」性は損なわれる。石川忠司氏いわく、ゲームの流れ的に「かったるい」、というやつだ。「ゲーム」的展開にとって重要なスリルやサスペンスは感じられなくなるし、それに何より、スペクタクルなシャワーによる知覚感覚の心地良いマッサージだって感じられなくなる。
この作品は、ゲーム的快楽を追及しながら、たえず「人間」を描こうとする欲も手放せないでいて、コングの「人間」性さえ描き出そうと必死になる始末。
しかし、結論から言えば、それは薄っぺらなものしか表現しえていない。ナオミとコングとのちくいち接近・回避する情動関係はきわめて恣意的な感じがし、エイドリアンとの関係はそれこそとってつけたものでしかない。
ハリウッドのエンタテイメント路線なのだから、コングと最初に感情を交流させる場面は、あんな二人っきりで、夕焼けだかの空を眺める「人間」的なシーンじゃなく、たとえば、その後すぐ恐竜に襲われるシーンで、コングがどうしてもナオミを助けざるをえないシチュエーションにもっていったうえで、そのあたりからじわじわと感情の交流をはぐくむプロットを置いていくべきだろうし*1、ラストにおける、コングとの熱い感情交流を経た後、またもや遅れてやってくるエイドリアンとの、締まりのないハッピーエンドの場面だって、ナオミがコングとエイドリアンのどちらかを選ばざるをえない、というか、どちらかを見捨てざるをえないような場面に仕立てるべく、前段階からプロットを組むような、べたな展開も辞さずといった覚悟を見てみたかったんだけど。
最初の交流シーンも、再度感情の交流を確認しあうラストシーンも、ナオミとコングが二「人」きり空を見ながら「美しい」とか呟きあうんだけどね(実に古典的な感情移入のレトリック)。だけど、ゲームを徹底するにしろ、あるいはひょっとすると、ゲーム性の上に――キング・コングという非人間的な存在との感情の交流の上に、と言い換えてもいい――人間的なものを構築するためにもなおさら、ここは、そんな「人間」らしいシーンを置くのではなくて、恐竜とのスリル満点なアクションシーンを置くなり、恋敵エイドリアンとのサスペンスたっぷりな駆け引きを置くべきだったんじゃないかと私は思うのだ。
少なくとも私だったら、そういうプロットにおいてこそ、感情移入し、私という人間の感情をよろこんで、あるいは涙しながら差し出せたような思いがする。まあけっきょくはプロットの具体的な出来栄えしだいなんだろうけれど。

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もう一つ、このような感情移入の阻害要因を逆説的に指摘するとしたら、新コングは表情が豊か過ぎるということだろう。「人間」的であろうとして正しく豊かになったコングの表情に、私はむしろ感情移入できなかった。他方、33年式コングの、しばしばわかりやすいほどキレて険しくなるまぬけ面、とんま面には意外にも愛嬌があり、感情移入しやすいのだ(この辺の問題は、手塚治虫を題材にしてキャラ分析を展開した伊藤剛氏の「テヅカイズデッド」から示唆を受けた)。

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CG、デジタル機器などの撮影・編集技術によって、自分の意図する表現を好き放題表現できるようになった今日。モンスターにしろ、宇宙人にしろ、幽霊にしろ、本来なら見えるはずもなく、また存在するはずのないものさえ、自在に表現できるようになった。
トラウマのお化け(「ザ・セル」)やら、記憶喪失の原因(「フォーガットン」)やら、増殖するネット上のプログラムデータ(もちろん「マトリックス」)やらなんかと、人間がバトルを展開するだなんて、信じられない表現さえ可能になった。高度な情報処理技術がなければ、そもそもこういうような表現追及の欲望なんてなかったんだろうけれど*2
キング・コングでもそれは同様であって、スリル満載のスペクタクル映像をふんだんに展開するだけではなく、コングの表情や仕草を、ともすれば「人間」以上に豊かなものに造形し、「美女と野獣」の感情の交流を描出しようと躍起である。33年式コングにおける映画監督役が、馬鹿にしながらやろうとしたことを、この監督(もちろんピーター)は、本気でやろうとしているのだ。デジタル技術と、それから、アン・ダロウならぬナオミ・ワッツという生まの女優を使って(事実、ナオミ・ワッツの、3時間超の各所で見せる、肉体を酷使した演技は、見ていて涙ぐましいものがある。ここでも、たとえば「マシニスト」のクリスチャン・ベールに見られた、演出上の批評性を演技者の身体に全権委託・外注する、といういささか偏向した様相に似たものをかいま見た気がする。06-1-23の日記参照)。
しかし、CGをふんだんに使用しているわりに、(コングをふくめた)「人間」を描くその演出上の基本姿勢はきわめて古典的なものだ。しかも、手が込んでいるのは映像表現上に特化されているから、「人間」はどれもこれも薄っぺらな印象を拭えない。ポストモダンの技術とモダンな演出の決定的解離。
他方、33年式は、当時の特撮技術の制約を受けながらも(遠景と近景が頻繁に切り替わる、とか)、基本的にスペクタクルな活劇で一貫させていた。そもそもヒロインは叫んでばかりいて、コングとの感情交流を積極的に行った形跡は見られない。しかしくり返せば、そこにこそコングの「人間」が描出されていたし、だから私は、このコングに感情移入しながら様々に彼のことを思ったのである。
スペクタクルにもエンタテイメントにも恥らうことなく突っ走る勇士を、新コングにも見たいと思った。

*1:実際、33年式コングは、ヒロインと向き合う前に、襲いかかる恐竜から彼女を救い出すポジションに立たされた。それは、恐竜・大蛇・鳥獣と、つごう三度もくり返されることになる。ただし、このコングは、ヒロインとの感情の交流をたえず妨げられ、結果的にはコングの「悲恋」という形をとる。これが、コングの意外に愛嬌のあるキャラクターとあいまってストーリーに哀愁を漂わせることになる。当時としてはかなりの暴力的なスペクタクルの映像に、この哀感が重なっているわけだ。このへんに、この33年式コングのあなどれないところがあるのに注意したい。それは、コングが、単なる生け捕りの哀願物としてヒロインを追い回しているのか、それにとどまらない「人間」的な感情の交流を目指して追い回しているのかに回答を与えないところであり、コングとヒロインの間に、「美女と野獣」の構図を見出してそこにコングの愛情を終始感じたがる映画監督を牽制し続けるところである。この監督役は、冒頭から、映画ってものは色恋や女が必要なんだ、それさえあれば観客は納得する、とうそぶくわけだけれど、要するに彼は、画面に映りさえすれば、コングみたいなケダモノにもなんらかの感情を感じようとするし、いやでも感じてしまう私たち観客の代弁者なのである。この作品は、こういう感情湧出がおよそ不可避であることと、その(あなたの)感情はしかし嘘っぱちというか、しょせんあなた(がた)のものであって、コングのものでもあるかどうかは分からないんだよって示し続けているわけなのだ。かたや新コングは、(ゲーム的な成り行きに反して)「人間」的な感情の交流をさせようと必死な魂胆ばかりが目に映る。目に余る。であるからして新旧二作の決定的な違い。まず新コングは、非人間的なゲームパートと人間パートは別々の入出力、別々の演出が必要だと思っている。33年式の演出法は、いかなる別々のパート、相異なるフレームも同時に手がけることこそ効果的だと踏んでいる、そういう違い。

*2:逆に、人間関係を造形するプロットは平板かつ単純なものになりがち。なにしろ、人間の心的葛藤がアクション・シーンになっちゃうんだからね。「まことちゃん」の世界だよ…。見えないものを好きなように表現できない時代だったら、それを表現するためにも、人間関係を奥行きのある形で造形しながらプロットの伏線を張りめぐらせるほかなかっただろうに、とか思ったりするんだけれど、一概にも言えないか。脚本・台詞に頼ったりする逃げ方もあるんだろうからね。