感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

反東京タワー

 獣のごとく日々面白そうな作品を求めている私のような者にとっては、ウェブ上の映画・文学・マンガなどのレヴューは、いまや欠かせない情報源となっている。それこそウェブ上ではいたるところに、様々な作品をめぐっての、様々な言葉が書き込まれている。そこにはいろんな感情が渦巻いていて、一つの作品をとっても、喜怒哀楽、毀誉褒貶、様々ある。
 そのうち一個一個はジャンクのようなものでも(もちろんこの「感情レヴュー」もふくめて)、二つ三つと読んでいくうちに、なんとなく或る方向性なりメッセージなりが与えられたりするし、ときには、私の感情回路にショックを与えてくれたり、重要なヒントを与えてくれたりする言葉に出会うときもある。
 たとえば、あの作品の、あのシーン(わずか数秒の場合もある)の、かくかくしかじかの演出が素晴らしいとか、カット割りが斬新だとか、あのキャラのあの仕草に萌えるとか、あの作品のあのシーンがこの作品に重なるとか。*1
 一つ一つは些細なことかもしれないけれど、これらが堆積していくうちに(その多くが忘れられるのだとしても)、私の感情回路は日々変わっていることを感じる。このブログがその一つの記録のようなものなのだろう。
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 一つの作品の、まとまったレヴュー群を見ていると、しばしば、相容れない感情が並べられていることが目に付く。ときには論争めいたやり取りになっていることもあるけれど、まあたいていは感情のスレ違い。
 思えば、恋人とか友達とかと一緒に映画なんかを見ているとき、こんなところが泣くシーンかよ、っていうツッコミの視線を注がれたことくらい、誰にだってある。その映画が終わったあとに、二人でお茶をしながら感想を言いあっているとき、あなたはそんなところに関心が向いていたのかと知って、思わず唖然とすることだって一年に何度かはあるものだ。
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「泣ける映画だって期待して見たけど、期待はずれだったよ金返せ」的なレヴューをよく見る。そういう感想って、なんかもったいないなあ、という気がしてしまうものだけれど、省みれば、かく言う僕も、同じようなことしょっちゅう感じてるんだよな。
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 最近の映画界しかり、活字出版界しかり、マンガの世界しかり、なんでもかんでも「泣き」(と「サプライズ」)がテーマになっている。ハンカチを用意し、あらかじめ「泣き」を当て込んで映画館に入り、頁をめくる。
 自分の感情世界を、そんなに軽々しく武装解除し、明け渡してなるものか、という思いも当然ある。けれども、なんでもかんでも泣いてしまえ、感動してしまえ、感情移入し心揺さぶられてしまえ、という文脈に対抗(?)するためには、それこそ自分の感情世界を総動員して、なんでもかんでも泣いてしまえばいいんだ、くらいに思っている。
 しかしその泣き方は一様ではない。様々な泣き方で泣いてあげる。
 定石通りストーリーを追って泣く者もあれば、ある一シーンのカメラの長回しに目をみはり、目をはらす者もいる。同じ場面の、人間関係に注目する者もあれば、ふいに別の作品がよみがえってきて、思わず泣いてしまう場合もある。*2
 泣き虫というんじゃなくて、こんなふうに色々な涙を流すことができるように、泣きのモードを何枚もそろえることが、理想の感情教育なんだろうと思ったりする。そう、どれが正しい泣き方かとかではなくて、喜怒哀楽いずれにしても、こんな感情移入の仕方があったんだという発見があるときは(実験台はもちろん自分の知覚感覚で)、たとえ些細なことであれ、僕にとってはとてもうれしいものなのだ。*3

付記:06年8月21日、「ツレヅレニ思ウ事ナド」から当タイトルに変更。

*1:かつて、「デスノート」がドストエフスキーだという卓見を目にして以来、僕にはすっかりデスノートドストエフスキーになっていて、誰かと「デスノート」の話になると、まるで自分の意見のようにこの話をしないではいられないのだ。

*2:たとえばジェームズ・キャメロンを見るたびに、捻じ曲がったり断片化したりする「時空」と、それを縫合したり包摂したりする「母性」という一対のテーマが出てくるのにいつの間にか気付いていて、「エイリアン2」(あるいは「アビス」)から「ターミネーター」シリーズ、そして「タイタニック」のラストなんかはそんなところでひとしきり泣いていたり。かつての殺人魚の群れがエイリアンとして襲いかかってきたり。

*3:だから、僕の感想に半信半疑ながら共鳴しつつ受容した作品に、僕の言葉どおりの感情の揺さぶられ方で心揺さぶられた人がいるなら、ある種の罪悪感とともに、それもまたとてもうれしい。