感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

少女マンガの一断面――8月30日の復習(2)

ここ数年、少女マンガの話題作といえば、「のだめカンタービレ」(二ノ宮知子)と「NANA」(矢沢あい)と「ハチミツとクローバー」(羽海野チカ)あたりになるんじゃないかと思います。ほんらい少女マンガに関心を持たないような人も、この三作のうちのどれかは、何かのきっかけで接触しているんじゃないでしょうかね。
かく言う私も、少女マンガをジャンルのマスとして論じられるほど精通してはいないものの、とりわけこの三作は、続刊ごと楽しみにしている口なのですが、少女マンガというジャンルに一括される三作だとはいえ、ぜんぜんちがう性格を見せてくれる点で、注目してもいるわけです。

周知の通り、少女マンガの特異性は、心内描写の豊かなところにあり、とりわけそれを描写するために、ふきだしの外のスペースを有効活用しています。
マンガ史をふりかえれば、1970年ごろ、いわゆる24年組が、心内(の葛藤)を描写・表現するために、ふきだしの外に、内言のスペースを見出したことは、よく知られています。それが方法化し、少女マンガの個性となる。以降、少年マンガサブジャンルだったこのジャンルの自立をも促進することになった。(このあたりは、とくに大塚英志氏の、「教養としてのまんが・アニメ」「「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか」「「おたく」の精神史」などに詳しい。24年組とは、萩尾望都大島弓子竹宮恵子など。手塚治虫石森章太郎に影響を受けたが、じっさい、手塚ら自身、60年代を通して、マンガにおける心内描写を実験していたとのこと。じじつ、このころの石森やその周辺は、人間と非人間的なものの間で葛藤し、内向しまくるヒーローを登場させつづけたわけだしね。文学史的には、ちょうど内向の世代と重なります。)
ふきだしは、声として出した言葉の台詞。ふきだしの外は、言葉にならない台詞、言葉にできない台詞。これらの要素が、ふきだしの台詞(あるいは、コマのなかのキャラクターの表情や動き)としばしば対立しながら、キャラクターの関係を複雑なものにし、ストーリー展開を立体的なものにすることに貢献。
もちろん、少女マンガのこの発見より前に、ふきだしの外は、ナレーションのスペースとして、ときおり利用されてはいました。しかし少女マンガが、心内描写のためのスペースとして発見して以降は、ときに詩的叙述のスペースとして、ときにナレーションとして、ときに注釈として、等々、ふきだしの外は様々なレベルの言述が多層的に重なり合うスペースとなったわけです。

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上記の三作品の性格がちがう、といったのは、まさにこの少女マンガ特有の――といっても、いまや少年・青年マンガでも有効利用されているわけですが(たとえば古谷実氏の10代男子の心内描写は特筆すべきだと思う)――、内言のスペースの使い方に関してです。いいかえれば、ふきだし外の言述と、その他の、コマ内要素との関係の処理の仕方が、まったく性格を異にする、ということです。

のだめカンタービレ(1) (講談社コミックスキス (368巻))

のだめカンタービレ(1) (講談社コミックスキス (368巻))

たとえば、「のだめ」は、ふきだし外の言述を、コマの(ストーリー)展開のキャプションのように使っている。キャラの心理の動きやストーリー展開をスムーズに飲み込めるように、翻訳・解説してあげている感じ。他の二作と比べたら、もっともオーソドックスな印象を受けます。ストーリー展開に、徹底的に奉仕しているわけですから。ここでは、ふきだし外の言述と他の要素が対立したりずれたりすることはほとんどない。そういった事態は、望ましいものではないとされる。
思うに「のだめ」は、コマ割りやネームが、少年・青年マンガとフォーマットが近い。たとえば、「のだめ」では、心内描写もナレーションも、たいてい、線で囲った枠内で語られます。言葉と絵を、見やすいようにレベル分けするわけですね。(あともう一点、コマとコマの間には、たいてい、ちゃんと溝がある。ひとコマが単独だということです。少女マンガはおうおうにして、コマとコマの間は連続的、あるいは多層的に重なる場合が多い。「NANA」も「ハチクロ」も同様。)
これでは、あの、言葉にできなさとか、表情に出しづらさとかいった微妙なニュアンスが出しずらいんじゃないかと思うんですよ。いかなる枠内にも囲まれず、絵に溶け込む言葉の効用を、できるだけ排除すること。だから「のだめ」のストーリー展開は、終始メリハリがあって、非常に読みやすい。ストーリーに入り込みやすい。
言葉にし切れないキャラクター間の関係や環境としての絵に溶け込む言葉。この言葉の効用を、たとえば少年マンガでは、古谷実氏なんかはよく分かっていて、それ(ふきだし外の言述)を多用するのみならず、絵の方からも、そういう言葉のポジションに接近しようとする。彼の描くコマには、(キャラクターの心象や、キャラクターの関係が育む環境が)観念的に概念化された絵図が、ストーリー展開の本筋とは無関係に入り込むことがしばしばありますよね。
これを徹底して推し進めたとき、彼特有のホラーキャラが誕生するんだと思う(たとえば「ヒミズ」「シガテラ」)。その奇妙なキャラ(というか絵図)は、ストーリーとは関係ない形で挿入されるわけですが、以上の理由から、いわくいいがたい必然性があるものなのです。
まあ、「のだめ」はそもそも、人間関係の綾とか複雑な心理戦とかそーゆー小難しいプロットは無視して成り立っているわけです。なにしろ、二人の超人――やっぱジャンプ系でしょうか? いわゆる天才バカって奴ですね――男女の恋物語だからね。黒木くんとかいくらがんばっても、三角関係に入る余地がない。
(その上で、ふいに見せる、女の子らしさ、男の子らしさ、人間らしさ(?)にドキッとさせられるわけですがね。こういう演出はやっぱり少女マンガ家だなと思わせてくれる。要するに、異なるフレームを操作して、読み手の感情をくすぐったり揺さぶるのが非常にうまい。そもそもこの物語は、クラシック音楽界の立身出世というフレームと、恋愛フレームの折り重なりで成り立っているわけですが、「NANA」もそうだけど、とくに少女マンガは、こういう複数フレームをうまく使いこなすんだよね。言葉と絵の関係、ふきだしとふきだし外の関係も、けっきょくそういうことなのでしょう。)

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NANA (1)

NANA (1)

他方、「NANA」は、ふきだし外の言述の存在をとても重要視しています。心内描写のみならず、語り手(基本的に二人のナナによる)のナレーションが、おりにふれ出てきて、ストーリー展開をメタレベルから統括する、といったフォーマットが基調となっている。
「のだめ」のふきだし外言述が、スムーズなストーリー展開のためにきょくりょく存在を消去することで役に立とうとしていたとすれば、「NANA」のは、際立つ形でストーリー展開に方向を与えようとする。メタレベル隠蔽型に対する、強調型ですね。
こういう形での、ふきだし外の使用法は、80年代の少女マンガに源流があると思うんですよ。紡木たくとかいくえみ綾とかですね。再び大塚英志氏によれば、70年代に確立した、ふきだし外の言述は、80年代において全面展開する、というようなことを言っています。
そこでヒロインは、自意識過剰ぎみの心内語りを、えんえんと物語りつづけるわけです。紡木たく氏に「瞬きもせず」という作品がありますが(「ホットロード」なんかは、僕が学生時代のころの、同級生の女の子はよく読んでいたものです。ジャンプ系の超人たちが節操もなく強くなっていくころですね。「ナルト」とか「ハンターハンター」あたりは、その超人たちもしょせん、カードゲームみたいな、大きなシステムのなかのコマに過ぎないってことが前提になってるんだろうな。だから彼らは、ただ強くなることにリアリティーを見出せない。このへんはまた別枠で書いてみたいテーマなんですが)、この作品は、恐ろしいことに、そのふきだし外の語りを追っていくだけで、ストーリーの内容を把握することができてしまうんです。ていうか、逆に言うと、コマの連続で展開する部分は、ほとんどストーリーらしきものがない。なんか、日常の瑣末なエピソードを細々と描写しているだけなんですよ。
基本、男女の恋愛ストーリーなんだけど、それはほとんどナレーションの水準で処理される。ある男の子が好きで、愛されたいんだけど、うまくこの気持ちが伝わらなくて悩む女の子のナレーション。ずっとそういうことを語っていて、その解説として、コマ内の絵が割り振られている、といった感じ。実存的な葛藤や対立やずれといったものは、絵と言葉の間、ふきだし外の言述とその他の要素との間には、見当たりません。葛藤らしきものがあるとすれば、女の子が悩みながら語る、自意識過剰な言述のなかに繰り込まれてしまっている。わたし的には、こうしたい、けれど、うまくいかない…。
「NANA」のふきだし外のナレーションも、基本的にこの流れにあると思います。なにしろ、この語りは、「NANA」の物語が終わった時点からの回想、というポストヒストリー的な立ち位置にある。しかも、この時点は、いつごろなのか不明確で、どうやら二人のヒロイン、ナナの関係が破局した後らしい時点なのですが、じっさい、物語のすすみゆきは、二人のナナや他のキャラクター間に様々な心理的切断線を引いていきます。回想ナレーションの予言が少しずつ当たっていくように。
こういった哀しくて、メランコリックな空気を、この(ナナによるナナの、自己言及的な)ナレーションの立ち位置こそ、効果的に演出することに多大な関与を示している。(二人のナナが主軸になって、そのときどきの心内を披露するナレーションを展開するのだけれど、とくに、毎話ごとの最初と最後をかざる詩的ナレーションが、ストーリーを支える座標軸となっています。そもそもこの作品というかこの作家は、ときに暴走・自爆しかねない自己言及的なギャグや演出をふんだんに仕組んでいる。いまやこれも少女マンガの常套的な演出の一つですけどね。たとえば、毎巻ラストを飾る、読者参加型の「おまけページ」。あるいは、活字とは別の、作者個人による手書きの台詞。それに、キャラクターはつねに虚構内存在であることを意識したボケやつっこみをしばしば披露する。なかでも、最初のころの「サチコ」ネタは圧巻だった。)
以上のように、「NANA」は、メタレベルの操作が、ナレーションもふくめてふんだんに仕組まれています。しかし、以上の効果は、ストーリーを突き放したりしないし、読者の感情移入を疎外するような、虚構としての完全な相対化には至りません。むしろ、感情移入の導線となるものなのです。ここが「NANA」の重要なところではないでしょうか。
要するに、確かに「NANA」は、80年代の流れを汲んでいると思うんだけれど、キャラクター間の複雑な関係のなかにも、ふきだし外の言述をもりこむ(つまりナナ以外のキャラにも、多様に内言を披露させる)など様々な演出を仕込むことで、その流れを逃れている。相対化している。つまり、ポスト(ヒ)ストーリー的な、大きな枠組を踏まえたうえで、様々なキャラクターの関係が、小規模中規模のストーリーをはぐくんで横断する。
だから、「ナオキ特別編」(9巻所収)みたいな、特定のサブキャラに焦点を当てたサブストーリーも生まれ、いわばサーガ的な様相さえ見せる。矢沢氏の「おまけページ」を一目でもうかがったら、他の作品のキャラもリサイクルしながら、サーガ的な欲望(っていうか「矢沢ファミリー」なんだけど)が明らかだよね。
パンクロック立身出世フレームと恋愛フレーム、ナナとナナ、トラネスとブラスト、つねに世界の中心が二つある楕円で――しかも、これらの二つのフレームが相互にからみあうことで――構成された作品だからね、そもそも。
読者の感情移入の仕方も、純粋に物語を楽しむスタイルと、各キャラ、各キャラの関係に一喜一憂するスタイルと、大まかに二通りあるんだろうなと思う。

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ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス)

ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス)

最後になりましたが、個人的に僕の一番好きな「ハチクロ」です。
各種カリカチュアライズされた萌えキャラといい、とりあえず恋愛ものなんだけど、じつはあんまし恋愛とかいう厄介ごとには興味なくて、ただつらつらとキャラクターのやり取りを描写することが快楽だ的なストーリーの進行具合といい――いや、じつはここにはドラマチックな恋愛がないだけで、こういった細々とした男の子女の子のやり取りがリアルに恋愛だったりするわけだけどね。とはいえ、この作家は、二つの三角関係を基調とした恋愛関係以外の、キャラクター同士の関係に細々とこだわる傾向があって、そういう各所で見られる脱線が恋愛プロットを蝕んでいくわけです。おそらくそういうまとまりのなさを嫌う人もいると思うけれど、僕は、そこのところもふくめてこの作家のフィクションへのこだわりはとても好きです。この人に破綻があるとすれば、それは徹底したフィクションへのこだわりの結果もたらされたものだから。うそ臭いとか、複雑にしすぎとかそういったことじゃなくて、キャラクターをはじめとするフィクションという生き物が彼女にそうさせてしまうんだと思う――、この作家のとてもコジンマリとした内輪ねたの愛らしい素人くささといい、ほぼ全部つぼにはまる。まあこういった要素をいちいち見ても、良い悪いは別にして、前二作の作家とは明らかに世代が違うなという印象を受けますよね。

ハチクロ」のふきだし外言述の使用法はといえば、まあ一言で言うと、破綻してます。言い換えると、リニアにストーリーを読む上では、明らかに、阻害要因として機能してしまう。
とくに、毎話ごとの盛り上がりの部分と、エンディングのところには、ふんだんにふきだし外言述のフレームが貼り付けられる。三つ、四つ、五つは当たり前ですね。
それぞれ言述の内容と機能は違うわけですが、それらが割り振られたコマとコマの間、ページの間を、各自好きなように――つまり他の言述フレームのことなど気にせずに――、割り振られる。あるフレームは上から下へ、あるフレームは左から右へ、ばらばらに読むことを強いる。
ときにはコマの絵も、別々の場面がモンタージュによって割り当てられたりします。もうこの様相は、完全に、リニアにコマを追うことを拒否していると言っていい。

フィクションのなかのキャラクターの関係は何通りもあるわけだけど、そのときそのとき焦点化される関係性にしたがって、ふきだし外の言述はあぶりだされてくるものですよね。ここが重要だ、って。けれども、「ハチクロ」の場合は、潜在化していていいはずの関係性もふくめていっきに出しちゃうって感じなんです。だから、いくつかの関係性の名残りみたいなものが、それらを統括するメタレベルが不在のまま、点滅しているような印象を受ける。データベースなんて言うと分かったような気になるけど、そんなでもなくて、ぼくはこのとき、この作家に恋をしてしまう。

正直、僕は、これを読んだ当初は、テクニカルなレベルでこの作家はまだ未熟なのかなと思った。でも、読み進めるごとに、確信犯だと考え直したわけです。それで、逆に、リニアにストーリーを追えなければならない、という通念を疑うことになった。じっさい、羽海野チカ氏の多重フレームのページは、言葉を追わなくても、その空気は情報として読み取れるように処理されている。縦横無尽にコマに割り込む言述のフレームは、一種のデザインとして機能しているし――この物語のキャラは美術学校に通い美術にたずさわる人たちで、作家自身そういう業界にいた人なのですが――、あるいは、キャラクターのカタログとしてもそのページを眺めることができる。
また、「ハチクロ」の妙味の一つは、ギャグパートとシリアスパートの転調にあるわけですよね。しかも無媒介的な転調。つまり、転調において、メタレベルの操作が見えない。このへんは、「NANA」と比べれば、ちがいがよくわかるはず(「のだめ」はその中間。無媒介的な転調もときにこなすけど、「プリごろ太」とか作品内作品をギャグに使うときは、メタレベルの操作が見える)。
ほとんどフラットに繋がっていながらの転調。ギャグの余韻でそのままシリアスな流れへ、逆に、シリアスの担保があってこそ光り輝くギャグパート、みたいなね。むろんこういった作法は、90年代以降のアニメやマンガにはしばしば活用されるわけで、「ハチクロ」もその流れにあるわけだけど。

僕は、個人的に、「ハチクロ」の多重フレームの前史に、岡崎京子でも高野文子でもなく、山口綾子氏の「BABYいびつ」を置いています。なぜかというと、この本のなかにある「赤い二人の女」という作品の50から60ページまでを読んだときの衝撃があまりにも強いから(高野氏の「黄色い本」も同じくらいの衝撃だったけど、これはじわじわと攻められるような衝撃)。*1
この作品のテーマは、女の子が、女性を、そして母親を選択するときの感情のゆれうごき、という少女マンガの一系譜に列なるものです。
注目すべきところは、「ハチクロ」的な多重フレームを採用しながら、なおかつ、物語をリニアに読ませることにも成功している点(映画なら、なんなくできちゃうことなんだろうけどね、見事な例は初期ポランスキーとか)。一読して明らか、っていうか、圧倒的です。
ここでは、第一に、親と娘の女性性や母性をめぐる対話が(いちおう)主軸に置かれる。第二に、このメインの会話で展開される話題とは少しずれた、娘の「悩み」の心内描写を、ふきだし外に展開させる。第一軸とこの軸は、(70年代のもののように)対立関係にありますが、正面衝突じゃない。微妙なずれ具合が、べたな悩みを回避する意味で、きわめて効果的に第一軸と対立しつつリンクするわけです。
そして第三に、思い切りべたな政治的メッセージを織り込んだロックバンドの街宣行動と、そのノイジーな擬音・言述が、第一軸と二軸を横断する。これは、母と娘の葛藤および娘の悩みは、べただという批評として機能しますが、じつは、この第三の軸も批評される関係に置かれています。べただと言って済まされるのか、と。完全なメタレベルは不在です。
時間軸も、ロックバンドの演奏がもつアップテンポと、描画演出上のスローモーション(あるいはフラッシュバックの細切れ)が相対化しあう。カメラワークも、逆光の印象を導入しながら、光と影、背景と前景がたえず反転しあっている。この後に続くエンディングのオチも、このような形式上の必然性があるわけです。

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ふきだし外の言述に可能性を見出しながら、あくまでも他の要素(コマの連続とふきだしの台詞によるストーリー展開)を優先させた70年代と、逆に、ふきだし外の言述を優先させかねなかった80年代。双方の良質な部分を継承した一瞬、というか、それ以上に、ひとつの固有な作品の達成として「赤い二人の女」はある。その固有性の経験は、時代的制約を受けるものだとしても、それには回収されない強度を秘めていると、私は信じているのだけれど、こういう結論って文芸批評の悪しき癖なんだろうかねえ。
(80年代から90年代への変遷を、メタレベルの成立から、メタもたえずネタとして回収される、メタレベルの失調へ、として記述した北田暁大氏の「嗤う日本の「ナショナリズム」」は、この移り行きを、文学史的には、「なんとなく、クリスタル」における、本文より自注を優先させるフォーマットから、「電車男」にみられる2Ch的な記述のフォーマットへの変遷としてとらえている。まあ確かに、80年代は、「VOW」みたいに、固有の文脈から切り取ったイメージ(広告とか写真)に、つっこみの注をふして笑う文化が当たり前だったんだよね。「VOW」は、むろん「路上観察学」、「超芸術トマソン」の延長にある。赤瀬川はやっぱり初期のが断然よくて、美と通俗とか、美術館と路上とか、両義的なものを両義的なままに踏みとどまってこだわっていた自分に、自注をつけて笑うというのは、いまや笑えない。メタレベルに押し出されざるをえない側面はあったとはいえ。要するにいじめであって、たとえば、しりあがり寿氏のギャグは、このような文脈を相対化するところから生まれている。ということで、いまさら去年の8月30日の復習。)

*1:そういえば、「彼氏彼女の事情」(津田雅美)でときおり見せる、彼と彼女の語りのスプリットぶりは、この前史に加えてもいいのかもしれない。ギャグとシリアスパートの転調も「ハチクロ」に重なる。庵野秀明氏演出のアニメバージョンも、確か、このスプリッティング・ナレーションをアニメに活かそうとしていたよね。06-06-28注