感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

よみがえりもの

以前、記憶喪失もの、記憶障害ものの話をしました(06-01-23)。んでですね、それと対をなす形でよみがえりもの、なんてのがあるんですよね。死んだはずの人がよみがえり、こちら側の者は違和を感じながらも、死んだはずの者と新たな関係を切り結んでいくというストーリー展開に、様々なドラマだのサスペンスがもたらされる、といった形をとります。
ハリウッドで有名なタイトルは、『ゴースト ニューヨークの幻』でしょうか。この作品では、死者は生者に絶望的に受け容れられない。そのギャップがラストの感動に結び付くわけですが、いずれにせよ『ゴースト』は、肝心の身体が消えたままだったり不完全なよみがえり方でした。このハリウッド作品なんかと比べたら、日本は、よみがえりものがかなり好きな文化だという印象がある。実際、日常の一風景のごとく受け入れられるケースが多いでしょう?*1

ホラーだって、ハリウッドは、ゴーストなりモンスターなりシリアルキラーなりは襲いかかるものの恐怖だけど(いつ出るかいつ出るかのサスペンスの演出と、ついに出るときの、如何に見る者をのけぞらせるかを演出するショッキング効果)、Jホラーは、なにげなくそこにいるものの恐怖を演出するわけです。心霊写真的な、そこにいたのかよ*2、みたいな。
まあハリウッドか日本かとは関係なく、いまや、正気とは違う狂気を描くよりも、正気の狂気を描く方がよりリアリティを感じるものですが。
ちなみに僕が好きなよみがえりものは、大林宣彦氏の撮ったものです。彼のよみがえりものの多くは、よみがえった者との体験をイニシエーションのテーマ(思春期から大人へとか)と結び付けるわけですが、いずれにしても、生者と死者、現実と夢や幻想といった階層をきっちり分けずに、イメージや脚本上の様々な媒介を導入することによって双方向的に仕上げています。こっちの世界もあっちの世界の一部だし、あっちの世界もこっちの世界の一部だといった具合に。よみがえった者はその際たる媒介者というわけです。
しかし、最近のよみがえりものは、大林的な世界を非常にクリアなものに作り変えて、よみがえりものというわかりやすい物語に仕上げているような気がしてならない。だからどうせこの手のものだろうと思ってずっと敬遠していた『いま、会いにゆきます』の映画を最近テレビ放送するっていうついでに見たんですが、これがまたまたどうしてとてもよかった。たとえば、たった一度の梅雨の季節だけよみがえる彼女は水の女ゆえに、この世から再び消えるときも水を媒介にして消えるシーンとか、二度描写される、ひまわり畑での男女の邂逅シーンの、一度目と二度目の意味のずれ具合とか。

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つまり、へたに演出すると、べたな物語の流れに感動を阻害されかねない随所随所に(原作がべただと言ってるんじゃないよ。テーマ自体がどうしようもなくべたになりかねない要素をはらんでるということです)、演出の工夫を凝らしてうまいこと見る者の感情を誘導しているところが好印象を受けたんです(監督の土井裕泰氏はテレビドラマの演出をしてるみたいですね)。ぎゃくにこれ*3がうまくいかなかったのが『世界の中心で、愛をさけぶ』の映画化で、ここで監督の行定勲氏は、べたになりかねない物語の流れに巻き込まれぬよう演出の工夫を凝らせば凝らすほど空回りしていくのに苛立ったんじゃないかなあなんて思いました。
それで、『いま、会いに』のラストなんですが、それが絶妙でした。再度彼女があちらの世界に行ってしまった後、残された夫とその息子が二人、すでに父親の背丈くらいに成長した息子とくっついて身長を測るシーンで締めくくられるんだけれど、ここで父役の中村獅童がこれ以上にないってくらいのタイミングで背伸びをするんですよ。編集の助けもおそらく借りながらにせよ、じつにすすっと。これがまたゾクゾクもので、このときの僕は笑いと涙がばばっと出てきてどうしようもなかった。それは何故か。
じつはこのシーンは、父のほうが息子に「背伸びなんかするなよ」と言って牽制しつつ、息子に負けじと自分の方こそ伸び上がるという、微笑ましい一場なんですけど、さらにここでの彼らの身長の測り方が曲者で、お互いの背中をくっつけながら測るわけですよ。そう、もうおわかりでしょう。お互いの背中をくっつけながら、どちらが高いか低いかを確認することは、両方ともできっこないわけです。
ここでカメラの存在が問われねばならないわけですが、そんな二人を捉えるカメラの立ち位置はといえば、すでにここにはいない母が息子に贈ったホールケーキをそえた食卓のこちら側、という按配。むろん、このケーキは母が直接贈ったわけではなくて、息子が18(このシーンがまさに18、つまりイニシエーションの最終段階の日)になるまでの毎年の誕生日に、ケーキ屋に頼んで届けてもらうようにしたケーキ(このほか、『死ぬまでにしたい10のこと』に似た演出がいくつか施されているのですが)なのですが、とにかく、ここでカメラは、このケーキがならぶ食卓をはさんで、二人を捉える格好になる。
要するに、二人がたけくらべをするシーンは「それ」だけでは不十分ゆえ、カメラのいまこちら側にいる私たちにあちらに参入して、どちらが高いかを確認するように強い、父のお茶らけを受けて、しかたがないあなただなあと微笑ませるわけです。もちろん私たちのカメラを媒介した視線は、彼女の視線でもある。ここにおいて彼女は何度もよみがえる、いま、会いにゆくことができる。(また、二人のこうした振る舞い、つまりもう一人を必然的に呼び寄せる振る舞いを支えているこの視線は、二人の男たちの幻想=視線とも重なる。)この一連の会合に、私は思わず涙してしまったというわけです。

私はかつて、記憶喪失ものについて書いたところで、それをテーマにするときは批評が必要だと書きましたが、ここには批評があると思う。こんなふうに見る者の視線をも、イメージを組み立てる上での参照項(媒介)として目配せする批評的なスタンスは、見る者の感情をたくみに誘導しなければならないエンターテイメントとしても有効に機能するはずなのです。

追記:まあ基本的には男の子的な欲望に支えられた作品なんですけどね。そういえば、記憶障害もので最近見たもののなかで、韓流映画『私の頭の中の消しゴム』はけっこういけました。最初の運びは非常にたるいし、多くのレヴューで貶されたりしていますが、僕は擁護したい。といってもこれは、記憶障害ものラブストーリーとしてみるのがそもそもの間違いで、むしろ「少女漫画」(女の子的な欲望)のパロディなりパスティーシュなりカルカチュアとしてみるべきだと思う(監督、男だし、けっこう真面目に撮ってるつもりでいるみたいなんだけどね)。その覚悟で見ると、批評性のある作品として見られるし、ラストのオチはあまりにも素晴らしく必然的なものに思えてきて、大いに涙したこともなんてことはないとさえ思えてくるわけでした。

*1:日本のサブカルチャーは、世界最終戦争だのポストヒストリーだの、ハルマゲドンを背景にした物語を非常に好むけれど、これなんかと関係があるんでしょうかね。ご存知の通りよみがえりものは、すでに終わったものと関係を結ぶわけですが、このフィクショナルな関係も間もなく終わりが訪れることをわかっていながら育まれる、とてもメランコリックなものなんですよね。エヴァだのナウシカだの最終兵器彼女だのドラゴンヘッドだのAKIRAだの弥次喜多だのも、終末観ただよう世界を舞台にしながらさらなる破局にむかうものでした。世界は二度殺せ。一度目はフィクションの自覚のために? 二度目こそ本当にリアルなものの到来のために? まあとはいえ、こういう図式は、どの文化を探してもありそうな発想ですけどね。

*2:三村

*3:つまり、べたテーマを批評的スタンスから解きほぐしつつ、といっても見る者をシラけさせちゃあ駄目で、それなりに感情移入させ、あわよくばべたに泣かせる、といういささか複雑な手続きをたどる演出。