感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

文芸メモ

最近ようやく単行本化された阿部和重氏の『プラスティック・ソウル』を読み、そこに併載された福永信氏の解説文「「プラスティック・ソウル」リサイクル」を読みました。
「リサイクル」の方は本文を解説しているわけだけど、それがまあ微に入り細に入りで、よくぞまあ根気よく読んだことだろうと、恐れ入った次第。作品の構造をこんなふうにきっちり読み解く姿勢は、カルスタ・ベースの最近の文学研究ではマイナーなポジションになっているので、阿部氏の作品というそれなりに目のつきやすいところに置かれた意義は大きいなあと思います。ただ最近の文学研究者(院生をふくむ)で、阿部和重の作品をおさえているひとが、どれくらいいるのかと考えると、うすら寒い思いもするのだけれど。
ただ、「リサイクル」を読んでいると、それが緻密で見事な種明かしであるだけに、批評の虚しさをも痛感させられる。この虚しさ(というか虚しさのわりに合わない努力)を避けるべく皆カルスタとかに逃げたのかなって勘ぐりたくもなったんですけどね。

とにかく、単行本になったプラソルが、阿部氏のキャリアを僕的に読み直すきっかけとなっている昨今なのですが、今回はじめて彼の対談集も読んでみました。色々目に付いたところはあるのですが、例えば東浩紀氏と法月綸太郎氏との対談で、東氏が、舞城王太郎氏と阿部氏との重なる部分に注目し、(1)メタフィクションへの志向性、(2)サーガ的想像力、(3)ハイカルチャーサブカルの間、複数のメディア間のフレームに対する配慮、などを挙げていました(他に暴力描写など)。東氏による舞城氏への指摘は、すでに「ファウスト」紙上の批評文(「メタリアル・フィクションの誕生」2004VOL2)で読んでいてとても面白かった記憶があるのですが、こんなふうに阿部氏との類似点を挙げていくと、逆に、何故ああも違った印象を、二人から受けるのだろうかということが気になってきません? 
そもそも文体がぜんぜん違うわけですが、舞城氏と並べてみると、阿部氏は切断のひとだなあとつくづく感じる。むしろ彼は、ときに手に負えなくなる過剰さがしばしば指摘されるわけだけど、とても節度のある人だなあと。阿部氏特有のぎこちない視点の切り替えは言わずもがな、『グランド・フィナーレ』の、あの名立たる(?)ラストの暴力的な切断も(僕は読了したとき、まじで落丁しているのかとさえ思った!)、蓮實氏との対談でその理由が説明されているんだけれど、彼のそういう性格をよく表現していると思う。
以上のことをもうちょっと言い換えれば、阿部氏の過剰さは、この切断において批評性が裏打ちされているというか、過剰さと切断への身振りが批評的に対峙しあっている、ということなんだろうと思いました。
舞城氏は、多くの読者が頷けるように、やはり、切断などものともしない過剰さ冗長さが魅力なのだと思う。これだけで十分すぎる強度をもっていると一愛読者の僕なんかは思うのですが、ただ、彼が純文学とミステリ、ハイカルチャーサブカルの間を批評的に横断しているという見解をしばしば耳にするとき、じゃっかん躊躇するんですよ。
舞城氏は、確かに、両方のジャンルに書く機会が与えられている稀有な存在なわけですが、一方の純文学のテリトリーでは、相対的に純文学的な文章を書き、ミステリのテリトリーでは、そのジャンルの形式を踏まえたものを律儀に書き分けるでしょう。単純に、両ジャンルに批評的なスタンスを取ろうとするなら、逆のような気がするわけですが、どうなんでしょうかね(「新潮」05年5月号「ディスコ探偵水曜日」などは性格を異にしますが)。ちなみに、舞城氏特有のメタフィクションへの志向は、当然、ミステリの側で存分に振るわれることになります。形式への配慮は、いまや純文学よりミステリの方が徹底されていますから(ミステリにおいて新本格が出る以前は、純文学の方が形式により意識的だったわけですが。もちろん人によるけどね)。

それからもう一点、ミステリをとりあえずの出自とする舞城氏が、これほどまでに純文学に受け入れられているのに、それ以前の新本格(以降)のミステリ作家、とくに竹本健治氏なんかがまったくもって純文学に関心をもたれないのは何故なのか、という疑問が僕にはある。なぜでしょう? たとえば東氏は、舞城氏の特徴として、(1)メタフィクションの追求とそれへの懐疑、(2)ハイカルチャーサブカルの間、複数のメディア間のフレームに対する視線、(3)自分の拠って立つジャンルの市場なり業界に対するマニアックな自己言及、などを挙げていたわけですが、このようにとらえられる文脈は、新本格以降のミステリ史においては、竹本氏がより追求、徹底していたものです。とりわけ『匣の中の失楽』から「ウロボロス」シリーズにかけての竹本氏ですよね。(このへんの竹本氏のことは、昨年の8月3日のレヴューにもちょこっと書いてます。)
舞城氏の『九十九十九』の、メタフィクションへの追及と脱臼をくわだてる叙述の大枠は、たとえば『ウロボロス偽書』と重ね合わせることができるものです。舞城氏の、叙述形式と複数フレーム間にわたるスタンスから純文学が何か刺激を受け、学ぼうとするなら、そのあたりもきっちりトレースするのもきっと面白いと思いますよ。竹本氏には、舞城氏とはまた違った厳密さがありますから。
竹本氏のみならず、新本格なるものは、厳密な理論構築にともなう形式への配慮と同時に、いわゆる叙述トリックなど過剰な形式をも鬼子のように抱え込んだジャンルなわけです。