感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

政治の分業体制

まだわかりませんが、民主党永田寿康議員がメール告発の件で議員辞職する意向を示しているようです。僕が以下に書く文章は、彼個人を擁護するとかしないとかとはまったく無関係です。ただこの騒動に関して思うところを書きました。先日のブログとあわせてお読みいただければ幸いです。


民主政治においては、基本的に、自由な行為が先に権利として与えられていて、それから生じる責任は事後的にとるものとされている。それゆえ、行為はそのつど一定の拘束力をともない、その責任のもとにおいてなされるわけで、単なるやり逃げは阻止される。
しかし、今回の永田議員の告発に端を発する騒動は、責任論が先に先に前倒しされた論潮に支配されているような気がしてとても息苦しい。発言が100%正しい、真実だ、誰をも傷つけるものではないとわからないうちは、その発言は責任感のないものとして批判されるという事態は何事か? 匿名ならまだしも、実名入りの発言がだ。
ガセだったら批判され、責任を問われる。そんなの当たり前だ。しかし、最近の永田発言批判を見ていると、ガセじゃないのかどうか予めわかっていない発言、人を傷つけるかどうかわかっていない発言、つまりその発言がもたらす影響すべてを把握していない発言は慎むべきだというもののように感じる。
発言者がガセか否かを事前に調査する配慮が足りない(軽率だった)か否かというモラル上の程度の問題と、その発言がガセか否か(という事実確認)の問題がごっちゃになっているのである。議会がまず取り組むべきこと(として私たちが期待すること)は後者じゃないか。


民主党自民党双方のバッシングのされ方を見ていて最近思ったこと。議会制政治にはままあることだと思うけれど、こと現在の日本においては、政権を握る第一党がホンネ(その時々の市場原理に見合った動向)をあずけられ、第二党にはモラルや良心といったタテマエが求められているといった印象が顕著にうかがえます。
むろん古くから実質的な政治権力と象徴的な権威(天皇制)を使い分け、戦後以来もほとんど政権交代がなく、ホンネとタテマエを使い分ける国として語られてきた日本にとっては見慣れた光景なのかもしれないし、そもそも議会制の政党政治においては第二党が与党のチェック機能を果たす立場に立つことはなんら不思議ではない。
しかし、ここ最近、この政治上のホンネとタテマエという図式が過剰にというか固定的に割り振られ、このような分業体制が自明なものになっているような気がしてならない。よく小泉氏(自民党)はテレビ映りがいいとか、メディア操作・広報を巧みに利用しているとか、それこそ小泉マジックだとか色々と偶像視されているけれど、むしろ私たちは、小泉氏はじめ政権与党は何をしても一切許される、許してあげよう、許されるべきだという環境をお膳立てしてあげている側面があるのではないか。いま一度考えてみる必要がある。
逆に言えば、いまの第二党はあまりにも完璧すぎるモラルが求められていて(ネタ上げから証拠集めとその裏付けまですべてお前らがやれ!って言うかそれが全部できてないまで勝手に喋るな!)、このままだと逆に本来のチェック機能さえ果たせない状況に、私たちは彼らを追い込んでいるのではないかということです。
この状況を言い換えれば、私たちの現在しがみついているモラルは、以前のようにタテマエ的なものではなく、単なるホンネ(功利的な市場原理主義)がモラルになっているということでもある。小泉自民党はこのような文脈下にある世論操作を巧みに行っているとは言えるが、現状の波にただ乗りできていると言ったほうがおそらく正しい。かつてのようにホンネを言えばタテマエに反する時代ではなく、ホンネを言いさえすれば、もれなくタテマエ(モラル)までついてくる時代なのだから。
じゃあ、本来のようなモラルはなくなったのかというと、そうではなく、それを私たちは第二党にのみ過剰に押し付け期待するわけであり、与党の尻拭いをさえさせている可能性があるような気がする。(注:「ココヴォコ図書館」さんの「マシニスト」レヴューに触発され、そのコメント欄にクリスチャン・ベールの身体に、映画の作り手がみずから放棄した批評性を全部「外注」していると書いたことがありますが、いまの与野党におけるホンネとモラルの関係はそんな感じがします。「ココヴォコ」さんの「マシニスト」評も大変鋭いので、是非1月23日の日記のトラックバックから行ってみてください)


自由競争をモラルとする者は、漠然とした公益(タテマエ)よりも、公益の主張によって損なわれる具体的な私益(ホンネ)の損失を重要視し保護するだろう。セキュリティの問題しかり、プライバシーの問題(個人情報保護や知財権保護もふくむ)しかり。昨日の党首討論で小泉氏がくり返し「具体的な個人」の被害を、自分の論拠にしていたことを思い出そう。
かつての与党は公益性、公共の福祉を擁護していたわけだけれど、いまや立場が変わり(6、70年代を境に徐々に変わるのだが)、公益を二の次にしているということはよく知られている。世の趨勢は構造改革だし自由競争だからね。これが言い過ぎなら、私益・私的な安全性確保の尊重が公益性に結び付くという考えだということなのだろう。

彼らは私たちにこういうのだ。何か言ったりしたりしてもいいが、それは当然実名でなされねばならないし、間違えだったりしてひとに迷惑をかけたり人を傷つけるものであってはならない。予め自己責任でそれらを把握した上で、事を行え。まっとうな意見に聞こえるかもしれない。しかしどこか息苦しい。息苦しいから、その突破口として私たちは小泉自民党や堀江氏になにかをみようとしてきたのではないか。それは私たちに確かに色々なものをもたらしてくれたのだろうけれど、しかしその方向ばかりで間違ってはいないのだろうか?