感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

風説の流布だとか知ったような口をきくな

民主国家を標榜する以上、不正告発の声を上げる権利は誰にでも開かれている。たとえそれがガセでもだ。しょせんガセだとわかれば、それ相応のペナルティが課されるにすぎない。それを審理するためにこそ様々なチェック機関なり制度が設けられている。マスメディアがそうなのだろうし、国会ではいま話題の国政調査権がその一つであり、それに何より私たちには司法という場所が開かれている。
ライブドアの何某から3000万円銀行口座に振り込まれたという、公にされたネタをガセだとみなすなら、その当人が出るところに出て訴えるなりなんなりすればいい、ただそれだけのことじゃないか。
そういう局面を考慮する素振りも見せずに、当人が傷付いているとか不安になっているとかいう理由をあげて頭ごなしに敵対的な発言を批判する人々が、民主政治の枢要に立つ者のうちに少なからずいるということにちょっと驚いたけれど、こういうロジックはけっこう今風なのかなとも思った。いま話していることは、ネタを振った側にガセか否かの説明責任があるとか、振られた側にあるとかいう水掛け論ではない。民主主義の根幹に関わる話です。
誰かの発言によって傷付いた人がいるんだったら、その当人が訴えればいいだけの話でしょう。国会は国会においてその使命を果たせばいい。かりにも国民の一代表が上げた不正告発の声である以上は、敵対する党であれ、その発言の審理にくわわり白か黒か明らかにすればいい。ただそれだけのこと。頭ごなしにガセだから審理をするまでもないと考えるのは、個人的には余りにも非民主的だと思うけれど、それも彼らなりの審理の仕方である以上、そうしたければそうすればいい。その態度は国民の審理によって裁断されるわけだから。
しかし人が傷付いているとかどうのこうのは、この件においてはまったく関係がない。親や身内がするようなことと国民の代表がすべきことをごっちゃにしている。もとより親にも政治家にも庇護されず、ときにはそれらと敵対しながら権利回復を戦っている人たちも無数にいるし、それが当たり前だというのに。