感情レヴュー

中沢忠之、『文学+』を刊行する「凡庸の会」同人

江夏豊はなぜ阪神の現役であり続けなければならないのか?

ここ十数年、記憶喪失とか記憶をいじることで物語を作り出す傾向が一つの主流になっていることは、映画とかマンガをそこそこ消費している人にとっては自明なことでしょう。たいていは物語に感動かサスペンスをもたらすなり補強するための要素として「記憶いじり」「記憶障害」は採用されています。
いずれにせよこういった趨勢に対して「批評」(それなりの自覚というか覚悟)がなければその作品はだめだと思っています。僕自身「記憶いじり」ものはとても好きで、これだったら泣けるかなとか、はらはらどきどきさせてくれるかなとか思いながら各作品に面と向かうわけですが。
「批評」と言いましたが、「批評」とは感動やはらはらどきどき感をダサいとか皮肉って押し殺してしまうものではありません。いまや感動だってサスペンスだって誰もが馬鹿馬鹿しいと思いながら消費されるものなのですから、感動ものにしろサスペンスにしろ「批評」がなければならない時代なのです(「批評」がこれっぽっちもないのに、売り方がうまかったり広告にお金をかけたために、素晴らしい感動作品とか評されるものがありますが、それは商売人の頭が切れたか、たんに資本を持っていただけで、決して作り手が素晴らしいわけではありませんから、勘違いしたくないですね)。

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

最近、小川洋子氏のベストセラー小説『博士の愛した数式』が映画化されて巷の話題になっています。この作品に対してちょっと批判的なことを書きますが、僕は基本的に好きですし、最近、作品の質と売り上げ数がどう考えても見合わないような作品がけっこう出ていた業界のなかで、この作品の評価のされ方と売り上げ数は質に見合ったものだと考えています。それでもなお言いたいことがあったので以下に書くわけです。
これも記憶障害ものですよね。僕もこれを読んだときはじんわりくるものがあったし、ほどよいサスペンスも感じたものですが、これは作品に批評があるからなのか? そのへん疑問に思うところがあるので、以下に書きます。この作品は決定的なところで「批評」を回避し、人を感動させるために物語を組織していると思わざるをえないところがあるような気がするから。
秩序だった物語を組織する以上、何かを犠牲にせざるをえないわけですが、それでもなおその犠牲を阻止しようとする「批評」を手放したとき、物語は犠牲やむなしの論理に彩られることになります。「犠牲やむなし」と「犠牲にせざるをえなさ」は同じく犠牲を抱えてしまうとはいえ、まったく別ものです。

ただし、この作品には、スパイスのように効く批評はふんだんに仕掛けられてあります。たとえば人物の関係が良好なときでもたえず欠落の要素なり喪失感を導入するような、甘いものには少々の塩をきかせるといった具合の。そもそもこの作品の基本的なスタンスは、人の関係性には√とか素数みたいにその関係から逸脱したり欠落したものが必然的に存在し、それがあってこそ関係はそれなりに結ばれるといったもので、だから記憶喪失というのは小川氏にとってはとっておきのプロットでもあるのでしょう。
それは欠落なり喪失感に対するフェティッシュな愛着で、そういったメランコリックな感性は誰にでもあるものだと思いますし、この感性をくすぐるのが非常にうまいという印象がこの作品にはあります(この感性をうまく利用して一時代を作り上げたのが村上春樹氏ではないでしょうか)。ただ小川氏の少なくともこの作品に限って言えば、欠落なり逸脱した(関係性の)犠牲者は、犠牲者であり続けてもらわなければ困るし、これらの関係性を揺るがすような主張をしてもらっては困るという思いを感じる。
この作品でそれを象徴するのが作品上最も中核となるプロット、博士における阪神時代の江夏の記憶でしょう。博士の記憶は、事故に見舞われた1975年以来記憶が80分しか持続しない。75年以来の出来事は80分ごとに抹消されてそのつど記憶の書き込みをリトライせざるをえなくなっているわけです。
その彼は75年当時阪神で活躍していた江夏に魅了されていたのだけれど、物語が進行する92年の段階においても江夏が当時と同じように活躍している、という記憶の中に生きている。80分でそれまでの(80分ぶんの)記憶が抹消されるんだから、それは当然のように思えます。
しかし博士は記憶をリトライさせるごとに、自分は80分しか記憶がもたず、それゆえ自分だけが時代の進行に取り残されているということを確認する努力をしている。たとえば「80分しか記憶がもたない」等々の札を身につけることによって、あるいは、数学の懸賞に応募するという社会活動をするために毎号新しい数学雑誌を手に取り確認することによって。それに、ヒロインの家政婦が毎日息子を連れて博士に会いにくるということも、その努力の営みに一役買っているといえます。
だからこそ彼らは、80分という制限を越えた、固有な関係をはぐくむことになるのでしょう。一日経てば再びゼロから編み上げられざるをえない関係だけれど、それでも諦めずに継続されることによって何かしら築き上げられているように感じる固有な関係。その試行錯誤が感動を呼び起こすのです(たとえば「君が料理を作っている姿が好きなんだ」と不意に話しかける気難し屋の博士のこの言葉は、博士の「私」と呼びかけの対象「君」との固有な関係、制限を越えてとどめられている固有な記憶の関係が二人の間に切り結ばれていることに気付かされる、すくなくともそういう錯覚を覚えるのに十分な台詞である)。
しかし、江夏だけはどんなことがあっても、つまり家政婦の息子(ルートくん)からすでに引退している事実を聞いても、毎日阪神戦をラジオで聞き、球場に見に行くことがあっても、75年当時のままであり、「今日は江夏は投げないのか」と聞き続ける。この博士の純粋さを示す単調さがまた感動的なのだし、ヒロインたちも75年当時のままそっとしておいてあげるべく博士との間の会話は江夏がまだ阪神の現役だということにしていて、この何事にも動じない「博士の江夏」が物語を通して、またラストに向けて重要な感動の要素となっている。
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家政婦の息子が博士に、「江夏はトレードされたよ。僕が生まれる前に……それにもう、引退したんだ」と言うシーンがあります。記憶障害の事実を毎度知らされてもつねに冷静さをつとめる博士なのに、このときばかりは過剰にうろたえる。その結果、家政婦とその息子は博士の前では、江夏は「阪神の江夏」のままであることにしようと打ち合わせすることになるわけです。これを二人は博士に対する(騙しているように感じてためらわれるものの)配慮だというふうに考え、これ以降「博士の江夏」は阪神の江夏であり続けることになるのですが、つまりこの場面は、作品において中核となる感動プロットを打ち込んだところでしょう。ここはきわめて用意周到になされているので、「博士の江夏」が作品を通して阪神の江夏であり続けることを説得的なものにしています。
しかしこれは、記憶の都合のいい操作というか、感動のストーリーラインのために操作されたもので、むろん作家はそれをよく分かっていてやっているのだろうけれど、私には納得ができなかった。ウェルメイドな物語として泣けたけれど、僕が理想とする「批評」のある文学作品としては泣けないというか。
そもそも、江夏だけが「今日は投げないのか」と言われ続けるところがやっぱり異様に感じる。80分の制限があるといっても、家政婦やルートとの関係を通して他の様々な記憶の断片が浮き沈みする契機を描いていて、そのありさまが作品に機微のある表情を与えたりするのに、江夏だけは現役・阪神であることに変わらないし、いささかの動揺も見せない。他の記憶に比べて、江夏だけは、ルートに事実を聞かされてあれほど動揺した記憶の核心部に触れるようなものだというのに、である。
まあこのへんの不平は一読者としての他愛ないものにすぎないのだろうけれど、いずれにせよ、僕が心から感動できるものはといえば、感動のために(組織的に)排除された記憶の断片が不意打ちしてくるようなものです。むろんそれは改めて予期せぬ犠牲を生み出すものでもあるのですが。


(「不意打ち」とか「犠牲」といっても、映画でありがちな予測範囲内の不意打ちと犠牲で感動させようとしても駄目。最近のもので今思い出せるだけでも「バタフライ・エフェクト」「マシニスト」「エターナル・サンシャイン」など記憶障害ものは数知れずあるけれど、もうこの手のものは飽和状態だなと感じる。これまでのものより何か付加価値をつけようとして涙ぐましい努力をしているのはわかる。でもそれは物語の筋を無駄に複雑にしているだけ。観る者のどういった感情を揺さぶりたいのかが伝わってこない。博士にしてみればもう80分ぶんいっぱいっぱいという感じ。こういうときにこそ「批評」が必要。記憶障害ものの歴史を振り返ってみるのもよし、他の隣接するジャンルをうかがってみるのもよし。でも、何をいったいどうしたいのかがまったくわからない今のような状況も嫌いじゃないんですけどね、「バタフライ」のいい加減さとか「マシニスト」の批評のなさとか「エターナル」の混乱具合いとか、現状の「ハンター×ハンター」に通じるところがある。いずれにせよ、行き詰まりを感じたり、逆に余りにもきれいにまとまってしまったりするなら、一度自分は何を犠牲にしているのか、何を犠牲にして成り立っているのかを考える必要があるのではないでしょうか? いま渦中のホリエモンこと堀江さんにもそれを強く感じました。)